第6話

 樹は目を覚ますと、見知った天井と嗅ぎなれた畳の匂いだった。周囲に目をやると、本棚の傍で本を読んでいる人物がいた。その人物が凜で彼女が持っている本が彼女の小説だと認識した瞬間、上体を素早く起こした。

「気づきましたか?」

 平然と凜は尋ねてきて、樹の傍に座った。未だに状況が呑み込めていない樹は混乱を極めていた。

「どうして、君が?というか、ここ、僕の家、だよね?」

 樹は自分が何を言っているのかも分からないほどに、浮かぶ言葉が次々と口から出ていた。そんな彼をおかしそうに凜は笑い、樹の両肩に手を置いて布団の上に寝かせ、おでこに氷嚢を乗せ布団をかけた。

「大丈夫ですよ。ここはあなたの家です。そして、あなたは先ほど私との会話中に倒れてしまったので、タクシーに乗せてあなたの身分証だと思われる運転免許証から住所が分かったので、ここまで運んだんです。」

 一連の流れをざっくりと彼女は説明した。それを想像して、18も下の中学生に運ばれる自分が情けなく思えて顔が強張った。

「心配しなくてもあなたを運んだのも着替えをさせたのも私じゃなくてタクシーの運転手の人です。いつもお世話になっているんですけど、結構世話焼きなので助けを求めたら対応していただけました。」

「そっか。」

「あと、先生が私の小説を読んでいたことが分かって少し鼻が高い気分です。」

 彼女とそのまだ見ぬ運転手に感謝したところで彼女から言われた言葉に樹は羞恥で顔に熱が集まるのを感じてそっぽを向いた。その反応に彼女はクスクスとおかしそうに笑った。

「そんな恥ずかしがらなくて大丈夫です。さて、先生の熱もだいぶ下がったので、私はもうお暇します。体気をつけてください。」

 凜はそう言って立ちあがった。そうと分かったら樹は思わず体を起こして扉の方を向いた凜の腕を掴んでいた。それに、驚いた彼女は樹の方を振り向いた。

「まだいた方がいいですか?」

「いてくれると嬉しいんだけど。」

 純粋な目で見られながらも樹は小声で顔を赤くして小さく要求を零した。

「分かりました。仕事はここでもできるので大丈夫ですよ。ただ、私は料理だけでなく家事全般できないので、氷嚢を変えるぐらいはしましょう。」

「ありがとう。ご飯は冷蔵庫にレンジで温めるだけのおかずと冷凍ご飯があるから、良かったら食べて。僕は食欲ないから。」

「そういう所は人間らしい感想ですね。」

 凜が傍に座ったのを見てそれだけ言った樹は安心感を一杯にして睡魔に身を任せたので、その後に言った彼女の言葉はほとんど分かっていなかった。


 樹が次に目を覚ますと、傍に座っている凜がいつの間にかPCを開いてキーボードを目にも止まらぬ速さで叩いていた。集中しているのか樹が起きたことに気付かず、ずっと画面の方を見ていた。その音がだんだん暴れ馬の蹄の音のように聞こえてきたので、思わず笑ってしまい、その声は凜をPCから遠ざけた。

「おはようございます。夜9時ですけど。」

「おはよう。今までいてくれて。」

「いいえ、今日は取り留めて用事もないですし、寮は基本的に門限とかないので自由なんです。ただ、寮母さんには友人が寝込んでいたことと、遅い時間の帰宅もしくは外泊の可能性を伝えておきました。あなたが明日の朝まで目を覚まさなかったら、ここで作業ができるのでこのまま外泊するところでした。」

「それはごめん。迷惑かけたね。」

「いいえ、熱は下がったようなので、良かったです。」

 凜はPCの電源を落として閉じ、鞄にしまった。

「夜ご飯とか作ってませんけど、スポーツ飲料なら枕元にありますから、それ飲んでください。」

「何から何までありがとう。」

 そこで、沈黙になる。

「じゃあ、私はこれで。」

 凜は頃合いを見計らったように数秒後にそう言って、鞄を肩にかけた。

「待って。」

 と、それに慌てた樹はそう呼びとめてた。膝立ちになった凜は樹の顔の方は向かずに前のお腹辺りを見ていた。それでも、樹の意志は察したようにそのまま固まった。

「柊さんはもう診察は来ないかな?僕の過去を知ったから。」

 樹は体を起こして凜と真っ正面に向かい合い、そうして変わらず俯きがちな彼女に言った。しかし、それは特段怒っているわけでもなく、落ち着いた彼女の真意を確かめようとする意志からの言葉だった。

「もう少し経ったら、行きますよ。あなたも必要なのは休息ですから、きちんと休んでください。」

 凜は言うなり立ちあがって臥間の方に向かい、そこに手をかけたところで振り向きはしないが、“内山先生”と呼びかけた。

「先生は過去のトラウマがあって逃げて今の科にいるんですか?」

 思いもよらない疑問を彼女からぶつけられた。それは、横っ面を叩かれたような衝撃ではあったけど、樹はそれに正直に答えた。

「そうだよ。僕はあの件で何もかもを失くした。患者の命も自信も、そして、人からの信頼。だから、逃げて今の精神科にいる。でも、それの選択は今考えると、僕自身が救われたかったのかもしれない。」

 樹の頭には3年前に転科届を出した時の映像が過ぎった。震える手で書いたよれよれの字、汗で湿った紙、そして、滲んだ印鑑。不安と絶望がその時に抱えたものだった。

「そうですか。でも、逃げた先で先生が掴んだ物があったのなら、亡くなった患者さんに恥じない生き方をしようと努力しているのなら、あの時は少しでも前を向いて欲しかったと私は思います。逃げることは間違いじゃないと思いますから。あの時のあなたは何だか後悔に浸り、自分が被害者のような姿でした。それなのに、私に対しては何もないようにふるまうその歪さが私にとって、それまで抱いていた先生像というものを崩された気がしました。」

 凜の語ったあの時の拒絶の意味が分かり心に何か落ちた気がした。それだけでなく、彼女は続けた。

「私は先生の診察を受けようと思ったのは、あなたの言葉は全部本心からの言葉だと分かったからです。何も飾りのない素直な言葉をあなたは教授の紹介である私のような患者にも色々と言って来た。私はそれがとても心に響きました。だから、私はあなたの診察や治療を受けようと思いました。治らなくても、あなたから受けたそれらに後悔しないと確信したから私はそうしました。だから、これからもあなたがそうであるなら、私は通いますよ。」

 凜は最後に“失礼します”とだけ言って部屋を出て行った。彼女の言葉が樹の心に振り積もっていき、彼の心の中は満たされつつあるのを感じ、にやけただらしない顔をしていることを樹に自覚させた。

「やられたな。」

 樹は気持ちの良い敗北を味わった。

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