第28話

 凜が診察の拒否をしてからすでに2週間が経過しており、彼女の悪い報道は嘘のように消え去り、まばゆい活躍ばかり、つい数日前の世界文学賞の受賞が決まったことが重なり、それらが報道されていた。しかし、そこで映る彼女は目が見えない時の方がよっぽど感情豊かに感じられるほど、目が見えていても無機質で人形のようだった。常に隣には成宮がいて彼はまるで自分の功績のように質問をする記者に話す映像ばかりが映されていた。

そんな週末、休日に何年ぶりかにクローゼットからボストンバッグを出して、1日分の着替えを詰めたそれを持って電車で移動した。電車移動もここ数年はしておらず、6年前に仕事で海外から帰国した時ぶりの電車で、電子マネー用のカードを購入したほどだった。電車の乗り心地はローカル線のため少し硬いクッションだったが、それがとても懐かしく感じたのは、数年前と変わらないことに安堵した気持ちがあった。

 電車で1時間半かかったが、何とか最寄り駅に着き目的地まではバス移動だった。バス停名にすでに目的地である、ひまわりの館前と記載しているので迷わなかったことは救いだった。

「ごめんください。」

 と、教会横に隣接してある建物の扉を叩いた。しかし、返事がなく、孤児院にしては子供の声が聞こえないので、不思議に感じたので、少し教会の周囲を散策しようと思い足を踏み出した所で、ギーっと教会の扉が開いたので、驚いて出した足を引っ込めてそちらを見た。開かれた扉から子供が数人出てきてこちらを見ると、目を一杯に開いてキョトンという顔をした。まだ、4歳か5歳ぐらいでその仕草はとても愛らしかったが、彼らはすぐさま教会の中に走って行った。

「院長先生―。変な人がいる。」

 と、大きな声で叫んでいた。

「こら!そんなことを言って走ってはいけません。」

 子供たちの肩に手を乗せてやって来たのは年配のシスターだった。彼女もまたこちらを見ると一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。

「こんにちは。あなたはどちら様でしょうか?」

「すみません。名刺がないのですが、S大附属病院の精神科医として勤務しております、内山と言います。」

「内山さん、ああ、勇君から先日電話がありました。あの、内山先生ですね。」

「勇?荒木さんのことでしょうか?」

「ええ。そうです。」

 院長は微笑み穏やかに答えていた。実際の彼女を見てとても凜が言っていた過去の中で凜に対してトラウマになるような非情な言葉を吐くような質には見えなかった。

 それから、子供たちは自由時間になり、院長先生に連れられて院長室に通された。

「どうぞ。体が温まりますよ。」

 と言って、彼女が出したのはゆず茶だった。一口飲めば外の一桁の温度で冷えた体が中から温まっていくほどにホッとする味だった。

「本当に温まります。美味しいですね。」

「そうですか。良かったです。子供たちと一緒に作ったシロップを使用しているんです。」

 誇らしげに彼女は話した。そんな彼女からは子供たちへの愛情しか感じられなかった。そんな彼女に嫌な記憶であろうことをどう切り出していいか、と頭を悩ませていたが、意外にも彼女の方からその話題を振ってきた。

「今日は凜のことでお話しがあるそうですね。」

 急な話題だったので驚き一瞬言葉に詰まったものの、ゆっくり頷いた。

「勇君から連絡をもらった時に、彼からあなたがこちらを訪問する時は彼女の話についてだと、そう連絡を受けていました。こう見えてもとても気をもんでいたんですよ。いついらっしゃるのだろう、1週間来なかったわ、いらっしゃらなければいいわ、なんて思ったりしていました。神に仕えても人の心は楽な方に偽り、嫌な記憶を誰かに語るのも探られるのも拒絶し、覆い隠そうとするものですね。私は時々そんな自分が嫌になる時があるんです。神へ罪を犯している気になってしまうんです。」

「こんなことを言っては、シスターという身分のあなたに対して嫌な言い方からも知れませんが、それは人間の心理としては当然なことですし、私たちは神にはなれません。ですが、院長先生、あなたはそうして悩みながらも、身内のいない孤独な子供たちに愛情を注ぎ自分の理想である人になろうと努力しています。そうであるならば、あなたは胸を張ればいいと思います。」

 思ったことを口にしただけだったが、院長はクスっと小さく笑った。

「とても素晴らしい考え方ですね。前向きで。」

「この考えは柊さん、凜さんに教えていただいたんですよ。」

「凜が?」

 院長が驚いた顔をした。

「はい。私は以前彼女と医者と患者の関係でしたが、その時にはまだ私もあなたと同じ過去に苦しんでいました。でも、そんな私に彼女はそう言ったのです。今、努力をしているなら胸を張って前を向けって。𠮟咤激励ってこういうことを言うんだって感動しました。18も下の子にあれだけ言われたら、そうならざるを得ませんよ。」

