第4話

 診察をした翌日、いつものように出勤した樹がスケジュールを確認していると、桐山教授が走り込んできた。息を乱して動揺していた。

「どうされたんですか?」

 樹は驚いてそう尋ねると、彼女は今だ肩で息をしており、落ち着かないようだった。

「リン・ヒイラギだった。」

「はい?」

 急に樹の顔に顔を近づけた彼女の言葉に樹は困惑して首を傾げた。あまりに急なことで言葉が中に体に入って来なかった。

「だから、柊凜さんって、あのリン・ヒイラギだった。」

「・・・・・。」

 次には大きく叫んだ彼女の言葉に黙ってしまった。言葉が出て来ず呆然としたのだ。

「待ってください。リン・ヒイラギってあの?」

「そう、あのリン・ヒイラギだったのよ。」

 目の前のいつも冷静な彼女の興奮したような様子に驚いたが、彼女の言葉をやっと飲み込めた樹はそれも仕方ないと思った。

 リン・ヒイラギは国内のみならず、いや、海外の方が絶大な人気を誇っているのではないかと言うほどに有名な本と絵本の作家だった。特に彼女の小説は世界小説大賞に選ばれるほどのものであり、彼女の本を買う為にこのデジタル化が進む中でも、紙の本の予約が殺到していた。彼女のことは年齢、性別、出身の全ては秘匿とされており、名前の漢字から日本人だということは知られていたが、その他のことは全く知らされていなかった。サイン会というイベントもなく、ただ、出版社に送れば彼女のサイン付きで送り返してもらえるらしく、その数も相当なものだった。世界で今一番の人気を誇っていると言っても過言ではない人物だった。普段、物語系の本ではなく専門書ばかりを読む傾向がある樹だったが、彼女の本は全てデビュー作から持っているほどであり、彼女のファンの1人だった。

 そんな彼女が14歳の中学生とは誰が予想できただろうか、と樹は呆然としながらも頭の中で疑問を抱き、そして、最初にあった時の彼女との会話で思い出した。

「そういえば、彼女、仕事は執筆って言っていたな。」

 樹の呟きを拾った桐山教授は何も言えずため息を吐いた。

「まあ、仕方ないわよね。まだ、14歳の子どもがあんな深い小説をかけるなんて誰も思わないわ。」

 と、彼女は苦笑して言った。それに、樹も同感だとばかりに大きく頷いた。

「彼女が何者でも私たちは医師として向き合いましょう。」

「はい、そうですね。」

 樹は頷き、興奮気味に上がった脈を落ち着かせるように数回深呼吸をして、気持ちを切り替えた。


 診察を初めてあっという間に過ぎた3週間、彼女のことを知っても何とか平然と診察をできていることに安堵していたが、凜の体調はそれほど改善していなかった。彼女にアドバイスをしても、彼女自身取れる時間が限られ、それらを実践するのは困難だったからというのが、彼女の毎回の言い訳だった。しかし、彼女が口角を少し上げるぐらいではあるが微笑程度であるが、笑顔を見せてくれることが多くなった。その少し豊かになった表情を見られたことが、樹にとっては救いだった。

 そうして、4回目になる診察を終えて、樹はいつものように凜をタクシー乗り場まで見送りに行くために彼女に付き添った。しかし、会計をする窓口がある総合受付まで行くと、そこで男性の責め立てるような怒号が響いていた。

「あんたのミスがあったんじゃないのか。そうでなきゃ、俺たちの子供が手術中に。ほとんど失敗することはないって言っていたよな。あんたのせいで俺らの、子供が。」

 最後は言葉にもならず、その場で崩れ落ちるのを何とかこらえているような様子だった。そこには、男女の夫婦らしき人と白衣を着た男性が1人彼らに向かい合う形で立っており、妻の方は泣き崩れてソファに腰かけており、夫の方は白衣の男性の襟元を掴んで俯いていた。医療現場において、樹が3年前までいた小児外科において特によく見る光景だった。

