Cave
ナツメ
Cave
お前は美のイデアだ。
と、貴方は言う。幾度も幾度も、ありとあらゆる言葉を用いて何度でも。俺は知っている。例えば、俺が気まぐれに脚を伸ばして、その爪先にキスをして、と乞えば、
私は喜んでそこに口づける。お前の望みだったらなんだって。お前が美しくあり続けるためだったらなんだって。どんな高級なものでもお前に与える。豪奢な毛皮も、煌めく宝石も、お前の前では色褪せる。それでも、お前の美しさをより一層引き立てるスパイス程度にはなるだろう。そうして彩られた瞬間を私は捉える。光で影に焼いて、この世界に美というものが存在していることの証明を積み重ねる。
それは祈りに似ている、と俺は思う。貴方はカメラを手放さない。あらゆる瞬間、あらゆる表情をそのカメラに収めようとする。まるで、手に掬った水を溢さないように、溢してしまったら全てがおしまいだとでもいうように。その手の窪みの中には俺が泳いでいて、まるで、一瞬でも撮り損ねたら俺が死んでしまうみたいに。でも、死んでしまうのは貴方の方なんじゃないだろうか? そんなことを思いながらも、俺はただ、貴方の望む俺の姿を見せる。
しかし時折、お前は私を困らせる。例えば、
殴って。
なんて。お前には傷ひとつついてはならない。そう言い含めるとお前は拗ねたように、しかし瞳に僅かな怒りと失望の色を灯して目を伏せる。炎と氷が混じり合うようなその色も、それを覆うように
そんなときに俺が考えているのは、俺の存在価値について。もしこの頬をナイフで切り裂いて、引き攣れた大きな傷が出来たら、俺は生きている意味があるのだろうか? 顔に傷がある俺はもはや存在価値を失って、ゴミ同然に打ち捨てられる。もしくは、貴方は狂ってしまうのだろうか。もしかして、それでも、俺を愛してくれるの。勿論俺はわかっている。人間の価値は
お前の美しさは日に日に増していく。ファインダー越しに目が合うと、ぞっと寒気がする。私はお前が恐ろしい。撮っても撮っても、紙に焼き付いたお前は、いま目の前にいるお前より醜くなってしまうのではないか。確かに実在するこの美を記録すること、それが私が生を受けた理由だと確信している。それなのに、一度もそれを為し得たことはないのではないかと。そんな時私は、過去に撮ったお前の写真を見返す。薄っぺらな平面に閉じ込められたお前は、今よりも幼くはあるが、やはり美しく、私は安堵する。今のお前は壮麗で、この世の財宝を並べても敵わないほどではあるが、それは過去のお前自身の美しさを否定するものではないのだ。
ここに来てどれくらいになるのだろう。貴方と俺の関係は、最初からこんなふうだった? 違う。俺はただ貴方が好きだった。貴方は俺に愛を囁いてくれたはずだ。そうだった。きっとそうだった。貴方は気まぐれに写真を撮って、それは俺が好きだからだと思って、でもその気まぐれの写真が賞を取って、何かがそこから狂い出したんだ。ねえ、貴方は今でも、俺を愛してるの?
