第16話
翌日、凜は診察にいつも通りの様子でやってきた。防寒は万全で黒いコートにマフラーに手袋にマスクをしていたが、マスクをして前髪が長く俯きがちな姿勢で完全に表情は読めなかったが、彼女は配慮のためか診察時はマスクを外していた。
「こんにちは。柊さん。」
「こんにちは。内山先生。」
いつものように挨拶をした。
「先生に後輩がご迷惑をおかけしたみたいで、申し訳ありません。」
来るや早々に彼女の方からそう言って頭を下げてきた。口にしていないことなのに、凜が知っていることに驚いたが、それに既視感もあった。
「伊藤先生から聞きましたか?」
「はい。孫が早とちりをしてしまったと言って詫びておられました。」
「そっか。」
樹は頷きながらも内心伊藤教授に対して握り拳を作っていた。
「伊藤君は委員会が同じで後輩に当たるのですが、彼は紹介しても効果がない私を見て責任を感じているみたいです。責任感と正義感が強いですから。」
「そうなんだ。確かに、君のことをとても心配していたし、君のためにあれだけ怒れるのはとてもいいことだね。とても大切にされているね。」
「そうでしょうか?」
「そう見えたけど、違うの?」
樹が尋ねると、彼女は考えに耽ってしまったように無言になった。
「彼は私の本のファンだそうです。内山先生と同じですね。彼にとっては私というか、私が書く本を大切に思っているんですよ。」
「そうかな?」
樹が問いかければ、彼女は今度こそ大きく頷いた。それに、樹は苦笑した。
「彼に君のことを訊くとね、君のことをまるで宝物を見せびらかす子供のように話すんだ。君の頭の良さとか運動神経が良いとか、物静かだけど優しいとかエピソードを交えてね。これって、学校での君のことをよく見ていることだと思うんだ。君が言う本の一ファンだからという理由だけじゃないと思うよ。よく貧血を起こす君のことが本当に心配なんだと思う。」
「そうですか。」
一瞬ためらいがちに口を引き結んでから彼女は小さく呟いた。
「たとえ、そうだとしても私には迷惑なだけです。まだ、一ファンとしての方が気が楽です。」
と、本当に迷惑そうに彼女は言った。
「どうしてそう思うのかな?」
と、樹が尋ねた。すると、凜は一呼吸置いて、
「私は親しい人を持ちたくないのです。」
と、はっきり、そして淡々と何の迷いもなく言った。10代の少女が出すような声音ではなく、その言葉で決して超えられない一線を引かれたことに樹は遅れて気付いた。
「先生は確かに精神科の先生で私の不眠症を治療するのに私のことを知る権利はあるのでしょう。でも、私にも決して口にできないことはあります。」
と、彼女は続けて言った。そんな言葉を聞いて樹は一瞬気圧されそうになったものの反面安堵もした。
「分かった。」
「それだけですか?」
樹の反応を凜は意外に思ったのか肩の力が抜けたように逆に問いかけた。それに樹はおかしそうに笑った。
「人間には誰しも踏み込まれたくないことがあるよ。それは、決して君だけじゃない。僕にもあるし、他の患者さんにもある。僕らの仕事は話を聞き、その話の端端に出る患者の悩みとそれの原因を読み取り、サポートすることだからね。君は無理に答えなくていいんだ。最初にもそう言っているだろう?」
樹が言うと、凜は一瞬固まったもののクスクスと笑いだした。
「そっか。そうでしたね。」
と、彼女は頷いた。それから、彼女は少しリラックスしたようにいつもの世間話を始めた。
「それで、食事はまだまともに取れていない?」
「3食ヨーグルトを食事に分類できるなら、取れています。」
「3食ヨーグルト食べるの?」
「最近、もらったんです。3つのカップで1つの商品として売っている物を箱ごとなので、2か月分ぐらいはそれで問題ないです。」
「さすがに、それはあまり良くないよ。」
樹が注意をすれば、凜は、そうですかと言った。
「そういえば、最近お昼の話も聞かないね。」
と、樹は以前までお昼の食堂で食べたメニューを聞いていないことを思い出して言った。
「最近、食堂に行っていないですね。」
「どうして?」
「テストが近いので、図書室にいるからですね。特に、食堂へ行くという校則はありませんから。」
「じゃあ、今日のお昼は何を食べた?」
「一口ゼリーを3個ですね。」
凜の答えに樹は絶句した。
「本当に心から思うんだけど、そんな生活でよく勉強と運動と仕事を熟せるね。」
「お腹は空いている方が人は集中できるそうです。」
