第12話
部屋に入れば、桐山教授がパソコンに向かってキーボードを叩いていた。おそらく、学生たちに向けての試験問題を作成しているのだろう。彼女の受け持つ講義はほとんどないため、今の時期にならないと彼女が講義していることも忘れてしまうほどだった。
「お疲れ様です。」
「お疲れ様です。手伝いましょうか?」
「いいよ。大丈夫。すぐ終わるから。」
手伝いを申し出たが彼女は笑顔で断った。
「いつもより遅いんだから気を付けて帰るようにね。」
「はい、ありがとうございます。」
樹は一礼して部屋を出て駐輪場に行くと、そこは電球で明るく照らされており、その眩しさに目を細めた。暗さになれた目にはそんな少しの光でさえ眩しく感じたことに、彼自身が安堵の息を零した。
「お疲れ様です。内山先生。」
自転車のチェーンを外してサドルに座ろうと足を上げた時に声をかけられた。最も会いたくない人物の声だと分かったが、相手の立場もあり樹は足を下ろして声の方を向いた。
「お疲れ様です。大分助手。」
後ろからのわずかな光に照らされた相も変わらず余裕の笑みを浮かべた大分助手が駐輪場の脇から出てきた。一目で分かる高級スーツを着た彼は医者というより、どこかの御曹司のような出で立ちで、後藤と並んで白衣を着た姿とは全く違っていた。
「どのようなご用件でしょうか?」
樹は話そうとしない彼に尋ねた。すると、大分助手はクスクスと奇妙に息だけで笑った。
「用件は分かり切っていると思うのですが。」
「私には何も心当たりがないのですけど。あなたとは畑違いですから。」
「今は、でしょう?」
彼は意味深に言った。それに樹の警戒心が高まると体が緊張で強張った。それに彼は気付いたように面白そうに同じように笑った。
「そう、身構えないでください。僕はただ少し話をしたかっただけです。」
「話ですか?」
「ええ。どこかで飲みながら話しませんか?」
「申し訳ないですが、外食はしない主義なので、そう言ったことはお断りさせていただいているんですよ。」
樹がこの病院に勤めてから言っている言葉を言うと、大分助手は虚を突かれたような呆気にとられた顔をした。笑みを崩した彼を見て樹は心の中だけで少し喜んでいた。
「そうですか。分かりました。では、コーヒーでも飲みながらでも構わないのですけど。」
どうしても引き下がらない様子の彼に樹は狼狽した。
「別にあなたに何かするわけでもありません。本当に話をするだけですよ。」
さらに、彼は樹に言った。その押しの強さに負けた樹は息を吐き、
「30分で終わらせてください。」
と、言ってしまった。すると、大分助手は心得たように頷き嬉しそうな笑みを浮かべた。
大分助手に連れられた場所は病院近くの喫茶店だった。病院に勤務している人が客になっていることもあり23時まで営業しており、コーヒーの種類が豊富だったことに驚いた。樹が病院まで行く道とは逆方向の道のため、初めて見た店ではあったが高級感漂う店内に圧倒され、見納めにしていた。テーブル席が20席に加えてカウンター席が30席もある広い店内ではあったが、スーツを着たサラリーマンや大学生のような若い人などが席を埋めていた。ちょうど2人掛けの席が空いていたので、そこに樹と大分助手は腰かけた。大分助手はコーヒーを頼み、樹はアイスティーを頼んだ。それぞれの飲み物が運ばれてきたので、それに口を付けた。
「内山先生はコーヒー苦手でしたか?」
「いいえ、ただ、夜に飲むと眠れなくなるので。」
「確かにそうですね。僕はこういう場所に来ると、反射的に頼んでしまうんですよ。カフェイン中毒ですかね。」
大分助手は人好きのする笑みを浮かべて笑った。紅茶の香りと苦みで口を洗い樹は一息吐いた。
「話があるんですよね?」
「内山先生はせっかちですね。」
樹の言葉に大分助手は余裕の笑みを浮かべて言った。
「私は一人暮らしで家事が待っているので早く帰りたいだけですよ。」
「そうですよね。では、早速本題なんですが、今回の件、君は深入りしない方がいい。」
笑みはそのままなのに急に言葉に圧が加わった。それに呼吸が一瞬止まりかけたが、何とか息を吸って、樹はまだそこに座って居られた。
「何のことでしょうか?」
「言っている意味が分かりませんか?まあ、とぼけるのはそちらの勝手ですが。あまり足を突っ込むと火傷どころでは済まないという忠告をしたかったんですよ。」
そこで一旦言葉を切って彼はコーヒーを飲んだ。少し離れた樹にも分かるコーヒー独特の苦さの香りで唾が自然と出てきたがそれを飲みこめずにいた。
「本当のことが明らかになった所で誰も得はありませんし、君をもう少し後に小児外科に戻すこともできます。」
「は?」
大分助手の言葉に樹は頭が真っ白になり、素で訊き返してしまった。
「意外な顔ですね。これでも、僕は君の腕を買っているんですよ。その腕は精神科には勿体ない。もっと、外科の分野で使うべきものですよ。」
