第32話

「仕事は順調?」

 モーニングセットのサンドイッチを凜とシェアすることにして、樹はそれを頬張りなら、単品で頼んだココアを飲んでいる彼女に尋ねた。

「そうですね。問題ありません。」

「今度海外に行くんだよね?準備はできた?僕も以前アメリカに行ったことがあったんだけど、色々と大変だったよ。」

「準備は別の人がしてくれますから、私は何もすることがないんです。アメリカはどちらだったんですか?」

「ペンシルベニアだよ。すごく寒くて驚いたね。テレビのニュースで知っていたけれど、あれ程寒いとは知らなかった。それで、耐えられず家から出られなくなりそうだったから、勤務先に毛布を持ち込んで泊まっていたんだよ。でも、いざ家に帰ろうとしたらドアが凍っていてちょうど同じ場所で働く人が通ったからそこに少しだけ居させてもらったんだ。すると、気温が上がるからドアも開いてね。」

「そうなんですね。とても楽しそうな体験ですね。」

「そう。日本では決して体験できないようなことが多かったよ。後は、食事の量が多いのは知っていたけど、日本の普通サイズと思って頼んだピザが倍以上のサイズだったこともあったね。」

「結局どうしたんですか?」

「職場の人に分けたよ。あれを1人で食べたら健康に異常が出るよ。それに、1度冷えたピザは温めてもそんなに美味しくないんだ。油っぽくベトッとしてしまって食べられる物ではなくなってしまうよ。」

「そうなんですね。」

 彼女は樹の話に突っ込みながらも聞いていた。どこか楽しげに相槌を打つので、ついつい自分の話ばかりをしてしまっていた。

「ごめん。君の話を聞けないでいた。それで、イギリスに行くんだよね?」

「はい。向こうからの声をかけていただいているようで、編集者、以前お会いしたと思いますが、成宮さんの勧めでそちらに行くことになりました。」

「どれくらいの期間行くつもり?」

「3か月ほどです。2月から。」

「そっか。でも、思ったより短い期間だね。」

「そうなんですか。私には基準が分かりませんが、1作品のみの執筆なので、それぐらいに設定したんだと思います。」

 キョトンと彼女は首を傾げた。その仕草は年相応に見えないこともないが、やはり言っていることは大人のそれだった。

「そうなんだね。」

「はい。」

 そこで沈黙になった。彼女の様子からして彼女自身は現状に対して何も不満や不平がないように感じられて、今自分がしていることを切り出しにくくなった。海外に行くことを話題にしたのも彼女の気持ちを聞き出すための材料に他ならなかった。ここでの返答が予想外だったので、次の話題を探すのみ困っているというのが樹の正直な気持ちだった。それを隠すように凜にサンドイッチを勧めて味を聞いたりして場を繋ぐのが精一杯であり、ここで話題があったことに安堵した。

「内山先生。」

 そんな気持ちを察してか彼女がタイミングを見計らったかのように、凜が声をかけてきた。

「何だろう?」

「伊藤君はお元気になられましたか?」

 意外な話題に一瞬思ったが、あんな別れ方をした彼女が間接的な被害者である彼を気に掛けないわけがなかった。

「うん、元気だよ。手術も成功して、通院は後少し必要だけど日常生活に不憫はないまで回復した。」

「そうですか。良かったです。」

「君からの言伝も伝えたから。大丈夫だよ。彼は結構立ち直りが早いみたいだね。」

「本当ですか?良かったです。」

 彼女は嬉しそうに微笑み、そして心の底から安堵しているように見えた。表情は以前とそれほど変わらないが、やはり目が見えるようになったおかげで小さな彼女の気持ちの変化は読み取れるようになった。

「もうこんな時間だね。」

 そこで、ふと時計を見れば、すでに店に入って2時間は経過していた。すでに、ランチに切り替わっているような時間になっており、店に数人の客が入ってくるのを見た。

「出ようか?」

「はい。」

 彼女がマスメディアに露出するようになったことで、人に顔を認識されるようになったことはこのお店に入ってからチラチラと寄こされる客の視線で分かった。このお店はランチで3時からのティータイムに人が入るので、それまでに出なければお互いに迷惑をすると考慮して2人は急いで出た。


 店を出て少し歩いた所の公園の前まで行くと、人はほとんどいなかった。晴れてもいないこんな日に外で遊ぶ子供連れも子供たちもいないので、早歩きだった歩みを遅くした。いつの間にか彼女の手を引いていたようで慌てて彼女の手を放した。

「ごめん。掴んでいて痛かったかな?」

「いいえ。特に痛みはありませんでした。けど。」

 彼女は手首を違う方の手で掴んでいて、そして、顔は俯かせいていた。やはり、痛かっただろうと思い、しゃがみこんで彼女の手を取ろうとしたのだが、彼女は数歩下がってやんわり拒絶をされた。

「ごめん。分かった。触れないから。本当に大丈夫?」

「大丈夫です。本当に。」

「そっか。それならいいんだけど。」

 まだ少し顔を俯かせていたけれど、頬は赤くなっていて手首を摩っていた。その様子が気がかりだったが、少し気温が高くなったとはいえ、10℃もないこの場所にいるのは良くないと思い、彼女に住所を尋ねた。

「ええと、すみません、住所を覚えていないのですが、ここから徒歩で15分ほどです。」

「そうなんだ。僕のアパートから近いね。早く帰らないと怒られるね。送っていくよ。」

「少しは怒られるかもしれませんが、それほど酷いことにはなりません。送っていただかなくても大丈夫です。この辺りは最近の散歩道ですから、土地勘もつきました。」

「そうなんだね。じゃあ、実はすれ違っていたのかな。全然気づかなかった。」

「私も気づきませんでしたから。」

 そう言った時に携帯の電子音が鳴った。着信を知らせる音で彼女は樹に断りを入れてから電話に出た。会話を聞いていると相手は成宮のようで彼女は淡々と返していた。先ほどまで話していた彼女とは完全に別人だった。

「分かりました。今から帰ります。」

 電話を切って謝ってきた。

「すみません、もう帰宅しないといけないようです。」

「いや、いいんだ。僕の方が長い時間引き留めてしまってごめん。」

 それから彼女と別れたつもりだった。でも、やはり確認したいことがあって離れていく彼女を追いかけてその細い腕を掴んだ。それに驚いた彼女は振り返り目を大きく見開いた。

「あの、柊さん。君は今幸せ?」

 本当はもっとたくさんのことを訊きたかったはずなのに、彼女と会ったら訊きたいことは山ほどあるはずだったのに、目の前にすれば訊けたのはそれだけだった。しかし、その言葉が功を奏したのか彼女は一瞬顔色を曇らせたが、それも一瞬のことですぐにいつもの穏やかな表情に変わった。しかし、それが猶更樹にとっては張りぼての仮面のように思えた。

「私は幸せです。周囲に迷惑がかからないなら。そして、周囲が幸せに笑っていられるならそれが私の幸せですから。」

 と、彼女はそう言いきった。自分という存在は彼女の中で最も低い底辺の扱いなのだと知った。過去を知ったからこそ、少しだけ彼女のその想いが、そして感情が理解できた気がした。

「分かった。引き留めてごめん。執筆応援してるよ。」

「はい、ありがとうございます。内山先生。」

 それが、再会後に最後に交わした言葉だった。彼女の人生は自己犠牲で成り立っているかのように後ろ姿はまだ若いはずなのに老婆のように弱りきっていた。

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