 数か月前のことを思い出して今更ながらにおかしくなり笑いがこみあげてきた。院長はそんな樹を見て優しく微笑み、ゆず茶に視線を落とした。

「そうですか。あの子は昔から頭の良い子だったし、考えも大人顔負けの所がありました。あの子がここに来たのは今から10年前のちょうど今頃でクリスマスに近かったころだったんです。彼女はどこから歩いて来たのかは分かりませんが、裸足で全身は服を着ていましたが、所々が破けていて泥まみれでとても見ていられないほどに酷い状態でこのドアを叩いたんです。自ら自分の手で彼女はそうしたのです。そして、応対した私はすぐに風呂にいれようとしましたが、彼女はその場から動かず膝を折って地べたに座り頭を下げてきました。“何でもするので置いて欲しい”と、彼女は言ったんです。そんな態度の子どもは今まで見たことがなく驚きました。私は“そんなことをする必要はない”と言ったのですが、彼女は頑として動こうとしなかったので、その頑固さに負けてしまって、“料理と洗濯物の干しのお手伝い”と言ったら彼女は嬉しそうに笑って頷き、やっと中に入ってくれました。」

「10年前ですか?でも、彼女は14歳になったばかりですよ。」

「彼女は5歳からと言っていますか?」

「はい。そう聞きました。」

「それは正しくありません。凜は4歳になる少し前にはここに住んでおりました。彼女の言うところの5歳からというのは、この孤児院に来た時ではなく、この孤児院の一員として認められた自分の年なのです。」

「どういう意味でしょうか?」

 意味が分からず尋ねた。すると、院長は悲しげな顔をした。

「彼女はそれからここでお手伝いのみをし、同い年の子とは決して触れ合わず、ただ大人たちを手伝っておりました。その時、彼女にとってここは置いてもらっている家で安心できる場所ではなかったのだと思います。いつ追い出されるか分からない、だから、何とか周囲に気に入られようと彼女は必死に努力していたように見えました。そんな彼女を見て私を含めた大人は困惑と、そして、そんな彼女に対してどう接したらいいのか分かりませんでした。難しい本も英語で書かれた聖書すら彼女はすでに読破していましたから、勉強の必要もなかったんです。そんな日が続いてもうすぐ1年が経とうとした頃、インフルエンザがこの院で蔓延しました。近くの小学校に通っていた子供の1人が持って帰ってきた菌が一気に広がりました。毎年、3人ほどかかるのですが、その年は子供のほとんどが同時期に高熱を出してしまって、その年は今以上に子供が多かったので、治療費にお金がかかり食費に当てられるのはわずかだったんです。そんな時、急に凜が私の部屋を訪ねてきて封筒を渡してきたんです。」

「まさか。」

「そう、そのまさかです。中には10万という大金が入っていました。それを見て驚き、最悪な展開が思い浮かんだので、彼女を少し強めに問い質したのです。すると、彼女は“ゆずで作ったシロップを売ったお金です。ここで取れた物で作ったのですから、対価は還元しないといけません”と5歳になる少女の言葉とは思えないことを言ったのです。」

「そのゆずシロップってもしかして、私が今飲んでいる?」

「そうです。この裏側の木には柿とゆずがなるのですが、ゆずはお風呂に入れることがほとんどでそのような調理をすることがありませんでした。いつからか分かりませんが、彼女は1人で細々と作って周囲の家やそれ以上の距離を歩いて遠くの家まで瓶に詰めたそれらを売っていたんです。それで出た売上金を私に渡して来ました。」

「5歳の子どもが本当にそのようなことをしたんですか?」

 とても信じられない話だったが、院長自身も目を疑った目の前の事に唖然としたようで、樹を見てまたクスクスと笑った。

「私も当時はそんな表情をしていました。でも、彼女はそうして自分の知恵を絞り皆のために行動をしていたんです。私は彼女に彼女をここに来させてくださった神に感謝しました。それから、彼女は子供たちにお礼を言われてくすぐったそうに笑ったんです。そうして、その日こそが、おそらく彼女が彼女にとって初めてこの孤児院で認められ家と呼べる存在として彼女に私たちが認めてもらえた日でもあるんですよ。」

「そうだったんですか。確かに、彼女は最初会った時から大人顔負けのところはありました。」

「そうでしょ?容姿も周囲と違うからって前髪で顔を隠してしまって、あんなに可愛い顔をしていたのに、決して切ろうとはしなかったんです。」

「そうですか。あの髪は自分が異質であるというコンプレックスからなんですね。」

「はい。おそらくそうだと思います。」

 今まであの髪は目の下のクマや顔色の悪さで目立ちたくないからだと思っていたが、コンプレックスからだったと気づかされた。そして、そこで、テレビで見る彼女の顔色や目の下の黒い影がないことに疑念を抱いたが、それは頭の片隅に追いやった。

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