第2話
午後最後の診察患者で、初診である14歳の少女を呼ぶために、樹は診察室のドアを開けてみると、一番奥でちょうど直進方向の1席に1人だけ黒い制服を着て肩ぐらいの長さに素人でも分かるほどに雑に揃えているが、綺麗な黒い髪の少女が鞄を抱えて俯いていた。
「柊さん。柊凜さん。」
樹はドアの所から呼ぶと、少しだけ体のみを起こした彼女が俯いたままそそくさと樹の前まで小走りでやってきた。その小動物らしい動きに樹はフッと笑ってしまった。
「柊凜さん?」
「はい。」
樹が確認するように尋ねると、彼女は高いが耳に響かない心地いい声で答えた。そのまま、彼女を診察室に案内して椅子に掛けてもらった。
「今日はよろしく。君を担当する内山と言います。」
「こちらこそよろしくお願いします。柊です。」
樹は彼女の向かいの椅子に腰かけて自己紹介をすると彼女も同じように返した。その反応とこれまで注意深く見ていた限りの様子だけで彼女は精神的には正常であり、依存症などの重い症状でないことは窺えた。ただ、彼女が決して顔を上げないことだけが樹には引っかかった。
「学校帰りですか?」
樹が質問をすると、少女、凜は一瞬予想外で言葉に詰まったようだった。
「はい。」
「この辺だと東中学ですか?」
「いえ、鳳学園です。」
「そうなんだ。遠いけど誰かに送ってもらいましたか?」
樹が挙げたのは一番近い所にある公立の中学だったが、凜が返答したのは全国的に有名な難関私立の中高一貫校だった。日本一の大学進学率をトップ争いするその学校はこの病院から自転車で30分ほど走った所にあった。
「いえ、タクシーで来ました。」
「そうなんだ。ご家族にはここに来たことは言っていますか?」
と、そこまで質問したところで凜が立ちあがった。
「あの!さっきから全然関係ない事ばかり訊いてきますけど、何が知りたいんですか?」
急に彼女が荒げた口調で言い放った。そういう態度に出る患者はいて樹はその対応にはなれていた。まだ、転科して1年目の頃には謝った対応をしてしまい患者にさらにストレスを与える失態をしたほどだ。しかし、彼女の反応からそういう場合でないことを樹は察し冷静に対応した。
「僕は君のことが知りたいんですよ。確かに、病状を聴き、それの対策をすること、例えば薬の処方や手術などの医療的行為がありますが、そうすることは必要です。しかし、僕が診ているのは君の心の病気です。それは、そういったもので治せる範囲でない場合が多いです。特に柊さん、君はそういう患者ではありません。だから、あなたのことを知っていき、病状を聞いた時に模索するための材料とするんです。」
樹は丁寧に彼女が納得するように話した。凜は少し経ち竦んでいたがゆっくりと腰を下ろした。
「分かっていただけて嬉しいです。」
「あなたは変わった先生ですね。大学病院の先生は患者に対して偉そうな態度か媚を売る態度の人ばかりだと思っていました。」
「手厳しいですね。」
凜の飾ることのない言葉に樹はそうとしか言葉が出なかった。否定もできない自分を苦笑で誤魔化すしかなかった。
「まだ、質問を続けてもいいですか?」
「はい、どうぞ。」
「じゃあ、この科を受診しようと思ったのはどうしてですか?」
「どうして?」
「いえ、これは私の個人的なものなんですが、この科はストレス社会と言われていても受診するにはまだまだ二の足を踏む人が多い科です。それなのに、君はここにやってきた。柊さんをそこまでさせたのは何だったのでしょうか?」
樹の疑問に凜は少し考え込むように俯く顔をさらに俯かせた。首が曲がっていていかにも首を痛めそうな姿勢になっており、樹は手を伸ばした。しかし、彼の手が届く前に彼女は元の姿勢に戻った。
「私はここ数年眠るという行為をしたことがありません。それを不憫に思っていなかったし治そうと思ったことはありませんでした。でも、今の生活で倒れそうになることが出てきて、周囲に迷惑をかけることが出てきたんです。」
彼女はそう言ってゆっくりと顔を上げて樹をまっすぐに見た。縋るような目ではなく強い意志の宿ったような、彼女の言うように追い込まれた人間がするような絶望ではなく光を見つめる目だった。その目に圧倒され樹は息をするのも忘れていたが、その顔が彼が3年前までいた現場で診てきた子供たちのように青白く、その目の下には大きな黒い影ができていることを少し経って彼の頭が認識した。
「私は6年前から続いてきた不眠症を治しそうと思います。だから、力を貸してください。」
彼女ははっきりとそう言った。迷いのない強い口調で、よもや中学生のそれではなかった。目の前に見える外見と言葉と態度から放たれる彼女の内面で感じるギャップに樹は困惑を隠せないでいた。それと同時に、数時間前の自分の態度を恥じていた。
それからは症状を確認するため、樹は色々と彼女に質問をした。
「不眠症はいつからですか?」
「6年前からです。お金を稼ぐために仕事を初めて少し経ってから。」