そして、話の内容から彼らの子供が手術中に亡くなったのだと察せられ、足を止めていた凜の背を押して受付を済ませるように促した。

「解剖で白黒はっきりさせてやるからな。覚えておけ。」

 そう言って夫が妻を連れて病院を出たのを樹は目の端に捉えた。そして、やっとその場の空気が流れ出した。あの医師にとっては、幸いなことに患者である人がほとんどおらず、受付もしまっている時間帯であるので、その現場の目撃者がほとんどいないことだった。それに安堵するかのように息を吐いた白衣の男性が玄関の方から病院の中、つまり樹がいる方へ振り返った。責められていた男性が後藤だと知ったのはその時であり、視線が合ってしまった後だったので方向転換を諦めて彼の動向を見守った。すると、彼は樹を見ると不気味な笑みを浮かべてこちらにやってきた。

「内山先生、お疲れ様です。」

「後藤先生、お疲れ様です。」

 普通に挨拶をしてきたので、猶更悪い予感がぬぐえず樹の緊張は高まり体が硬くなった。

後藤は余裕そうに周囲を見渡して受付の方を見てから、樹を見た。

「なるほど。患者の見送りですか。」

「ええ。少し心配なもので念のための付き添いです。」

「そうですか。俺はてっきり3年前のトラウマかと思いましたよ。」

「言っている意味が分かりませんが。」

 後藤の話題に樹は冷や汗が出て体が震えている気がした。すると、それを感じたように彼は樹に顔を寄せて耳元に囁いた。

「3年前、救急の当直だった俺とお前だった時にお前を執刀医として手術したあのガキがこの受付で倒れてそのまま逝っただろう?その時のトラウマかとな。まさか、そんな恐怖心で診察ができなくなったお前がこの病院に残って精神科医として働くとは思わなかったな。しかも、今度は伊藤教授の紹介で来た子供を診ているのか。つくづくお前は運がいい。」

「止めろ。」

 樹はクツクツと笑う彼を思いっきり突き飛ばした。それでも、スポーツで鍛えた彼には力では勝てないので、狂ったように笑みを浮かべる彼は数歩下がっただけだった。そんな樹をおかしそうに笑い後藤は樹の背後を一瞬見たような気がした。

「まあ、精々頑張れ。3年前にガキを死なせて手術はおろか診察すらまともにできなくなった内山先生。今度は同じ轍を踏まないといいな。あ、精神科には手術とかないから問題ないか。」

 と皮肉げに言った後藤は樹の肩を軽く叩きそれから高笑いして軽く手を振りながらどこかへ行った。彼の気配が無くなり樹はやっと待合スペースの椅子に腰かけて顔を覆った。苦しいほどの呼吸があったが数回深呼吸して落ち着きを取り戻した。その時、

「内山先生。」

 と、彼を呼ぶ声が聞こえたので、樹は顔を上げた。いつの間にか前に立っていた凜は樹を見下ろす形になり顔が良く見えた。

「会計は終わった?」

「はい。」

「そう、じゃあ、タクシー乗り場まで行こうか。」

 樹は何とか笑みを作って立ちあがろうとしたが、凜が樹の両肩に手を置いてそれを制した。

「いいえ、もういいです。」

 と、彼女は言った。その瞬間、樹は体が震えたのを感じた。

「どういうこと?」

 目の前の18個も下の少女に対して恐れを感じている自分を情けなく感じて平常を装い、いつも通りの声で尋ねた。

「見送りは必要ありません。それより、ご自身を心配したらどうですか?あの医者が言った言葉に翻弄されて顔色が悪くなっています。自分の方を気にしてください。」

 凜に言われて樹は呆然として、後藤が彼の背後に視線を向けたのは気のせいではなく、そうした理由があったと気づいた。

「いや、あれは。」

「もう、いいんです。そんな風でしかいられない医者である以上受診はしませんから。」

 否定しようとした、誤魔化しの言葉を吐こうとした樹の言葉を遮るように、彼女は言い放ちそのまま病院を出て行った。彼女の歩くスピードはいつもと変わらないのに、樹の足は彼女の方へ踏み出せなかった。最後に見せた彼女の顔はしかめっ面で拒絶の色を宿した目とそれを口から吐き出された言葉に樹の恐怖が一気に増長したからだった。凜の姿が見えなくなり、自動ドアが閉まったと同時に彼女とつながった糸が切れた音がした。彼女は決して後藤に対して“あの医者”としか言わず、いつものように自分に対しても“医者”という呼称でしか呼ばないことが彼女に引かれた一線なのだと知り、樹は誰もいなくなった待合スペースの隅であるその席で呆然としながらも静かに涙を流していた。それは戻りの遅い樹を心配した桐山教授が樹を迎えに来るまで川のように流れ続けた。

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