第5話
宣言通り、凜はあの日以降受診をキャンセルして来なくなった。理由は多忙であることを理由にしているが、本当かどうか定かではなかった。相手は14歳という年齢ではあるけれど、世界規模で有名な小説家であり絵本作家だったので、そう言われればこちらは強く出れなかった。彼女が来なくなり2週間が経ち、その間に夏の暑さは少し引いて秋が訪れつつあり、相も変わらず樹は他の患者を診察していた。凜が来る前までのスケジュールに戻っただけだった。
そんなある金曜日、昼休憩に桐山教授が樹に言った。
「内山先生、あなた夏休みを取ってなかったでしょ。」
と。彼女は仕方ないというように苦笑していた。彼女の前には孫に作っているというキャラクター弁当が置いてあり、樹は売店で買ったサンドイッチのみで昼食にしていた。あの最悪な日から食欲は目に見えて減り、今はパンと栄養食品で生活しており、凜のことを心配する立場にない自分の生活に樹は毎回食しているそれらを見るたびに苦笑した。
「そういえば、そうですね。」
「そうですね、じゃないわよ。きちんと取りなさい。」
「すみません。慌ただしくしていたので。」
呆れる桐山教授に樹は苦笑して返した。
「それなら来週1週間休みね。これ、決定だから。私の方は落ち着いたから内山先生に回す仕事ないし、診察の方はこっちで都合つけるから。あなたは少しリフレッシュした方がいいわ。」
樹に否を言わせない口調で彼女が言った。樹は諦めて
「分かりました。」
と頷いた。家にいてもやることもないので余計に色々と考えるから土日も持ち帰った仕事をしていたが、それを彼女に見透かされていたと知った。
「何があったかは訊かないけど、あなたのポーカーフェイスを敏感に感じ取るのは私だけじゃなく、ここに通う患者たちであることも忘れないでね。今の精神不安定が続くようなら私も考えなくちゃならないから。この1週間休暇をそれをリセットするための期間だと思って。」
それがあの3年前の時の当時の教授に言われた言葉と重なり、樹に対して桐山教授からのあの時と同じ最後通告ように聞こえた。樹はそんな自分の居場所が奪われるかもしれないと頭で理解してもあの時のような恐怖は全く沸かない自分自身に戸惑い困惑した。職を失うかもしれないのに、それに恐れを感じない自分が狂ったように思えて恐ろしくなった。
「大丈夫だと信じているから。さて、私は先に仕事に戻るから。」
彼女は笑みを浮かべて言い、それからすでに空っぽになった弁当箱を持って休憩室を出て行った。1人になった樹は肘をテーブルに付いて頭を抱え、いつもより温度が低いように感じた室内で体を震わせた。
思いがけない遭遇と凜の心
1週間の休みをもらって早々に樹は風邪を引いた。高熱とまではいかないまでも1人暮らしをして以降初めて38度の熱を出し、頭が朦朧としている感覚を味わった。その重く感じる体に鞭打ち、マンションから徒歩で15分の所にある病院に向かった。自分でもふらついていることが分かったが、病院までは何とか歩いた。
「うん、風邪だね。今流行しているウイルス性はないから、ストレスじゃないかな。」
優しい笑顔を浮かべた60代ぐらいの医師がそう言った。その原因に心当たりがありすぎる樹は素直に頷いた。ストレス性の風邪はいわゆる知恵熱と一般的に言われているものであるので、精神科医としてはあまり聞きたくない病名だった。とりあえず、熱以外の症状がないので解熱剤を処方してもらい、樹はまたマンションまで歩いたが、途中で力が尽きそうだったので、近くにあった公園のベンチに腰かけた。土曜日であるがまだ9時前だったので子供どころか人1人いなかった。
「何やっているんだろう。」
樹は何度も思い出す凜の表情を思い浮かべては何度目か分からない同じ言葉を吐き、前方にある砂場を見た。それからしばらくして、そのまま砂場と同じ方向にある公園の出入り口をぼうっと見ていると、黒いセーラー服が見えた。それを目にした瞬間、めまいも重い体も感じなくなったように、軽い足取りで公園を出て後ろ姿の制服まで走り、肩に手を置いた。すると、驚いたように振り向いた勢いで手は離れたが、立ち止まった少女、凜を見て自分の予想した人物だったことに彼は安堵した。一方、樹を認識した凜は驚いたように目を見開き肩で息をして膝に手を置き前のめりになった樹を呆然と見つめた。樹は息が熱により乱れていたがそれを整え、深呼吸をして上体を起こした。
「柊さん、久しぶり。」
「お久しぶりです。内山先生。」
マスク越しに言うと彼女は詰まりつつも答えた。あの日は呼んでくれなかった呼称を彼女が口にしたことに胸が高鳴った。
「どうしたの?こんな所で。」
「それはこちらのセリフだと思います。」
「そうかな。」
「はい。病院勤務の方、ではないですね。今のあなたは外見からも病人だと一目で分かりますから。家で療養なさった方がいいと思います。」
あの日の拒絶の色も声音でもない凜に安心して樹は少しだけ沈んでいた心が浮かんできた気がした。
「そうだね。君の言う通りだね。ところで、君は何をしているの?」
「話聞いてないですね。それに脈略も可笑しいです。私は先生は早急に家に帰るべきだと言っているんですけど。」
「心配してくれてるのかな。」
「知り合いなら誰でもそう声をかけると思いますけど。」
「そっか。君に心配されるのは医者としては失格だけど、人としては嬉しいかな。」
最後は言葉にできたかどうか怪しいが、そう言い切った樹は満足して倒れ込んでしまった。少し覚えているのは温かい人の体温とおでこに当てられた冷たい手だった。
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