第30話

 凛のことは画面を通してみることはあっても、診察スケジュールに名前を見ないことが見慣れてきた。相変わらず、何の表情も見せない彼女を週刊誌ではアンドロイドライターなどと面白おかしく書かれていた。それに怒りは湧き上がるのだが、それよりも彼女の顔色が悪くなっていることを心配していた。

 凜の過去を聞いてから早速いつもの人達に報告をした。誰もが固唾を飲んで聞き入り、怒りと悲しみが混じり合ったような表情になっていた。中でも伊藤教授は同い年の孫がいることもあってか、その感情は強いようで、力が抜けたように椅子に座り込んでため息を吐いていた。

「彼女はあんなにも真っ当というのもおかしいが、学生としてはどうかと思うが、それでも常識を持って生きていることが不思議だな。」

「そうかしら。そういう過去もあって、彼女自身が考えることもできたからこそ、あんな風に歪な大人になったのだと思うけど。だから常識があって生きていくことしかできなかったと思うわ。」

 彼の言葉にそう否を言ったのは桐山教授だった。そんな彼女に伊藤教授は肩を竦めた。

「考えてもみろよ。まだ、8歳かそこらの子供がやっと見つけた居場所で慕っていただろう人たちから“化け物”だの“悪魔憑き”だの言われて半ば強制的に出て行くんだぞ。母親という存在を失くして、痛みがやっと和らいだ時に更に大きな痛みがやって来るんだ。普通、そんなものに耐えられるか?まだ、子供だろうと彼女はそれほどに頭が回るのなら、もっと別のベクトルを向きそうな気もする。俺が彼女の立場だったら、憎しみと恨みで彼らに復讐するぐらいの気持ちは芽生える気がするな。そこまで行かなくても、出た後も彼らに資金援助をするなんて絶対できない行為だと思う。」

「確かにそうね。第2波の方が人にとっては辛いし、それで鬱になったり、自殺を考えるケースは多くあるわ。」

「そうだろ。人間安堵した時、精神が緊張から解かれるところに予想もしていない痛みが来れば、大人だって耐えられないんだ。まして、彼女はまだ小さい子供だった。普通、精神に何らかの影響があってもおかしくないと、俺は思う。」

 その話を聞いて、彼女の人生の痛みが想像もできなく落ち込んでいた自分を硬い鈍器で殴られたようだった。樹は彼女の過去の話を聞いて同情しただけに過ぎず、他の可能性があることや、そうならなかった彼女の精神の強さなど考えもしなかった。

「でも、そんなことを考えていても仕方がないし、そのことを言い始めたら決して霧は晴れない。現状、彼女は自分なりの常識を持って生きているが、おそらく己の親に囲われ、利用され、搾取されているようなものだからね。」

 ずっと聞き役に徹していた英知教授が言った。

「今後、彼女とどう向き合っていくかが大事じゃないかな。まあ、全く会えない今の状態ではそれを考えるのは二の次だね。」

「そうね。どうやって彼女のコンタクトを取りつつ、あの事件の事実を探らないと。フリーカメラマンとまだ未成年の秀則だけの証言だけでは弱いもの。何か物的証拠があればいいのだけど。成宮とフリーカメラマンの彼との関係が分かる証拠。まあ、そんな物は彼らが処分しているに決まっているわね。」

 桐山教授の言葉に、思わず、あ、という言葉が出た。それは沈黙の中では一際大きく響いたので3人の視線が集中された。

「どうしたの?」

「もしかしたら、それはあるかもしれません。」

「どういうこと?」

 訝しげに眉を寄せた彼女に樹は慌てて袋に詰めて持っていた荒木の所持品である成宮の名刺を出した。

「これは成宮さんの名刺ですが、フリーカメラマンの彼の話では成宮さんから直接受け取ったと言いました。つまり、それに指紋が付いているはずなんです。それが以前成宮さん本人からもらった名刺に付いている指紋と一致すれば、2人は何らかの関係があったっていう証拠になりませんか?」

 興奮気味になり、自分でも高揚していることが分かり抑えようとしても、全く口の早さは変わらなかった。これほどに急いた気分になる事など今までに片手で数えるほどしか経験していなかった。静寂になったのは一瞬だったが、誰もが唖然として目を丸くした後に怒涛の早さで詰め寄ってきた。

「お前、そういうことは早く言えよ。」

「そうよ。瞬発力があなたの持ち味でしょ。若いんだから。」

「鈍感にも程があるね。」

 伊藤教授、桐山教授、英知教授の順に突っ込まれた。それに苦笑しか返せなかったのは、どれもが的を射ており言い返すこともできなかったからだ。早速、2枚の名刺は英知教授に奪われ、それから彼はどこかに行った。伊藤教授もそれに続いて孫である秀則の診察が終わる時間だということで出て行った。残された桐山教授と樹はペットボトルのお茶を飲みながら少しだけゆっくりとした。樹は居心地が悪く感じられたが、彼女に視線で留まれと言われたような気がして出てもいけなくなった。

「もし、仮に彼女が柵から出られたとしても診察に来るとは限らないわ。」

 少し息を吐いて楽になったところで彼女が話始めた。

「はい、分かっています。」

「それに、診察を受けるにしてもあの子の過去は想像もできないほどに過酷で、アドバイスもできないことが多くある。1つの段差ごとに壁がある螺旋階段のようなものよ。」

「はい。それも分かっています。」

「覚悟の上なのね?」

 以前も同じ質問をされたことが思い出された。しかし、どんなに彼女、凜のことを知っても、壁が幾度となく待ち構えている道だったとしても樹の答えは決して変わることはない事だけは理由もないが確信があった。それは出会ってからどこか感じていた、くすぶっていた不思議な感覚の答えと同じだと分かった。年齢に似合わない彼女の態度、その曖昧さに惹かれたのだから。

「はい、僕の答えは今も変わりません。僕は精神科の医師ですから。彼女の症状改善のために彼女の手伝いをすることが役目です。それを果たしながら前に進めるなら、どんな壁でも壊して、どんなに長い階段でも登り切って見せませ。」

 言い切った時に胸がスッとした。心を覆っていた霧が晴れたような感覚で見晴らしが良くなった気がした。桐山教授は驚いたような顔をしてから、ニコリとどこか嬉しそうに微笑んでいた。

「良い顔になったわね。医者の顔をするようになったわ。」

「横暴になったってことですか?」

「違うわよ。自己満足のエゴイストね。」

「何ですか?」

「医者の治療は時にその患者が望まない結果を生むことがあるでしょ。医者としては患者を治療し、完治させることが果たさなければならない義務なんだもの。でも、患者の中には治らないことを望む人もいるの。それでも、医者は目の前の患者を自己満足のために治療し、それで憎まれたとしても気にしないエゴイストでないときっと務まらないのよ。偽善というね。」

「そうですね。」

 彼女の言葉に頷いた。医者という職業は感謝も憎しみも全てを消化させながら、落としどころを見つけて進み、その果てに自分の満足と利益を考える質に皆成り立って行くのだろうかと思っていた。凜に言われた言葉からもそれは確かに感じられて、彼女はそれを理解していたのかもしれなかった。

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