第18話
その報道があった翌日から、報道関係者が病院前に鎮座するようになった。あの医療事件が起こってからまだ日が浅いので、彼らも行動が早かった。凜の入出を心待ちにしていることは目に見えていたが、彼らも凜の姿は分からないのか、数日後の凜の診察日、彼女に、
「出入り口で彼らに何かされなかった?」
と、心配して訊くと、彼女は首を傾げ、思い至ったように首を横に振った。
「いいえ、何も。彼らは私の顔を知りませんから。こういう時、顔を出して置かなかったので、どんな記事が出ても強気でいられます。」
と、淡々と言いのけた。精神科通院の割には彼女のこういう所は他のうつ病など精神疾患や障害を持った人とは異なった。
「そっか。それならいいんだけど。大丈夫?」
「はい、問題ありません。ただ、フリーカメラマンの方の接触がありますので、先生も気を付けてください。」
樹が心配して尋ねれば、凜の方から注意をされるほどだった。そういう少女らしからぬ大人のような少女に樹は苦笑した。
「分かった。ありがとう。でも、いくら顔がばれていなくても今日の見送りは止めておこうか?精神科医として桐山先生の顔は病院のホームページに載っているし、僕の顔もバレている可能性があるから。」
「はい。フリーカメラマンはそういう所は嗅覚がいいですから。それに、見送りは元々必要ありませんでした。」
「そう言わないで。僕にとっては大切な患者たちとのコミュニケーションを図る時間なんだから。」
「そうですか。」
凜が頷き、そこで会話は途切れた。
その時、急に扉をノックする音が聞こえた。ここは診察室で今は診察中の札がかけられているはずだから、普通ノックはされないはずだった。不審に思い立ちあがった凜を奥のベッドに連れて行き座らせ、静かに、と言い置いてからカーテンを閉めた。
「はい、どうぞ。」
声をかけると、扉が勢いよく開いて高級そうな体に合ったオーダーメイドのスーツを着た男性が入ってきた。年は32歳の樹よりは年上に見え、少し目線は下がるが彼から出ている雰囲気は上の立場に就くような人と同じ感じがした。そして、後ろに控えた男性は鞄を持っていた。荷物持ちの人までいるってことは決まりだろうか、と様子を見ながら思案していた。その男性は樹に人の好さそうな笑みを浮かべて樹を見た。
「このような形で急に訪問してしまい申し訳ございません。」
「いえ。失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「これは申し訳ない。名刺を渡しそびれておりました。私、こういうものです。」
そう言いながら、男性は樹に名刺を渡した。樹でも知っている出版業界では最大手のN出版社と専務という役職が記載してあった。
「成宮博さん?」
「はい、成宮です。こちらに柊先生が来ていると伺ったので、本日訪問しました。」
「柊先生ですか?」
「はい、柊凜です。彼女は私が編集担当をしている作家なのです。」
「ああ、そうでしたか。それで、そんな方がどうしてこちらに?彼女に用事でも?」
「いいえ、あなたにです。内山先生。」
樹の胸のプレートを見て名前を言った彼の意図が読めず首を傾げた。
「私にですか?」
「はい。彼女の担当医であるあなたにお話しをしに来たのです。」
「何の・・・。」
樹がさらに尋ねようとした瞬間、カーテンが開いた音がした。
「聞く必要はありません。内山先生。」
そこから出てきた凜が樹の傍まで来て言った。彼女は少し怒っているように見えた。
「おや、柊先生、いらっしゃったんですか。」
「はい。少し疲れていたのかめまいがしたので、先生に奥で休ませていただいておりました。」
「そうですか。ですが、柊先生が出しゃばる場ではありません。これはビジネスの問題ですから。」
「どういうことですか?成宮さん。」
「あの記事が出たことで、どれだけこちらに損害が出たと思いますか?それがもっと大きくなれば、情報を漏洩させたこの病院を訴えるところですよ。」
そこで一旦言葉を切った。
「ですが、今のところはまだ記事が出てもそれほど酷くはありませんし、出版した本の売れ行きはむしろ好調と言えます。しかし、それは結果論です。分かりますか?内山先生。」
今まで凜に向いていた視線が急に樹の方に向いた。