「確かに満腹状態の人と少し間食しただけの人での差は大きいけれど、おそらく君のように飢餓状態に近いとどちらかと言うと満腹状態の人と同レベルの集中力じゃないかな。」
「そうなんですか?」
樹の見解に凜は首を傾げた。それに答えようもなく、樹はため息を吐いてしまった。目の前の少女のやせこけたような姿にでもあるが、それを全く問題視していない彼女自身にであった。そこで、樹は
「柊さんはご飯を食べることに嫌悪感とかはない?」
と、痩せることへの執着をしやすい思春期の彼女に対してありがちな質問をした。すると、それに悩まず彼女はテンポよく答えた。
「特にありません。小学校時代は給食を普通に食べていましたし、孤児院では出された食事は残したら罰があるので残さずに食べていました。ただ、食べることに執着もなく移動をしてお金を払ってまで食べるのは面倒なだけです。」
「つまり、面倒なだけってことだよね?」
「誘導尋問?」
樹の突っ込みに凜は驚いて口に手を当てた。彼女の答えで樹の中で少しだけ彼女というヒトが見えた。
「分かった。じゃあ、これから軽食を食べよう。」
樹は立ちあがってそう言った。それに、驚いたように彼女は樹を見上げた。
「今からですか?」
「そう今から。何かを食べてから帰ってもらった方が僕は安心するんだ。」
「医者として患者の意志を蔑ろにするのはいいんですか?」
「何度言っても食事を摂ろうと努力してくれないから、もう先生も打つ手がなくてね。それに、君の夕食代も浮くし、お腹一杯なら食堂でご飯を食べる必要もないから、勉強とかできるから一石二鳥だろう。」
「後付けのような気もしますけど。」
「そんなこと言わないで。先生も少し小腹が空いているから。」
「分かりました。」
凜は少し呆れたような表情をしながらも口角は少し上がっていて、樹の横に並んで廊下を歩いた。
売店に行くと、少し時間がずれているからか医療関係者も患者も数人しかいなかった。
「売店ってこんなに空いているんですね。」
「いつもはもっと多いよ。特に従業員はまだ残る人がほとんどだからね。」
「なるほど。まだ、診察時間だから空いているんですね。」
「そういうこと。柊さんは何食べる?」
樹と凜が止まったのはおにぎりと弁当とサンドイッチが並んだ棚だった。その中で、凜は迷わず手にしたのは分厚い玉子焼きをサンドしたサンドイッチだった。
「それにする?」
「はい。初めて見るサンドイッチなので食べてみたいです。」
「分かった。じゃあ、僕はこれにしようかな。」
樹は焼きそばを挟んだパンを取り、会計を済ませてイートインコーナーのカウンターに隣あって座った。
「美味しい?」
座るとすぐに大きな玉子焼きサンドを頬張り、頬袋をパンパンにした凜に樹は尋ねた。すると、彼女は咀嚼しながらも数回頷いた。その行動が微笑ましく思い樹は笑った。
「そっか。良かったね。」
「はい。この玉子焼きは甘い味付けで美味しいです。」
「そっか。良かったら焼きそばパンも食べる?」
「すみません。焼きそばは苦手なので。」
樹は差し出そうとした手を引っ込めて、横に座る凜を見た。
「そうなんだ。ソースが苦手なの?」
「くどい味があまり好きではないです。後は、麺もそれほど好きじゃないんです。」
と、彼女は苦笑して言った。どこか恥じているような気さえした。
「そうなんだね。僕も嫌いな物はあるからね。」
「何が嫌いなんですか?」
「レバーとえのき。」
樹の答えに凜が数秒間を開けた。
「全く共通点のない組み合わせですね。」
「これは小さい頃から嫌いな物だね。君は他に嫌いな物とかない?」
「レバーとかは食べたことがないので分からないですが、辛い物は食べられないですね。特にキムチは飲みこめないです。嫌いな物は食材ではないですけど、味付けは和食以外ほとんど苦手です。」
「そうなんだ。」
樹は頷きながら、彼女が以前から言っていた食堂メニューは和食の物ばかりだったと思いだした。
「女の子はイタリアンが好きだと思っていたよ。」
「イタリアンはトマトとジェノベーゼのペンネ版なら食べられます。ピザはチーズが乗っていないなら食べられます。」
「それはまた、変わっているね。」
樹はどう返していいのか分からず、それだけ言って焼きそばパンを食べた。それから、セルフの水を飲んでから彼女をいつものように見送った。彼女からはとても仕事を辞める決心をしているような話しぶりではなく、仕事についてもいつもと変わらず話していたので、樹は首を傾げつつ病院に戻った。
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