第29話

「すみません、話が逸れてしまいました。内山さんは凜の奇妙な症状のことをお聞きにいらっしゃったのですよね?」

「はい。その時の状況を。」

「分かりました。」

 院長はゆず茶を飲み干してカップをテーブルに置き、一呼吸吐いた。

「私がそれに気づいたのは4年前でしょうか。夜中になると、彼女は無言で起きてカタカタと何かを書き出したんです。私が声をかけても答えず肩を叩けば思いっきり叩き落とされたぐらいでした。まるで、人が代わったような乱暴さというか、目の前にいるのは凜なのに、別の誰かなのではないかと考えるほどでした。オカルト的には霊に取りつかれているような状態でしょうか。少しすると、凜が戻ってきて、まるでそれが彼女にとっての日常のように何を思うのでもなく、彼女はまたベッドに戻るんです。信じられますか?普通、自分に何が起きたか分からない場合は、悩んだり泣いたり困惑して訳がわからなくなったりするものだと思うんです。でも、彼女はそれを自然と受け入れていました。とても気味が悪く思い、私は数回見た時にはそんなあの子に耐えられなかったんだと思います。彼女を傷つけるような言葉を発して、後で後悔してももう彼女に線引きされた後で、彼女は小学校を卒業と同時にこの院を出て行きました。今でも、お金は毎月送ってくるんです。おかしいですよね?私はあの子を傷つけたのに、あの子は今も謝礼だと言って送るだなんて。恨まれてもいいはずなのに。」

 と、後悔ばかりで自嘲的な笑みを浮かべる彼女は語った。凜は院長たちに気味悪がられたからこの院を出たと言っていたが、院長はそれを悔いていた。お互いに話が言葉が足りていないのだと感じ、それの原因は凜の物分かりが良すぎる大人びた態度のせいだろうと思った。子供のように不平不満をダイレクトに言葉にして伝えないから、何も彼女たちは進展もせず展開も生まれなかった。話をしなければ人間関係に何かを生むことはなく、大人になるとそれをおろそかにして体裁ばかりを気にして、遠回しにしか伝えないから距離は縮まろうともしなかった。彼女たちを今や結び付けているのは凜が仕送りをしているという、ただその1点なのだろう。

「そうですか。私も実はこちらが悪いのに彼女に謝られているんです。だから、私も院長先生と同じで後悔しているんです。その後悔を晴らしたいので自己満足ですけど、今日は先生に直接話を聞きたかったんです。色々とお話しをしてくださりありがとうございました。」

「そうなんですね。では、私もそんなあなたに協力することで少しは晴らしたいと思います。あの子の役に立てるのならこんなに嬉しいことはありません。」

 院長の目から涙が流れたが、顔は朗らかな笑みだった。

「院長先生、最後に1つお聞きしてもいいですか?彼女のご家族のことはご存知ではないでしょうか?」

「確か、母親が1人いました。彼女の戸籍を確認するのに取り寄せましたから。ただ、その方は亡くなられたんですが。」

「それはいつのことですか?」

「彼女がこの孤児院を訪れた2週間前です。」

「原因など分かりますか?」

「病院から聞いた話ですが、道端で倒れた所を救急車に運ばれてその病院で亡くなったそうです。薬物中毒だったようです。」

「薬物中毒?」

「ええ。アレルギーショックです。何でも人にとっては市販の薬でもアレルギーを起こすことがあるそうで、彼女の場合はペニシリンだったはずです。」

「そうですか。その女性は外国の方ではなかったですか?」

「いいえ、日本名、確か紗栄子さんとおっしゃったような気がします。」

「分かりました。長い時間を取らせてしまって申し訳ございません。本当にありがとうございました。」

「いいえ、また、いつでもいらしてください。」

 そうして、ゆず茶を最後まで飲み切ってからその院を後にした。


 その日の夜、予約をしていた近くの温泉旅館に落ち着き、凜の過去を少し整理した。伊藤教授が安心していたと言っていたが、残念ながらほとんど先天性に近い状態で彼女の大人顔負けの態度は発揮されていた。そうして、彼女の母親はペニシリンアレルギーにより亡くなり、その2週間後、彼女は自分の足で4歳の時に孤児院の扉を叩いた。ひまわりの館ではほとんど従業員の手伝いをして過ごし、子供らしさはほぼ皆無で周囲の大人を困惑させていた。彼女自身もいつ我が身が追い出されるか分からないので、なるべく仕事を熟していたようだった。

「あの様子では彼女の仕事は無駄がなかったんだろうな。」

 院長の様子を思い出して思わずフフッと笑ってしまった。

 凜の戸籍には父親はおらず、やはり認知などは受けていないようで、服が酷い状態だったことから、金銭的余裕があったとも思えなかったので、仕送りなどももらっていなかったようだった。彼女が不眠症のような夢遊病のような症状に陥った時は人格が代わり、行動が乱暴になるが、執筆を邪魔しなければ何もなく、少しすると凜が戻ってきたように彼女は原稿をまとめてベッドに潜ってはいたようだ。

「何というかまだ14年しか生きていないのに、すでに波乱な人生を送っているな。」

 書き出していて内容に思わず頭を抱えた。自分の方が長い時間を生きているのに、彼女はきっと人が経験する負の内容全てを凝縮したような人生を送っている気がしたし、それで生まれる彼女の感情など決して凡人程度の自分には理解できない惨めさのようなものが感じられた。窓の外を見れば暗い景色に少しの灯に照らされた白い粒が静かに降り出していた。それがまた彼女のことを聞いた今となっては、まるで樹が想像したそのものだと感じた。彼女はきっとその小さな灯に照らされた小さな粒を貯めて生きてきたのだろうと思いながらそれを見ていた。

そうしてどこか切なく沈んだ気持ち数分窓辺に立っていたが、隙間風の冷たさに我に返り、頭を切り替えようにも明日の朝は彼女が母親と暮らしていただろう家に行くことを計画していた。しかし、彼女らが住んでいたアパートは老朽化と大家が亡くなったことが重なり、すでに解体され、雑居ビルになっていることを院長に帰り際聞いたので、予定が無くなったことを思い出した。手持ち無沙汰になったので、仕方なくチェックアウト時間ギリギリまでここで過ごしてから、ゆっくり帰ろうと思い立ち、頭を振ってから寝た。

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