“そして、僕のために“という言葉が樹の耳に聞こえた気がした。幻聴だと分かっていてもそれが直感的な警戒信号だと信じて疑わなかったが、それほどまでに狡猾的な彼に寒気を覚えた。青くなった樹に大分助手が心配げに手を差し伸べようとしてきたので、それをよけたいが、そうできるほどに体にはすでに力がなかった。そんな時に、
「内山先生?」
と、呼ばれた声に樹はハッとして顔を上げた。大分助手はすぐに手を引っ込めてそちらを見た。制服ではなく古着のようにしわが着いたよれよれの上下黒ジャージ姿で見慣れなかったが、顔を少し俯かせ気味であるが、雰囲気だけで誰かはよくわかった。
「柊さん。こんばんは。」
「こんばんは。」
樹が名前を呼んだ瞬間、大分助手が驚いたような表情をしたのが分かった。世界的有名な作家の姿とは予想もしなかったのだろうが、樹が苗字のみを読んだだけで、そこまで検討が付くほどに彼はこちらを把握しているのだと知り、恐れからか緊張が顔を出して内心冷えていった。
「こんな遅くまで仕事だったんですか?」
「いえ、それを言うなら、中学生の君がもう8時を回ったこんな遅い時間にここにいることの方が不思議だね。」
「それもそうですね。目を瞑ってください。仕事の帰りにホットミルクを飲みたくて寄っただけで、飲んだらすぐにタクシーで帰りますから。」
凜は肩を竦めて言った。その反省の色が見えない彼女に樹はため息を吐いた。
「仕方ないですね。でも、ホットミルクを飲むことは良い事ですよ。」
「あまり飲むと体調壊すので、週に1回あるかですけれど。」
「それでも十分です。」
樹は満足げに微笑んだ。
「ところで、こちらの方は先生の同僚ですか?」
「ええ。科は違いますが、同じ病院に勤めています。」
「初めまして。小児外科医の大分と言います。」
そこで、立ちあがって満面の笑みを浮かべて名刺まで用意した大分助手が言った。凜はそれを受け取った。
「初めまして。」
「良ければご一緒しませんか?」
凜の淡々とした少し邪険にするような返答に大分は平然と誘いをかけた。急な誘いをかけた大分助手を樹は止めに入ろうとしたが、凜はそれより先に首を横に振った。
「申し訳ありません。私、初めて会った人とは席を一緒にしないと決めているのです。ところで、話は終わったのでしょうか?」
「え、ええ。」
凜の返しに呆気にとられた大分助手が詰まりながらも頷いた。まさか、断られるとは思っていなかったのだろう。
「それなら、主治医である内山先生にお話しをしたいことがあるので、彼を借りてもよろしいでしょうか。」
「は、い。」
大分助手の返事を聞いた凜は樹の方を見た。
「内山先生、業務時間外ですが、少しお話してもよろしいでしょうか?」
「分かった。席を移ろうか。」
「はい。お願いします。」
「では、大分先生、私はこれで失礼します。」
樹は凜の後について大分助手から離れられた。
凜に連れられたのはスタッフルームの扉の向こうだった。そこには、2人がけの席が1席あり、窓から病院の出入り口が見えた。
「ここ、結構報道関係者ではなくフリーカメラマンたちが利用するらしく穴場らしいです。ここの店長が作った場所らしいですけど。」
「よく知ってるね。」
「そういう関係の人は知り合う機会が多いですから。」
凜は肩を竦めた。顔だしをしない地位のある人物を追うのは報道関係者ばかりではなく、それよりもフリーの追っかけの方が多いことが彼女の少し疲れたような表情が物語った。
「そうか。ところで、君がここに来たのは偶然?」
「はい、偶然です。本当にここのホットミルクを飲みますよ。ただ、お店で飲むのは初めてです。いつもは寮にこちらから取り寄せている牛乳を温めるだけですけど。」
「そうなんだ。でも、何で今日はお店で飲もうと思ったの?」
「何となく、ですよ。」
「そっか。」
それ以上樹は何も言わなかった。偶然でも必然でも、樹にとってここに彼女が来てくれたことが救いであることに変わりなかったからだった。18も下の少女に救われた気分になった自分が情けなくあり苦笑が漏れた。
「それで相談があるんだったかな?」
ホットミルクと入れ直されたアイスティーが運ばれてきてから、樹は尋ねた。
「忘れました。ホットミルクを飲んだら悩みもどこかに消えました。」
無理やりな言い回しに樹は微笑んだ。凜はコップを両手で包みこんで少しずつそれを飲んでいた。
「そっか。分かった。じゃあ、世間話でもしよう。いつものように。」
「はい。ありがとうございます。」
凜は安堵したことでお礼がつい口に出たのだろう。しかし、それが嘘を認めた失言だったとは気づかなかったし、樹もそれを指摘はせずに診察と同じ時間になった。
「もう9時になるね。」
それから世間話をしているとふと樹が腕時計に視線を落として驚いた。
「本当ですね。」
「タクシーを呼ぶから待っていて。」