「仕事?」
樹は彼女に訊き返した。まだ中学2年という未成年で仕事をしていることに驚きを隠せなかったからだ。
「はい。主に執筆をさせていただいております。」
「そうなんですね。」
「その執筆をしてから少し経って、目を閉じると色々な場面が頭に浮かんできて、いつの間にかそれを椅子に座って原稿を書いていることが多かったんです。幸い、その時から仕事を多く引き受けていましたので、提出先はありました。」
彼女は肩を竦めた。
「それはその場面が出てくると、無意識に書き出すということ?」
「それとは違いますが、最初は無意識ですが、途中で自分は今書いていることを認識します。それは私にとっては普通のことだったのですが、おかしいと気づきました。」
「きっかけは何だったんですか?」
樹が尋ねると、テンポよく答えていた凜がそこで止まり、間が開いた。
「実は私5歳から教会孤児院に入っていました。」
「それで?」
樹が先を促すと、彼女は虚を突かれたように口を半開きにした。顔が俯きがちで髪で隠されているので、口元からしたわずかな変化は分からなかった。そうかと思えば、今度は口角が一瞬ピクッと上げられた。
「先生は医者としてだけでなく、人としても変ですね。」
「そうですか?」
「はい。今までの人なら同情か、私の容姿での嘲笑、あとは何かしらの反応をしていました。それが、普通だと思います。孤児院なんてマイナスのイメージしかありませんから。想像はその人の真実となっているんだと思います。でも、先生は全く気にも留めませんでした。」
凜は不思議そうに言った。彼女の言葉がこの部屋に響くと空気を一気に重くした。それでも、樹の心が軽かったのは彼女から言葉の端端に見えたのが憎悪とか諦めではなく、ただの疑問だけだったからだった。
「僕はこの職業についてから患者の中に施設出身者がいたってことと、あまり、そういう出自は元から興味が沸かないことが大きいです。ただ、それはその人の境遇を知るには必要な情報だと思っていますけど。」
「そうですか。」
樹の答えに凜は指で膝辺りを叩いた。
「ところで、その育った場所が気付いたきっかけに関係しているんでしょうか?」
樹は少し前の話に戻した。
「はい。そこで、私が仕事をするようになったお金を院に入れるようになってから、院長先生の隣の空き部屋に1人だったんですけど、夜中にする音が気になった院長先生が思い切って訪ねたんです。そうしたら、私に声をかけても反応がなかったらしく、先生は不気味に思ったようです。しばらくして、院長先生を見ると、先生は真っ青な顔でいました。とても怯えた表情をしていて、向いた私の顔を思いっきり叩きました。意識は途中から戻っているので、院長先生のそんな顔も荒げた声も叩かれる瞬間も分かっていました。でも、そんな行動に及んだ意味が分からなかったんです。先生に”気味が悪い””呪い付き”と言われるまで。自分のそれが常人のそれではないと気づかなかったんですよ。」
凜の話を聞いて樹はまず話の中の院長に対して怒りが沸いた。子供に対してそういう言葉を投げつけることがどれほどその子に悪影響を与えるか教育者として知っているはずなのに、自身の心情を取ったからだった。しかし、それを露わにしなかったのは凜の口調は全くの平坦だったことで、彼女がそれを現実と受け止めていることを知ったからだった。
「それからどうされたんですか?」
「それからは院長の勧めで病院に行ったりして薬を飲んだり、催眠療法を試したり、後は、教会だったので、悪魔祓いのために水で体を洗ったりですね。でも、何をしても効果がありませんでした。それから、お金は十分にあったので、私は中学からは孤児院を出て現在は中学の寮に住んでいます。そこまでは、特に日常生活に支障はなかったのですが、最近になってすぐ疲れて倒れそうになることが日中に多くなりました。」
彼女の話を箇条書きで重要な部分だけを抜き出して、カルテに書き出していった。
「話してくれてありがとうございます。今日はこの辺りですね。」
「先生はこの症状治ると思いますか?」
「分かりません。」
樹は間髪入れずに言い切った。それに、彼女はクスクスを笑った。
「そういうと思いました。これからよろしくお願いします。内山先生。あと、無理に敬語でなくて大丈夫です。そういうのは堅苦しいので。」
「一応、分かったよ。でも、一応患者と医師であるからね。」
「はい。」
凜が返事をして荷物を持って立ちあがった。
「送っていくよ。」
「別に子供ではないですから結構です。」
「いいから。うちの風習だと思ってください。」
凜の断りの言葉に被せるように樹は言った。
「分かりました。ありがとうございます。」
樹は凜とともに診察室を出てタクシー乗り場で見送った。
少女とは程遠いもう見得なくなった彼女に樹は苦笑して、病院に戻った。
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