「つまり、治療の件は中止にして欲しいということでしょうか?」
樹が尋ねた。それに満足したように彼は頷き、後ろに控えていた男性からケースをもらった。
「もちろん、ただとは言いません。そちらも病院と言ってもビジネスですから。1年ほど中止していただくので、その1年に支払うはずの彼女の治療費の3倍をこの場で払いましょう。」
彼はそう言って分厚い、おそらく札束が入っているだろう封筒を差し出してきた。そんな彼の行動に唖然とした。堂々と札束を渡してくるその男の行動に対して嫌悪感しか抱けなかった。なかなか受け取らない樹に何を思ったのか、その男はおや?という顔をした。
「これだけでは足りませんか?では、小児外科の教授であなたの恩師である英知教授の研究に対して全面的なバックアップをしましょう。」
「はい?」
「私どもが出版している医療関係の雑誌に英知教授の論文を優先的に掲載しましょうと言っているんですよ。」
彼は呆然としている樹につらつらと言い切った。その言葉に樹の頭は真っ白だった。目の前の男性に対して更に嫌悪感は膨れ上がった。それを抑えて抗議しようと口を開いた瞬間、
「あの、歓談中申し分ありません。」
と、隣の診察室から診察を終えただろう桐山教授が奥から顔を出して声をかけた。
「桐山教授ですね。」
「はい、そうです。私の教え子に何か御用でしょうか?」
「ええ。実は柊先生の診察のことでお話しをしていたところです。」
「そうですか。あなたは柊さんのご家族でしょうか?」
桐山教授のその問いに今まで淀みなく答えていた成宮が止まったことで間ができた。後ろに控えている男性は視線を泳がし動揺していた。
「いいえ。私は柊先生の担当編集者です。いわゆるビジネスパートナーと申しましょうか。」
「なるほど。ですが、治療を受けることに口を出せるのは彼女と戸籍が一緒のご家族、または法的に定められた保護者のみとなっておりますので、あなたには口を挟む権利はないようですが。」
「ええ、確かに教授のおっしゃる通りですね。」
桐山教授の言葉に彼はあっさりと頷いた。
「しかし、彼女の情報が漏れたことで被害が出ているのは事実です。実際に、柊先生のところにパパラッチが張り出していました。これは患者の情報漏洩ですよ。」
「確かに、それに関しては病院側の責任です。謝罪をしなければなりません。しかし、それは患者である柊さんに対してであり、あなたではありません。」
「・・・確かに、そうですね。では、この辺で失礼します。柊先生、この件は後日話をしましょう。」
成宮はお供を連れて意外にあっさりと出て行った。
「大変でしたね。大丈夫ですか?」
成宮が出て行った後、桐山教授は凜を椅子に座らせて彼女と樹を見て労った。
「いえ、問題ありません。あの人がああいう行動に出ることは毎回のことなので。」
慣れたように凜は言い、平然としていた。
それから、桐山教授が樹と凜に袋に入ったもみじ饅頭を渡して、お茶まで入れて3人で世間話をしてから、凜は帰った。
「ああいう人が周囲にいたから彼女はあんな風に大人にならざるを得なかったのね。」
「そうですね。」
樹は怒りを拳にぶつけるようにして強く握った。それほどに、成宮という男の態度に腹を立てていた。何でも金銭や利益で換算する人と昔から樹は相いれなかった。
「でも、あのお金を受け取らなくてよかったわ。」
「当たり前です。」
そんな人間に少しでも思われていたのかと、ショックを受けたが、彼女は冗談を言っているように笑っていたので安堵した。
「でも、あの人の言う通り、始まりはこちらが原因なのだから、今後は気を付けないといけないわ。問題は誰がそういう関係の人とつながっているかよ。」
「そうですね。でも、病院関係者なら患者名簿は誰でも見られますから、範囲が絞れませんが、そう言う関係の知人がいる人を探して少しずつでも探っていくしかないですね。」
先が遠いとため息を吐いた。それに、桐山教授は苦笑した。
「そうね。早期解決は難しいかもしれないけど、仕方ないわ。」
「はい。」
それから、本腰を入れて情報漏洩をした人を探すことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます