夢見の花騎士

にゃ者丸

今宵の悪夢は甘味なり

 幻想的な花畑。そこはこの世に存在しないものばかりの美しき花達が植えられている。


 彼女はそこに一人で立っていた。


 誰かを待つように、あるいは何かを憂うように。


 彼女の願いはただ一つ。


 願わくば、この花畑の一つとなった姉妹が、来世では幸せな人生を送りますように。


 白いドレスの裾を翻して。


 彼女は背後に現れた黒い渦の奥へと、消えていった。





 海。


 真っ白な雲が青空に浮かび、水平線の向こうで輝く太陽と一体となり。


 一つのコントラストを描いている。


 いかにも思い出の景色といった風景画だ。


 全くもってつまらない。


 私は絵画に飢えていた。もっと言うなら、この世界には存在しないだろうものが描かれた何かを見たかった。


 今、こうして振り返るに、私は若い青年であり。若い青年らしく、ありふれたものに価値を見出さない愚かでつまらない人間だったのだろう。


 そんな私にも幸運が一つだけある。


 それは、作者不明の謎の絵画だった。


 白いキャンパスを彩る、一つとして同じものは無い花畑が描かれた作品。


 この絵画に出会えたことだ。


 資産家を父に持っていたため、与えられる金は有り余っていた。

 芸術というか、ものの価値を見出す審美眼を持っていたから。


 今では、ただ自分が美しいと思ったものを手あたり次第に買い取っていただけなのだと、自嘲するがな。


 しかし、感性に関しては自信があった。


 だからこそだろう。


 私が骨董品屋で見付けた、その花畑の絵は。


 私に感性を強く刺激した。いくら出してもいいから、あの絵画が欲しい。


 本気でそう思えた。


 だが、その絵画はとても値段を付けられるような代物ではなく。

 むしろ、ここに捨てられた作品なのだと店主から聞いた。


 私は激しく憤慨した。こんなにも素晴らしい作品なのに、捨てるなど何という愚か者なのだ。


 しかし、今は前の持ち主に感謝せねばな。お蔭で、私はこの作品を手に入れる事ができた。


 一目見て、私はその作品が一番のお気に入りになった。


 毎日見ていて飽きないくらい、その絵画に惹かれていたのだ。


 ああ、なんと美しい、まるで人間のようではないか。


 一つとして同じものはなく、それぞれに違った魅力がある。


 まるで、この一面の花畑は人間を一輪の花に変えて、それを一つ一つ植えていったかのようではないか。


 私は毎日、毎日、暇な時間がある時は決まってその絵画を眺めていた。


 だが、同時に奇妙な事も起こるようになった。


 それは、あの絵画の中に迷い込んだかのような世界に私はいて、そこで私は白い女性を眺めているのだ。


 そんな夢を毎晩、毎晩、見るようになった。

 私は自然と、夢の中の女性が誰なのかを考えるようになった。


 全身が白く、また纏う衣服も純白で。この世の者とは思えない容姿の女性。


 麗しいとはこのことだろうか。まるで女性に興味がなかった私が、なぜかその夢の中の女性にだけは、夢中になっていたのだ。


 それからは、絵画を眺める私の理由は変わったのだ。


 絵画と同じく、一つとして同じもののない花畑に一人立つ女性。


 ああ、彼女はいったい誰なのか。彼女は私の妄想なのだろうか。


 それとも・・・・彼女こそ、あの絵画を描いたその人なのだろうか。


 気になって、気になって、仕方が無かった。


 その日の夜、私はそれまでと違って不思議な夢を見た。





 その日の夜、寝静まった私の意識は、当然のようにそこにいた。


 まるで窓からその景色を眺めるかの如く。


 私は一枚の窓に隔たれた世界で、その窓を通して彼女のいる世界と繋がるのだ。


 一つとして同じもののない花畑。そこに何時ものように、彼女は立っていた。


 しかし、今回はどこか違った。


 いつもの白い平凡な村娘の如く衣服ではなく、今回は全く違った格好を彼女はしていたのだ。


 待ち人を探すような、あるいは何かを憂いているような。


 悲しげな表情を浮かべる彼女は、純白のドレスを着ていた。


 その恰好はまるで時代が時代なら一国の姫。もしくは神殿で奉られる女神。


 花嫁衣装にも似た格好は、尋常ならざる美しさを秘める事なく曝け出していた。


 ああ、なんと、なんと、美しいことか・・・・。


 この世界の誰よりも、彼女は美しい。そもそも比べる事すら烏滸がましい行為だ。


 彼女はこの世の存在ではない何か、人間ではない何かなのだ。


 ああ、私が求めていたものはきっと・・・いや、まだ足りない。


 違う、違う、違う。私が求めていたのは、たんに美しいだけのものではない。


 そう、それは――――――――――――



 ああ、あれはなんだ?



 彼女の見つめる先、そこまで目を滑らせると、そこには如何にも悍ましい塊が蠢いていた。


 まるで、この世の穢れを集めて一纏めにしたような。


 それは背徳的だった。神の許さぬ異形であった。


 私が正気であったなら、今すぐ目覚めていただろう程に、それは人の心というものを容赦なく嬲るのだ。



 塊が蠢き、形を成した。それは、山羊のような足を持っていた。


 それは、毛のように細い触手に包まれていた。


 触手の隙間からは人間の目玉が瞼を開いた。


 腹らしき所に乱杭歯の人の口が開いていた。


 あまりにも背徳的で、あまりにも悍ましく、あまりにも・・・・それは私の感性を刺激した。


 彼の女性とは比べるべくもないが、確かにそれは人間の負の面を強く刺激する見た目であった。

 歴史に語られる邪教の者共が掲げ、信仰したという異形の神。


 あれは、邪教と称される者が信仰する神が顕現した姿なのだ。


 異形なる怪物が、蹄を鳴らして花畑を踏み荒らす。


 怪物が踏んだ所は腐食するように腐り、爛れ、何も残さない。


 その光景を目の当たりにした彼女の顔が、僅かに吊り上がったような気がした。


 一切の感情を動かさなかった彼女が、怪物が花畑を穢した事で、一瞬だけ怒りを露わにしたようだった。



 私は怪物に感謝した。あれのお蔭で、私は彼女の別の顔を見られたのだから。



 ふと、なぜだろうか。何も聞こえなくなった。


 いや、違う。この場の全てが動きを止めたのだ。


 あの異形の化け物でさえ、微細な触手の動きを止めて、じっと彼女の方を複数の眼球が見つめていたのだ。


 怪物の視線の先の彼女を見て、私は自分の目を疑った。


 彼女は、赤い霧を纏っていたのだ。そこには無かったのに。


 まるで血のような霧は、彼女の姿を穢していった。


 純白なドレスには、返り血を浴びて染まったかの如く、深紅の鎧がドレスの上に張り付き。


 純白のドレスを着た彼女の姿を、まるで装飾しているようだった。


 しかし、私にはこう考えられた。


 穢れを知らぬ純白にして純潔の女神を、穢れの如く人間の血が女神を堕としていくのだ。


 そう、それはただ綺麗で美しいというだけではない。


 それは、穢れを纏って尚、一層・・・・美しさに磨きがかかったのだ。


 彼女は、穢れを纏う事で己の美を昇華した。



 その両手には、何時の間にか真紅の剣と、ブーケの如く盾が握られていた。


 ああ、その姿のなんと雄々しく、なんと凛々しく、なんと儚く、なんと悍ましく、なんと愛しく、なんと美しく――――――・・・。


 もはや、言葉で言い表せるような領域に無かった。


 人が推し量れるような美では無くなったのだ。


 今の彼女はまさしく人智を越えた美の結晶だ。


 女性としての強さと弱さの全てを兼ね備え、その極地へと成った者だ。


 其は純白の姫君、其は真紅の騎士。


 この世の何者にも、彼女に勝る美など存在しない。



 異形の怪物が地団駄を踏んだ。まるで恐れるように、いや、憎むように。


 相反する事さえあり得ないものは、己が穢れに染めて見せんと。


 微細な触手を蠢かせ、複数の眼球を血走らせ、蹄を激しく鳴らす。



 そして、異形の怪物が美なる彼女に突進して行った。


 ああ、彼女が・・・・私は心配しなかった。


 これっぽっちも心配しなかった。


 なぜなら結果は目に見えているから。


 異形の怪物の身体に、無数の線が刻まれる。


 どこかヘドロのような色合いの体液を迸らせて、その怪物は細切れになって死んだ。


 剣を振りぬいた彼女が振り返る。


 自らが切り裂いたものを見つめる。



 彼女は異形の怪物だったものの肉片を素手で掴み、口元に運んだ。


 そして――――――果実を貪るように、彼女は異形の怪物だったものを食し始めた。

 汚らしい体液によって、彼女の顔を、鎧と、衣服と・・・彼女自身と、彼女が身に着けているものを穢していく。

 それでも、彼女は異形の怪物を貪った。

 その肉体の一片も残さず、その全てを喰らっていった。

 赤ん坊が下手な食事で手についたものを舐めとるように。

 彼女は異形の怪物の体液を舐めとった。


 その光景は、どうしようもなく、一人の男として感情の全てが激しく震えた。


 私も、彼女を穢したい。


 そう、思った瞬間。


 私は夢から覚めた。





 あれから、私は幻想的な花畑の夢を、彼女と出会っていない。


 それどころか、あんなに熱中していた花畑の絵画にさえ、興味を示すことがなくなった。


 私は自然と思い至っていた。


 この絵は完成品じゃない、失敗作だ。


 真に完成したと言えるのは、夢の最後に見たあの光景だったのだ。


 しかし、作者は描く事ができなかった。


 彼女という美を、芸術作品として創ることができなかったのだ。


 あの夢を見なくなってから、私は間もなくその絵を捨てた。


 どこかの骨董品店に、失敗作だからと置いて行った。


 恐らく、その絵の前の持ち主も、その前の持ち主も。


 あの夢の最後の光景を見て、その絵を捨てたのだろう。


 誰にも、誰にも彼女は描けない。


 そう、私達は理解したのだ。


 それだけのことなのだ。


 私は、その日から芸術作品というものに、若い時ほどの情熱を抱く事は無くなった。しかし、私は絵画が好きだったので、自分で美術館を起ち上げた。


 今や世界的に、少しは名の通るようになったが、未だにあの日に拾った絵に匹敵する絵画には出会っていない。


 もしかしたら、私は絵画が好きなのではなく、もう一度、あの夢を見たいのだろう。そして、彼女を見たいのだ。

 最後に見た夢の、最後に見た光景を、私はまた見たいのだ。


 だが、その日は今後、永遠に来ないのだと私は理由もなく納得していた。


 だから、単に私が芸術に関わっているのは、私が純粋に絵がすきだからだ。


 そう考えた方が・・・・・私は、あの日の光景を忘れられそうな気がしてならないのだ。



 今の私は幸せだ。好きな事を仕事にすることができ、愛する妻と出会い、子供に恵まれた。

 愛する妻に先立たれ、私は残った家族の・・・孫の顔を見れて死ねるのだ。


 それが、私にはどうしようもなく嬉しく、愛おしかった。



 私はもうじき死ぬ、だが寂しくはない。

 私は暖かな家族に囲まれて、笑顔で逝くのだ。



 ああ・・・願わくば、愛する妻と、もう一度・・・・・。







 私は死んだ、それは間違いない。

 ではここは――――――あの日の夢の光景ではないか。


 しかし、あの日と違うのは、私は窓に隔てられたところではなく、あの花畑に立っているという事だ。


 声が聞こえた。随分と懐かしい声が。


 愛おしい彼女の姿が見えた。


 ああ・・・・。


「ありがとう」


 なぜだか、私はそう言わなければいけない気がした。


 涙を拭い、私は妻のもとへと走り出す。


 走っている途中から、私の姿は老人からあの頃の青年の姿まで若返っていた。

 愛する妻も、初めて恋した頃の姿だった。


 私は妻と共に、花畑の先へと歩み出した。



 今度は共に、共に終わろう。



 私と妻は、花畑のその先へと、歩みを止めずに向かって行った。



 私達を送り出すように、純白と真紅の花弁が、花畑の空中で踊った。



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