恋愛スピリッツ

@kaede0808

恋愛スピリッツ

 子どものころの私は大きくなったらケーキ屋さんになりたいといっていたそうだ。二十六歳になった今日、急にその夢を叶えたくなったわけでもないのだが、近所にあるケーキ屋さんに行った。売ってあるケーキをすべて買い占めようと思った。閉店間際だったからかほとんどのケーキが売り切れてしまっていて、結局、小さなプリンを一つだけ買って帰った。

 もはや部屋の中にあなたの痕跡は何も残っていないのだけど、それが返って不自然でどうしてもあなたのことを思いだしてしまう。とどこおりなく私たちの関係はつづいていくはずだった。はじまりはゆるやかに、しかし確かに私の生活にあなたは浸食していった。ほとんどの恋人同士がそうであるように私たちは何の約束もしなかった。ただそうなることが必然かであるように行動し、じっさい、それらすべては義務のようであった。

 それなのに別れの日がやけに形式ばったものになったのはどうしてだろう。それは私たちのために行われたものではなく、まるで誰かによってビデオカメラで撮られていて、観客を喜ばせるために不自然な演技しているかのようであった。あなたは暑いとつぶやいてシャツを捲る。日に焼けた身体をつい目で追ってしまう自分が嫌で、早く準備してここから出て行って、と思ってもないことをいう私。それもまた出来の悪い脚本家が書いたセリフのように思えてしまう。とにかく私たちがはなればなれになることは凡庸であるがゆえにさけられないことであった。

 料理を作るのは私の役目だったけれど、いまではもうスーパーに行くこともない。冷蔵庫を開けても何にも入っていないから、私はしかたなく買ってきたプリンを食べることにした。誕生日だからといってとくべつ寂しくもなく、ただあなたとこのようなささやかな祝祭をいっしょに過ごしたことがないことに気がついただけだ。それくらい私たちの関係はみじかいものだった。そしてそれは一瞬であったから永遠に忘れられないという類のものでもなかった。明日になればあなたの影はまた少し薄くなるし、これから生きていく中でふたたび光放つこともない。すべてが思い出になればどんなにいいだろう。それは決して叶うことがない祈りだ。だから私は祈る。プラスティックの容器の底にたまっているカラメルソースをスプーンですくいながら。

 日付が変わるころのテレビニュースはみている者を挑発しているかのようだった。凶悪犯罪とよばれるものを人々はいつの時代でも好むものだ。タレント、コメンテイターという最初から恥をすてた者はともかく、SNSをみれば善良としかいいようがない人々があらゆる正義を行使していた。私はそれじたいを否定したくはなかったのだが、今日にかぎってはどうしたことだろう、なぜだが彼らの言葉を読むたびにうんと泣きたくなって、それでもまったく泣くことのできない自分があまりに不憫で、つまり私はまたひとつ年老いたのだということを実感せざるをえなかった。

 あらゆる人々は崩壊していっているように思えた。もしかしたら人間というものは産まれたときから崩壊しているのかもしれない。憎悪は剥き出しになり私たちの感覚を麻痺させるのにたいした時間は必要でなかった。あくまで人々は正義でありつづけた。誰もが被害者であり声が大きいものが勝利、あるいは敗北をおさめているようであった。

 そうやってしばらくテレビニュースやSNSをみていると具合が悪くなっていったから視覚情報を遮り、スマートフォンでFMラジオを流しベッドの上に横になった。ラジオパーソナリティーの流暢な喋りはしかし不思議とうるさくなく、私はようやく一人になれた気がした。部屋が自分のものに戻ってきているのを感じて嬉しくなった。二人で暮らしていたときに狭いとは思わなかったが、荷物がへり一人になるとなぜかよりいっそう狭くなったようだった。

 認めたくはなかったが、私はあらゆることに絶望していた。私はどこかで信じていたのだろう。世界、社会、そして人間というものを。もちろんいま更になって気がついたことではなかった。生きていく中で出会ってきた人々を次々に軽蔑してきた自分がいることを私は誰よりもしっている。それでも私は楽観的であり続けた。いまとなってはどうしてそんなことができたのかわからない。ただ思考停止してみたくないものに蓋をしていただけのような気もする。

 あなたがこの部屋を出て行った日、こっそりとためらいながら連絡先までも消してしまったのはあまりに子どもじみた行為だっただろか。私は例外なくあなたのことも軽蔑していた。それはあなたにしたって同じことだろう。いまとなってはありふれた秘密をもっていた私たちはお互いが同じ色になって隠れていることを笑って、何の慰めにもならない愛の言葉をジョークとしていいあうことで精一杯だった。それ以上のことはのぞみようがなかったし、しかしのぞんでしまったから一緒にいることはできなくしまったのだ。

 強くのぞんでしまった願いは時としてその熱量によって叶わなくなる。私はケーキ屋さんになることができなかった。赤いランドセルを背負うこともできなかった。スカートを履くこともできなかった。女の子を好きになることもできなかった。

 そう考えてみるとやはりあなたと一緒になれたことは奇跡といってしまってもいい。あまり汗をかかないあなたの着た洋服からかすかに香るにおいがたまらなく好きだった。私よりもはるかに聡明なのに知識をひけらかさないように気をつけているところや、それなのに好きな映画を語るときは興奮してとまらなくなるところ、大きな身体なのに食べるのがとても遅いところや、猫アレルギーなのに猫に好かれるところ、または仕事から帰ってきて一人でもくもくと小説を書いているところや、それを恥ずかしがって絶対に読ませてくれないところ、私はあなたのそんな些細なところが好きだった。しかしそれももうすべて終わった話だ。

 ふいに、FMラジオから流れてくる歌声に意識が向かった。それはいつかどこかで聴いたことある曲だったが、しかし誰の何という曲かということはまるで思い出せなかった。けれどその歌声は私にのこされた数少ない青春とも呼べるような感情を湧きあがらせたから、きっと十年くらい前のものだろう。


今までひとつでも失くせないものってあったかな

今までひとつでも手に入れたものってあったかな

どうか無意味なものにならないでね

今すぐ意味のあるものになってね

あの人がそばにいない

あなたのそばに今いない

だからあなたは私を手放せない


 まだ若い女性の歌声は、不安定ながらも力強く、どことなく寂しげだった。「無意味」や「意味」という言葉に過剰反応してしまうのは、近頃の政治家たちにおける生産性云々といった話のせいもあるだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。確かに、私は子どもの産むことのできない身体に生まれてきたし、それを悪いことだとも、あるいは、誇りに思うようなこともない。――しかしあなたの子どもを私が産めたならば? 私はそう考えて、すぐに思考を停止した。これ以上は考えてはいけない。少なくとも、いまはこれ以上「無意味」なことを「意味」のあることのように扱ってはいけない。

 私はあなたが好きだった。意味のない無意味。そんなあなたと私の関係。それはとてもすばらしいことのように思えた。それは長くは続かず、この社会には何の価値も見出さなかったけれど、恋というのは私たちの中にその瞬間だけすばらしいものとして存在していればいいはずだ。きっといつか思い出さなくなる日もくるあなた。そんなあなたに最後の言葉をかけることができるなら、私はきっとこう祈るように言うだろう。

 どうか意味のあるものにならないでね

 今すぐ無意味なものになってね

 あなたはどんな顔をするだろうか。いつもみたいに困ったような顔をして、笑ってくれるのだろうか。

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