「いいえ、自分で呼びますよ。」
「大人に任せなさいな。」
樹はそう言ってタクシー会社に連絡した。
「10分ほどで来てくれるそうだから。もう少ししたら出ようか?」
「はい。ありがとうございました。」
「いいえ。」
それから、少し待っているとすぐにタクシーが来たとスタッフが知らせてくれたので、2人はお店を出た。
「じゃあ、また来週ね。」
「はい、今日は急にすみませんでした。」
「いいえ。僕の方がお礼を言わないといけないから。ありがとう。今日は助かったよ。」
樹はそう言ってタクシーの扉から離れ、彼女を見送った。それから、今度こそ自転車に乗って自宅に帰った。残暑はすでになく冷たい風が頬を撫でつけていたが、痛さはない少しばかりの叱りつけのようだった。
後日、大分助手からの接触の件を桐山教授に話すと、彼女は怒り心頭で今にも殴り込みに行きそうなほどだった。その勢いのまま英知教授に内線をかけた。
「今から精神科に来なさい。」
とだけ言って、乱暴に受話器を置いた。そうして、待つこと5分で扉がノックされてすぐに英知教授と伊藤教授が入ってきた。樹は驚きながらも急いで彼らに椅子を用意した。
「桐山、お前、何をそんなに怒っているんだ?」
「怒るに決まっているでしょ!あの男が内山先生に接触して脅しまでかけてきたのよ!」
桐山教授は鬼の形相で言い、それを見た英知教授は苦笑し、伊藤教授はお手上げと言わんばかりに肩を上下させた。
「落ち着いて。ここで怒っても仕方ないでしょ。美和子さん。」
「それはそうだけど、内山先生に何かあってからでは遅いのよ。」
「分かってるよ。でも、彼が内山先生に脅しをかけてきたなら、それだけ彼自身も焦っているか、内山先生には関わって欲しくない理由もあるのかもね。」
「私が関わって欲しくない理由ですか?それは、柊さんを患者に持っているからでしょうか?」
英知教授に樹は尋ねた。すると、3人の方がキョトンと首を傾げた。
「そこで、何で柊さんが出てくるんだ?」
伊藤教授が代表して尋ねた。
「確信はないのですが、大分助手は柊さんのパイプが欲しいようです。今回、彼女の治療には理事たちも注目しているようで、それもあるかもしれません。彼は理事たちとの太いパイプが欲しいのではないでしょうか?」
「なるほど一理あるな。あの子にここを紹介したのが今回は功を奏したってことか。」
「そう言うことだね。」
樹の説明に伊藤教授と英知教授は納得したが、桐山教授は机を叩いた。
「患者を何だと思っているの。そんな奴が医者で有名とか信じられない。」
何度も机を叩き、彼女は怒りを露わにしていた。その手を掴んで英知は止めた。
「まあまあ。それ以上叩くと痛いよ。今日も診察があるんだから、そんな顔じゃ、患者さんが逃げるよ。」
「分かっているわよ。」
「良かった。」
社会的に夫婦ではないがやり取りはその関係そのものであることを2人の会話と雰囲気から樹は感じ取った。
「こういうの日常茶飯事だから。あまり、あいつらといるなよ。」
伊藤教授がぼそっと樹に耳打ちした。
「それに、例の解剖の件は知り合いに頼んで再解剖してもらうことになったよ。」
「知り合いって誰?信頼できるの?」
「もちろん。君の弟に頼んだよ。」
英知教授の言葉に美和子は目を瞠り、伊藤教授は呆れていた。
「桐山先生の弟さんは解剖医なのですか?」
1人呑み込めてない樹は英知教授に尋ねた。すると、彼はニッコリと笑みを浮かべて、
「仁(ひとし)と言うんだけど、彼はO大の法医学教室の教授だよ。警察からの信頼も厚いから、紹介したら彼らもすんなり頷いたからね。」
「そうなんですか。姉弟揃って教授だなんて努力家で素晴らしい姉弟ですね。」
「そんなことないわよ。」
樹が賞賛すると桐山教授は少し照れたように顔を赤くして、それを前に座る2人はただニコリと笑って見ていた。
「それにね。」
と、英知教授は言葉を続けていた。
「今回はその警察が用意した検死先だけど、そこで少年の遺体が解剖されていないことが分かったよ。今回はどうやら突発的だったみたいだね。」
「つまり、報告書は別の遺体のものだということね。」
「でも、突発的ってどういうことだ?」
更なる事実に桐山先生は結論を言い、伊藤教授は顔を顰めた。
「つまり、大分助手の行動は上の教授には知らされていなかったことだったということでしょうか?」
「そういうこと。でも、事実が明らかになれば、教授たちの黒い部分を一部でも知っている大分助手に今の地位から追い落とされるから、彼らも手を貸さずにいられなかった。」
樹の結論に桐山教授と伊藤教授は眉間に皺を作り、英知教授は笑みを浮かべているものの目には侮蔑が表れていた。それから、4人は重い空気のままその場は解散になった。
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