第7話

 3年前、樹は小児科外科医のホープとされていた。手術の腕は教授のお墨付きが出るほどであり、アメリカでの研究をまとめた論文発表も高い評価をされ、それにより研究者としての実力も示されていた。それが一気に崩れたのは、春の世間的には大型連休が差し掛かった夜だった。救急の当直だった樹はその日折り合いの悪い後藤と本当はもう1人いたはずだった。その1人が接待への参加を希望したため、その日は医師が2人での対応となった。その日、夜8時頃に1人の少年が酷い腹痛を訴えて救急搬送されてきた。急いで診察にあたった樹は検査をして虫垂炎が破裂していることを知り、そのまま緊急オペになった。後藤が第1助手として入り、そのまま手術が行われた。手術は順調に進み問題なく終えた樹はそのままお腹を塞ぎ、後を任せてそのままオペ室を出た。それでかの少年は溌剌と退院してそのまま病院を去るはずだった。

 手術後、樹は彼の主治医として担当するはずだったが、後藤が急に“俺に主治医をやらせろ”と言ってきた。それには驚いたが後は術後観察だけだったので、樹はそれを了承した。少年が入院して1週間後に退院をしたその日、彼を見送るため樹は病院の受付ロビーの方にいた。しかし、こちらに向かってくる少年の顔色が優れないことに気付き、樹は彼に駆け寄ろうとしたところ、少年は急に倒れてしまった。すぐに駆け寄って様子を見たが、すでに心臓が止まっていた。それに焦った樹はすぐに後藤の方を見たが、彼は一瞬だけ笑った顔から痛ましい顔に変えた。そして、

「手術をして治ったはずじゃなかったのか」

「内山先生、どういうことだ?彼は今亡くなったんだぞ」

「お前の手術の腕を信頼して傲慢に振舞うお前に執刀を任せたのにな」

 などと声高らかに叫び始めた。ロビーには受付待ちや支払い待ちをする通院患者やそのご家族、それから同僚が大勢いて、あっという間に樹は針の筵になった。すぐに、少年の解剖が行われ、原因は臓器損傷による出血だった。それは、手術で縫合しきれていなかった部分があったということ、つまり医療ミスであることを示しており、樹はその責任を執刀医である自分が背負うことになった。

 遺族である母親からは涙すら流さず、葬儀に出席した樹を見て

「どうして?どうして、うちの子だったの?」

「あなたの腕を信じていたのに、どうしてうちの子でならないといけなかったの?」

 と、言い続けた。その問いに解答を持っていない樹はただそれを聞き続けた。静かな口調とは裏腹に恨みもなく事実に悲しむ母親の姿と言葉が樹の中のもっとも大事な部分に穴を開けていく気がした。

 それだけでなく、原因が発覚してから樹の周囲が一日も待たずに変わった。今まで尊敬や憧れの視線を向けてきた人たちが一気に離れていき樹を避けるようになり、また、小児科外科医なので子供の親からの嫌悪も強く感じた。そんな状況下であることを見兼ねた、樹の恩師でもある教授に呼び出されて休暇の打診をされた。それが、精神的に追い詰められた樹にとっては最後通告のように聞こえ、彼は転科を希望した。それに驚いた表情をした教授ではあったが、樹の顔を見てため息を吐いてから“分かった”と言って頷いた。樹の転科先を知った彼は荷物をまとめている樹の所にやってきて励ますように両肩に手を置いた。それは渡米する前日と酷似した光景で既視感を覚えた。

「もし、またここに戻ってくる気になったらいつでも来なさい。もちろん、あちらでも頑張って君を必要とする患者さんのために精一杯を尽くしなさい。」

とたった短い紙に書けば2文だけの言葉の羅列だったが、それだけ言って教授は自室に引っ込んだ。しかし、それだけだったが、樹の心には温かさが染みわたった気がして、目の前がぼやけた。そうして、聞こえないと思いながらも力の限り口を動かし、

「はい、ありがとうございました。」

とだけ呟き、荷物を持ち上げて数年働いた職場を出た。力一杯出した声は扉一枚も越えられないほどに小さな小さな虫の声音のようだった。

 それでも、そこから胸は張れなくても恩師の言葉に背中を押されて俯かず前を向いて歩けた彼は、その日一歩を踏み出せた気がしたのだった。


 その一歩を踏み出した所で樹の意識は覚醒した。過去のことをしばらくぶりに見たが、嫌な汗も寝不足のような倦怠感もなく、むしろすっきりとした目覚めであることに彼自身が驚いた。

「いい夢だったかもしれない。」

 いつも見ていた足が竦むほどに崩れ落ちる絶望の夢ではなく、一歩を踏み出す希望に満ちた、そう、小説でいうならバッドエンドからハッピーエンドになった夢だったかもしれなかった。そんな夢を見て、そう言葉が出てきて、表情も強張っておらずリラックスしていた。洗面所に行き鏡を見れば涙の跡はあるけれど、それだけで顔色の悪さもなく、いつも見ている寝ぼけている自分の顔であることに彼は安堵した。それから、彼は歯磨きをして顔を洗い、鏡を見て

「よし。」

と、気合いを入れた。

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