第3話
診察を終えて、精神科病棟から休憩室に行く途中にある売店の前で白衣を着た180センチある樹のさらに5センチは大きい大柄の男で、且つ肩幅の大きな男とすれ違った。
「よお、久しぶりだな。内山。」
と、その時に声をかけられ樹は驚いて振り返った。すると、彼も樹の方を振り向いてニヤリと笑った。
「久しぶり。後藤。」
樹は内心では不愉快なことこの上ないが、売店はよく医療関係者も利用するので、こういうこともあるかと思い返した。
彼、後藤修也(ごとう しゅうや)は樹の大学の同窓であり、成績は中間層だったが、実家が大きな病院を経営しており運動部に所属、やることが派手で目立つことが好きだった。逆に、樹は成績優秀ではあるものの、図書館で過ごすことが多く部活やサークルには所属せずに勉強に集中していて静かにいることを好んでいた。だからといって、樹に友人がいなかったわけではなく、医学部内に友人は多い方だったので、誘われれば旅行に行ったりしていた。そんな樹を気に障ったのか後藤は樹に対して暴言を吐くというちょっかいをかけることは多かった。大学卒業して同じ科に所属することになってもそれは続き、いや、卒業して毎日ほとんど同じ部屋にいることが多かったから、回数的には増えていった。しかし、それも3年前までの話で、樹が転科してからはほとんど関係もなくなり、たまにこうして廊下ですれ違うことぐらいだった。そもそも分野も棟も異なる科に所属していればこうなるのは当たり前のことだった。
そんな回想をしている樹は、目の前の後藤を見てまたいつもの暴言かと思い身構えた、いや、この場合は心を頑丈な膜で覆ったという方が正しいかもしれない。
「内山、お前、暇そうだな?」
「もう診察の時間は終わっているから。」
「へえ、さあすが、精神科。診察時間が終了時間と重なるなんてな。よっぽど楽なんだな。」
後藤の馬鹿にしたような口調に下ろしていた手を握りこらえながら、何かを返せば突っかかってくることが目に見える相手だったので、樹は沈黙を通した。
「何も言い返せないか。そうだよな。お前が転科した先が精神科というのは驚いたけど、楽したかったからだからな。」
後藤は高笑いして言った。彼の言っていることは樹の転科の動機に近いので、樹は堪えた。その時、彼の胸ポケットに入っていた携帯が鳴り始めた。
「早く行った方がいいんじゃない?」
これ幸いと樹はそう言うと、後藤は舌打ちをして電話を持って樹の方を見た。
「こっちは忙しいんだよな。お前のところと違ってな。」
と、勝ち誇ったように笑って言い、電話を耳元に当てて話しながらどこかへ行った。彼がいなくなったのを見て確認し、樹は大きく息を吐いた。
「ついてない。」
と、零した。
休憩室に入ると、先に終わっていたのか桐山先生がすでにお茶菓子である温泉まんじゅうを頬張っていた。
「お疲れ様です。内山先生。」
「お疲れ様です。桐山先生。」
「初日だったけど、その様子だと問題ないようね。」
桐山教授がもう一つの用意された湯呑にお茶を注ぎながら言った。入室してきた樹の表情が曇っていなかったのを見て彼女は心底安堵したようだった。
「はい。随分と大人びた少女でした。」
「そうなのね。当たり散らすような子でなくて良かったわ。」
そう言いながら、彼女は温泉まんじゅうを湯呑の隣に置いた。
「どうしたんですか?このおまんじゅう。」
「それ、義理の息子からの出張お土産よ。」
「出張していたんですか?」
「そう。と言っても、1日だけよ。」
樹は思わず驚いて訊き返せば、彼女は苦笑して答えた。
シングルマザーの桐山先生が育てた樹と同い年の娘にはすでに2人の息子がいて現在3人目の出産に向けてこのS大附属病院に入院していた。そのため、桐山教授もこの病院に泊まることがあった。娘の夫は医療機器メーカーの営業をしていて、桐山教授と同居しており、彼女が生活面をサポートしていると以前に聞いた。しかし、そんな妻不在の状態で夫である人が出張に行ったことに驚いたのだ。そんな心境を悟ってか、桐山教授はフォローをするような口調だった。
「そんなに心配しないで。子育ては慣れているし、義理の息子は子供の面倒もよく見てくれる良い人なんだから。今回はどうしても外せないからって頭まで下げてきたのよ。」
と言って、おかしそうに笑った。その表情を見て樹は渇いた笑いを零すしかなかった。樹が心配なんかする必要なく、彼女は並大抵の男性なら尻に敷くほどに器が大きく心の強い人だと実感した。
「それで、どうだった?」
そこで、話を切り替えたのは桐山教授だった。
「そうですね。コミュニケーションはすでに問題がありません。中学生とは思えないほどに大人びていてこちらの質問に対して素直に答えてくれているようでした。しかし、症状は深刻のように見受けられました。ただ、精神的なものか肉体的なものかは判断できません。何かで無理を強いているような気がしたのと、日常生活に異常がなければ今回の受診もしなかったと思います。」
「そうなのね。肉体的というのは?何か病気にかかっている可能性もあるということなの?」
「そのあたりは何とも言えません。すみません。」
桐山教授の疑問に樹はただの以前の科での既視感だったこともあり、思い込みの線もあるので、その辺は濁した。それを察してか彼女はそれ以上追究はしなかった。
「分かったわ。彼女の担当医はあなたなんだから、自分が思った通りに診て行けばいいと思うわよ。」
「ありがとうございます。これから、コミュニケーションを重ねて、彼女がこれ以上に悪化しないようにフォローをするのと、原因を何とか見つけられればいいなと思います。ただ、向こうが大人な分、自分のことをあまり話さない気がしますけど。」
「そのあたりは時間を使っていくしかないわね。」
そうした会話をしながらほおぼり全て口に入れた温泉まんじゅうは歯が溶けるほどに甘く感じた。普段、甘味が好物でもこの甘さには胸がもたれるようで、樹は自分の異変に首を傾げた。
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