そう問われて、私は言葉を呑み込む。愛している。勿論お前をこの世の何より愛している。しかし、それを言葉にするのが、いつからか憚られるようになった。私は所詮ちっぽけな人間だ。しかし、お前は違う。お前は神に祝福された存在だ。この世で唯一無二の存在。お前の美しさそのものが神だと言ってもいい。お前を守り、お前の実在をこの世に残すことが私の使命だ。これは神託だ。私は預言者なのだ。預言者が神に私的な感情を向けるのはおかしいだろう。神を愛するように、私はお前を愛している。
せめて、貴方が功名心に駆られればどれだけ良かったか。俺以外のモデルを手当たり次第に撮るようになって、俺が嫉妬して喧嘩別れ、なんて結末だったらどれほど良かったか。貴方は俺をここに閉じ込めた。俺の姿の写しだけが世界に拡がって、俺自身は誰の目にも触れないで。俺は、この肉体を持つ俺が本物なのか、貴方の撮った影が本物なのか、わからなくなってくる。貴方に撮られることが、この世に存在し続ける唯一の方法。それに、俺がいうことを聞いている限り、貴方は俺に触れてくれる。俺を抱いてくれる。その時だけ、この肉体こそが自分自身だと感じることができる。貴方にとってそれが、もはや儀式めいたものだとしても。
神の望むものだったらなんだって。己の肉体などいくらでも差し出す。神と交わるのは畏れ多くも誉れ高いことだ。私の下でその長い首を仰け反らすお前は美しい。
ある日。
ふと、気付いた。顔になにか違和感がある。
目元だ。目尻の辺りだ。
本来、ぴっと張った皮膚が存在すべきそこに、
――皺。
それが皺であると認識した瞬間、心臓からすべての血液が抜け落ちたような、おぞましい感覚に襲われた。
そんなことがあってはならない。この顔に、皺などあってはならない。それは間違っている。これは夢だ。きつく目を閉じて、早く醒めろと念じる。もう一度目を開いても、現実は変わらなかった。
それは、この世の終わりの合図だった。
貴方と俺は、もうひと月も肌を重ねていなかった。互いに絶望し、憔悴しきっていた。具体的な言葉は交わさなかったけれど、貴方が何をするのか俺にはわかっていたし、俺がどうするかも貴方はわかっている。夜の
愛している、と何年ぶりかに口に出した。
でも、その視線は少しもこちらを見ないのを俺は知っている。二人して天井を見つめている。その言葉を貴方が口に出来てしまったことが、答えだった。
お前は俺を愛しているのか、と愚かしい言葉が口をつきそうになった。何を今更。それに、その答えを聞くのが、恐ろしかった。
そして二人とも口を噤んだ。部屋を満たす静寂のようなものが、実はシューという連続したか細い音であったことに気付く。そのか細い音と、鼻をつく臭いがじわじわと、いつもと同じ見た目をした寝室を侵食する。
ひとつ深呼吸をして、私は、
俺は、
目を瞑る。
そうして、俺は死にました。
それなのに、私はおめおめと生き残った。
死んで、冷たい土に潜って、ひんやりとしたここで、やっといろんなことがわかってきました。
あの皺を見たときに、私は世界は崩れ落ちる音を聞いた。形あるものは全て滅びる。しかし、お前の美の滅びはすなわち世界の滅びだ。お前もそれをわかって、言葉を失う私を悲哀に満ちた目で見つめ返したね。
俺は死ぬ必要なんてなかったってこと。世界は広くて、人間が生きても死んでも、そんなのは無視して世界は続くってこと。
滅びるお前を、早く、なるべく美しいままに終わらせるのが、私の最後の仕事だった。一緒に死のうと思ったのは私の傲慢だ。かつて、人間としてのお前を愛してしまった私の、弱さだった。
そして貴方にとっての俺も、生きてても死んでても、どっちでもいい存在だったってこと。
だから、私が生き残ったのは、これもまた神のご意志なのだろう。
だから、貴方は生き残っても、美しい悲劇の中で幸せなのだろう。
私は記録に残したお前の美しさを後世に語り継ぐという新しい使命を得たのだ。そのためにこの命は生き長らえた。
ガスの臭いがしたときに、逃げれば良かった。でもあのときの俺はもう冷静ではなくって、まともな判断力もなくて、貴方が俺のことをもう美しいと思えなくなりつつあるのは明白で、貴方が心中を企てているのもわかっていたけど、俺は貴方に見捨てられるのが怖くって。
私はもう二度と、自ら死を選ぶことはないだろう。この一生を、かつて実在したお前の美しさに捧ぐ。なんという僥倖。すべての写真を公表しよう。私が死んだあとも、お前の美しさは世に残るように。
そして俺のかたちだけが残って、見られたくないところも全部白日の下に晒されて、それなのに、俺がどんな人間だったかは世界にひとかけらも残らない。畜生。今更悔やんだってもう遅い。俺は冷たい土の中で、涙の一筋も流せやしない。
お前の肉体を
死んでわかりました。貴方は、俺のことなんか見ていやしなかったってこと。貴方が崇拝していたのは、貴方の中にしか存在しない、俺のかたちをしたなにか。
一番最後の写真を手に取る。この世の美しさの集大成。神の御姿。恭しくその爪先の部分に唇を寄せる。
そのなにかに全てを吸い尽くされて、空っぽになって、そうして死んで、この意識ももうすぐ消えて、ただ後悔だけを残して、俺はとうとう、無になった。
美しかったときのお前が耳元で微笑んだ、気がした。
Cave ナツメ @frogfrogfrosch
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
虚日記/ナツメ
★50 エッセイ・ノンフィクション 完結済 30話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます