農学部の博士①
不破とともに働き始めて数か月。私たちは驚くほどうまくかみ合っていた。
不破はその間に人口声帯を完成させて、私がそれを論文にまとめ、論文発表をもちろん不破の名前で行った。
学会では特に注目を浴びるわけではなかった。むしろ、門外漢の物理学者の私はどこか冷淡な対応を受けたが、私はめげずに学会で知り合いを取捨選択して、コネを広げた。これが将来不破の財産になる。
さらに不破のスポンサーであるシュナウザー社に、報告及び報酬の交渉を行った。
つまり、私は完全に不破の女房役で、外国の秘書によくあるような、「能動的で権限のある秘書」となった。もちろん論文の代筆もできる。理論とデータはすべて不破が用意するから、楽なものである。
最初は正直人生終わったと思ったのだが、生活が安定すると、これも悪くないと思うようになった。保険はついているし、不破は怖いがパワハラ上司(牛飼)とどちらがましかと言われたら不破を選ぶし、研究の世界に片足突っ込んでいることができる。普段の報酬はシュナウザー社から出るが、人口声帯の報酬が入った時私はボーナスを要求して、不破からいくらかの分け前をもらった。これで私はシュナウザー社だけでなく、不破に義理立てする大義名分ができて、将来のための貯金もできる。私は結婚相手を探すために自分が合コンに参加するようになったりもした。
不破との距離も縮まった。
机を並べて隣に座って仕事をし(部屋の隅と隅に置いたので対角線で3m強離れてはいる)、用事があれば不破の肩を(3m強伸びる教師の使う指し棒で)叩いて注意をひき、通信アプリでなく(3m離れていても聞こえるくらいの大声で)直接言葉を交わし、書類を(指し棒の先につけたかごに入れて)不破に渡し、喜びごとがあれば(2本の指し棒を伸ばして)不破とハイタッチする。
今や不破の一番の親友といっても過言ではなかった。
さすがにこの先も棒でばかりコミュニケーションをとるのは心が痛むため、私は「3メートル延びる簡単な義手」の作成に取り掛かっていた。不破が作った犬ロボットの、超劣化版、超簡易版で、材料もケチってはいるが、指があって開閉し、(シリコンだが)弾力のある手で不破に触れたら、その一抹の罪悪感も消えると確信していた。
こうして自分が幸せになりつつあると、不破の不気味さの根本が見えてくる気がした。
不破は中身が虚ろだ。
どんな人でも中身には幸福が詰まっていて、話をして関われば、その幸福をもらったり、逆にこちらが差し出したりもする。
しかし不破にはお金や、地位や、名誉や、友人や、家族に対する欲がない。欲がないと言えば聞こえはいいが、欲しいと思って手を伸ばしていないので、あっても幸福を感じることがない。
不破の幸福は犬とともにあることだけだ。
相手が人間でないので、それはいびつで、欠けたものの多い幸福だった。
不破とともにいると誰もが不破の中に詰まっているそれを本能的に感じ、危険を感じて避けたくなる。
不破は人として何かが欠けていて、どこかが狂っていた。
そのうえ奴は凡人の想像を超えた発想力と思い立ったら即日辞表を出すような行動力を持っていた。
どう考えたって良くはない。
ただ、ひたすら愛犬のために行動することが、たまたま人類を幸福にしてはいた。
だから誰も彼に何も言わない。その「誰も」の中に私も入っている。
その朝も、不破が出勤してきた。
「研究室以外では犬を持ち運びケージに入れること」という規則があるのだが、不破は特別製の透明の持ち運びケージの上半分を開け放して、犬がよく見えるようにしつつ廊下をゆっくり歩いてくる。
花魁道中にひっかけて私はこれを「愛犬道中」と呼んでいる。
恋人や家族を自慢したいという思いは誰にでもあるが、不破の場合それは愛犬なのだ。
今日の犬は緑の大きなリボンをつけて、赤いベストを着ていた。リボンには、「あれダイヤじゃね?」「まじ?」「いや。俺宝石好きなんだけどジルコニアと輝き(ファイア)が違うぞ。」と噂されているそこそこ大きな透明な石の飾りがついている。
そんなものつけていて、狙われないのかと思うが、不破がほとんどそばから離さないので、空き巣狙いの心配がないのだ。ほとんど貴重品を身につけて歩いているようなものである。
愛犬がすれ違う人々の注目を浴びるたびに不破の顔はとても誇らしげで、「こんな分かりやすい奴だったのか。じゃあいつもの無表情は何なんだ。」と誰もが思うほどである。(とは言っても、不破の無表情は私には見分けがつく。)
不破が研究室に入ると、廊下ではこそこそと話し声が飛び交う。
「あれが例の犬だ。」「不破の犬ってあれか。」「あの犬に許可なしで触るとパソコンがクラッシュするらしいぞ。」「あの犬にうっかり『殺す』って言った奴が、翌日行方不明になったらしい。」「あの犬が首につけてる石が本物のダイヤらしい。」とすべて本当の噂がなされている。かわいい犬なのだが、飼い主が強烈すぎて誰も「かわいい」まで行きついてない。
私は監視の目も冷めやらぬ中、完成したてのポスターを研究室の外に貼った。
農学の研究とは少しずれるが、不破が何をやっているのかその成果を見てもらう方がよい。
人が集まってくる。口を開いてくれる人があれば、時間がかかっても丁寧に答える。
これで信頼が始まって、気安く声をかけてくれるようになるからだ。
「artifical voice cordって何?」
「『人口声帯』です。癌で声帯を切って声が出なくなった人のためにうちの不破が作ったんです。」
「農学と関係なくない?」
「そっちの研究もしています。『クローン』ですが。ほら、見てください。」
不破の研究室には、ダイヤをつけて服を着たウェスティが飼われていた。
「え?あれ?実験動物だったのか?服着てるぞ。…人口声帯にあの犬関係あるのか?」
「クローンはまだ成果が出ていません。不破はもともとロボット工学者なので。この人口声帯は人口神経をのどに貼り付けて使うんです。人口神経も、うちの不破が開発しました。」
「へえ。」
そう、人口声帯はすごい発明なのだ。
私はシュナウザー社に交渉のために向かった時、担当者の締まらないにやけ顔を見て、はじめてその値打ちを知った。かなりの金になっているはずだ。不破に渡した開発費がはした金になるくらい。
「この神経、のどの内部に仕込んだ方がいいんじゃない?」
「その通りですが、体内にあると劣化が早いのと、取り換え作業を簡単にするために神経だけ外に出してます。」
「へえ。すげえな。でもなんでほんとに農学部にいるんだ?」
「不破がクローンを生涯の研究にしたいそうです。(愛犬のクローンを作りたいから。)うちの不破なら4年くらいで完璧なの作ると思いますよ。なくても必ず成果を出します。(犬の寿命が迫ってるから。)
あ、俺、不破のアシスタントで、企業出向の芝と言います。」
希望者にアドレスを渡して、今日も私の一日が始まる。
研究室に戻ると、不破が愛犬のリボンを選んでいた。
私は構わず報告を行った。
「一昨日行ってきた学会はそこそこ盛況だったぞ。感触は良くなかったが、質問は時間いっぱいまで途切れることがなかったし。5名以上いた。」
不破はちらりとこちらを見る。
「ついでにシュナウザー社の人と食事もして、実際に人口声帯を使われている現場を見せてくれるようにお願いしてきた。」
不破はうなずいて愛犬を呼んだ。リボンのリボンをつけ代えている。
「お礼の手紙とかも来るらしい。
それで次の研究なんだが、候補を用意した。ひょっとしてもう決まっているのか?」
不破は首をかしげつつ、舞い上がる毛を吸い取るための空気清浄機のスイッチを入れ、愛犬の洋服を脱がせてブラッシングを始めた。
話をしている時に失礼だと思う人もあるかもしれないが、不破は聞いている。
上司の命令があればじっと立って聞いているふりをすることもできる奴なのだが、興味のないことはすぐに忘れるので、その命令自体が無意味である。
よそではともかく、ここで私に対するときのみ、この態度でもいいことに、私たちは話し合って決めていた。(ただしその内容を不破が忘れている可能性はある。)
「ならいくつか候補を立ててみた。
一つはシュナウザー社だ。人工心臓を開発してほしいそうだ。一応パンフレットももらってきたし、あとでもう少し詳しく調べておく。
二つ目はこれは俺の意見なんだが。画像解析の新しいソフトを作るのはどうかと思う。
医療画像の立体化は現在それ専用の技術者がやっているみたいなんだが、その前に、エコーとか、X線とか、読み解くには熟練した技術が必要らしい。正直素人の俺には分からない。
だからこれを、もっと画像解析をかけて、影を濃くしたり、立体化したりして、鮮明にするソフトがあればどうかと思うんだ。
お前はロボットのプログラムを組めるくらいだし、俺も昔プログラマーのアルバイトをしたことがある。だから、やってやれないことはない。
学会に行ったときにちょっと感触を確かめてみたが、「そんなのがあればほしい」と言う意見がちらほらあった。「必要ない」と言うのは、すでに技術があって読める先生だな。
これならすぐに開発できそうだし、お金になりそうだ。ただ、もう話しちゃったから、開発するならスピード勝負だ。
どうする?」
不破は愛犬の毛並みを梳く手を休めて考えてからうなずいた。
「考えておく。」
「今日の予定は?」
「情報は集まった。クローンに取り掛かる。」
奴はこの数か月、人口声帯を片手間にやりながら、クローン技術についての文献を山ほど読み漁っていた。
「今日はそのためにリボンとMHCが近いウェスティを探しに行く。」
「あー、MHCってなんだ?」
「組織適合だ。」
「(まだ犬の臓器移植あきらめてないのか?)あー、じゃあ、俺は何すればいい?人工心臓については資料を集めておくが、俺もクローンについて勉強しておく方がいいだろうな?」
不破はうなずいて、犬を片手に抱えて、山になった学術書から、3冊本を抜き出した。山は雪崩を起こして崩れた。私は先にかごをぶら下げた指し棒を伸ばして、その本を受け取った。
「入門書だ。」
「(「advanced biology」って。これあっちの大学生物か?俺高校生物も取ってないんですけど。入門書ってすでに難しいんですけど。しかも洋書だし。)」
「画像解析のソフトは考える。
人工心臓はさっとでいい。たぶん作らん。
並行開発はそれでいく。」
不破が指しているたりをよく見てみたが、該当するのは私が作りかけている、「3mの義手(超簡易版)」のようである。
「それならすぐにできる。だから進めておいてくれ。
後で渡してくれればすぐ改良する。」
私は何となくうれしくて赤くなった。
「え?これお前に物渡すときに使おうと思って作ってるやつだぞ。」
「犬ロボットの応用ですぐに完成する。それに単純な数動作だけなら人口声帯と同じく、人口神経を外からつなぐことで簡単に動かせる。義手の次は義足でも義指でも特許を渡して稼げる。
だから、とりあえずは義手から始める。「伸びる義手」を作る。
出かける。今日はたぶん帰ってこない。」
「ん?すぐ出かけるならなんで来た?」
「リボンを見たがっている人たちのために来た。」
何か誤解があるようだ。しかし朝ミーティングができるのでその誤解はありがたい。
不破は優しい愛情こもった笑顔で、服を着替えさせたリボンに頬ずりをした。
やっと休めると思ったらまた着替えさせられてキャリーバックに入れられる愛犬の顔は達観した無表情である。
「犬にもプライベートな時間が必要だし、ちょっと休ませてやったら。」と言える勇気があればいいのだが。犬の寿命がストレスで短くなるかもしれないのと、犬の死ぬ日不破が何するか分からないことを考えたら。しかし臆病な私は今日も何も言わなかった。
出ていった不破を見送って、私は雪崩になった本を積みなおした。
今日の仕事は、シュナウザー社への体裁のために人工心臓の資料集め、訳の分からん「advanced biology」、「3mの義手の完成」。頼まれてはいないが、画像解析の資料集めが一番重要だろう。不破だって考えるのには元の情報がいる。
ちょっと仕事が多すぎるので、私は仕事の外注を考えた。
(外せないのは「advanced biology」で、これは私がやらなければならないが、「義手」は外注でもやれる。というか、外注の方がいいだろう。…丸地にお金出して頼むか?
「人工心臓」と「画像解析」はどっちも医療関係だな。…これもつてを頼って外注しよう。どうせ医療従事者の協力を仰ぐことになるから、どの人が信用できるのかわかる方がいい。
じゃあ今日は丸地、医療関係者のコネ探し、この洋書との取っ組み合い。)
私は雪崩を起こして積みなおした本の山を眺めた。
(合間に本棚も必要だな。組み立て式なら安いだろう。もちろんどれも不破に了解を取ってから。)
私も電気を消して、読みたくない洋書をカバンに入れ、研究室を出て鍵をかけた。シュナウザー社が人口声帯の臨床実験をすると言っていたのでアフターケアと称して見学に行ってコネを作ることにした。道中でアポイントを取れば、今日の仕事はすべて片付くだろう。
疲れ果てながらもシュナウザー社への報告のために研究室のパソコンに戻ってくると、研究室の外に丸地が膝を抱えて座っていた。
もとから大卒の、しかも研究者志望の高学歴者たちの中で、高卒の丸地はちょっとどこか肩身のせまそうな、自信なさげなところがあったのだが、携帯をいじって暇をつぶすでもなく、本を読んで教養を高めるわけでもなく、ぐーぐー寝て英気を養うわけでもなく、半目で廊下の床を見て背中を丸めて縮こまる丸地は、ちょっとどころか、かなり迷子の所在なさが出ていた。
(不破がいなくなって工学部で居場所がないのか?そうだよな。もともと不破のアシストするために雇われてるようなもんだし。
こいつだって、大学じゃなくてどこかの工場にいたら立派に仕事してるだろうに。)
大学の研究室は、学歴社会だ。そして学歴があっても出世できない人がひしめいている世界だ。学問の世界は美しく進歩に上下はないはずなのに、それこそ集団アイドルもかくやと思うようないじめや理不尽が横行していることもある。
(それでも辞められないのはやっぱり大学の研究室で仕事をしていることがどこか誇らしいからなんだろうな。)
私は声をかけて、事前に連絡しないと待ちぼうけになることを注意したが、丸地はほとんど聞こえていないらしく、生返事するばっかりである。
私は彼を招き入れて、仕事の条件について話して今日は帰るように言ったが、丸地は聞かなかった。
「明日の朝不破さんが来るまでにこれ仕上げます。」
「3mの義手」を握ったまま離さないので、任せて目指す義手について説明した。きっと任されるのも久しぶりなんだろう。わざと仕事を回さないという仕打ちを受けていたようだ。私も経験がある。
やりたいようにやらせることにして、しかしまだ研究室のカギを預けるわけにはいかない。血走る目で機械いじりをする丸地の隣で私は寝袋を伸ばした。物理学の院生のころから使っている私の相棒である。こいつがいれば机の下で寝ることができるのだ。
「夜10:00から2:00の間は寝るんだぞ。寝袋はないけど、不破の椅子と二つ並べたら横になれるだろ?」
「大丈夫っす。集中し始めたら眠くならないっす。」
「徹夜は効率が悪いぞ。10:00から2:00が睡眠のゴールデンタイムだ。そこだけ寝てれば脳はそんなに効率落ちないから。さんざん徹夜やった経験者の言葉は聞いとけ。」
「…。」
返事はない。丸地の目は義手から離れない。
私はありがたく眠らせていただくことにしようとして、まだ「advanced biology」が全然進んでいないことを思い出した。私もやらないといけなかった。
「うえ…。」
携帯のアラームだけで目が覚めた。疲れてるのに目が覚めてしまう自分が恨めしい。
傍らの丸地はまだ作業している。寝なかったようだ。
「丸地。コンビニで何か買ってくるぞ。リクエストあるか?」
「ないです。」
「おごるぞ。高いもの言え。」
「…から揚げ。」
「行ってくるから、下手に何も触るなよ。何か事故でもあったらかばえないからな。」
注意してコンビニに行く。
ミルクたっぷりのコーヒーを飲まないと目が覚めない。それも備え付けのミルクポーションでなく、牛乳をたっぷり入れて自分でカフェオレを作りたい主義なのだ私は。
丸地と二人分のから揚げと肉まんを買って帰り、研究室のポットでコーヒーをたっぷり淹れ(私はミルクもたっぷり淹れ、丸地はブラックだった)、二人で食べた。食べたそうにしているので丸地にはから揚げをゆずって、私は安いクッキー缶を出した。材料に不安を感じるくらい安いクッキー缶で、お金のない若手研究者に広く支持されており、近くの安売り菓子店で売っている代物である。丸地が緑茶を欲しがったので、常備ペットボトルも出してやる。
上司権限で半強制的に雑談に持ち込む。進捗状況を知りたいし、何より根を詰めてもいい仕事はできない。年を取るほどそれが分かる。そういう一般的な法則から外れているのは不破くらいだろう。あれを一緒に考えてはいけない。
「このままここにいて、不破さんにヒューマノイドを勧めるようにって言われてきたんですよ。瀬波戸先生に。」
「へえ。(やっぱりか。)」
「それにAIの学習のさせ方も分からないので、それも聞いて来いって言われました。」
「今はやめといたほうがいいぞ。不破は他のことを考えているから。
義手できそうか?」
「簡単すぎるけど、ちょっと部品が足りないんですよね。旋盤あったらすぐに削るんですけど。」
「工学部にあるのか?」
「いや、工学部はみんな注文するから。工場とかなら普通にあるんですけどね…。」
「…懐かしいか?工業高校。」
「懐かしくはないですけど…。不破さんのところに置いてもらえませんかね?
俺、不破さんのところにいると、仕事してるって感じするんですけど、一から作れって言われたら全然で。瀬波戸先生も俺はそういうのできないって知ってて雇ってくれたはずなのに、ひどいですよね。」
「ふふ。そういうもんだ。仕事って。どこだってそうだ。ここにも苦労はあるぞ。
ここにいたいのか?不破が決めるから、明日の朝聞いてみたらどうだ?」
「お願いします。俺ここにいた方が、早く仕事しあげられますから。」
と言う会話を私たちは交わしたはずだった。
翌朝不破が来た。今日の愛犬はまたリボンが違うんだろうと思っていたら、台車で大量のケージをのせてきた。一番上に載っているのはリボンちゃんで、リボンの色まで目に入らなかった。その台車に乗っているのは、「11個のケージに入れられた11匹のウェスティ」だった。
「今日からここで飼う。」
「…。」
「えっ?犬飼うんですか?ここで?ブリーダー始めるんですか?」
青いな丸地。そういうことは聞かなくても分かれ。不破がリボン以外のウェスティを飼うわけない。研究目的だ。犬ロボットのカバーのために毛皮をはいだことを忘れたか。
ほら不破ににらまれている。
「飼うのはこの子だけだ。この11匹はクローンの実験用だ。
芝。こいつらの世話と記録を頼む。」
「ハイ…。場所ハココデ?」
「農学部だから実験動物も可能だ。
この首輪をつけてくれ。
名前はAからKまで適当に割り振る。
俺は台車を返してくる。リボンを頼む。」
私はヒュッと息が出た。そのわずかな時間の間に愛犬に何かあったら私は変死する。かもしれないではない。変死する。
「俺が行く!」
「そうか。階段下の物置だ。掃除のおじちゃんに借りたので、会ったらお礼を言っといてくれ。」
そういう常識はあるんだよなあと思いつつ、私は台車を返した。
帰ると、不破が連れてきたウェスティたちは、どうにか住処を作られていた。
研究室の一角が犬の入っていたケージで囲われて犬広場になり、ペットシートや水入れも置かれていて、丸地が首輪をつけながら出してやっているところだった。不破は丸地の作った義手を点検していた。
「水入れに水入れてもらえませんか?」
丸地が頼むので、私は丸地を手伝った。
「雄雌に分けてA~Kまでの首輪をつけるそうです。メスがAからで、オスがKから。」
首輪やエサ入れなどの必要な物資は側に積まれていた。私は手近のケージを開けて、オスだったので、Kの首輪をつけて囲いの中に放してやった。
茶色の首輪にKの札をつけた白犬は、一目散に水入れに走って行った。
私は次のオス犬にとりかかった。
「しばらく自由に番わせる。オスメス一緒にしてくれ。
リボンに似た犬が産まれるかもしれない。」
私は不破に分かったと返事をして次の犬に首輪をつけようとして、はたと思い当たった。
(いやこれやってることブリーダーじゃね?)
「芝、犬の採血を頼む。すべてリボンの親戚だが、MHCを調べておく。」
犬の採血などやったことはない。物理学者だから。放射線源とガイガーカウンターを扱ったことならあるのだが。
ここはちょくちょく集めておいた農学部の秀才たちのメルアドを使うときだろう。学食1回おごる条件で、「この指とまれ方式」、できそうな人物たちにBCCで一斉メールを送り、一番初めに返事が来た人に決める。下調べもしておいて指導を受ければ完璧だ。ついでに友好も深めて…ってそうじゃない。
私は流れそうになる思考を引き戻した。(しかしメールは送った。)
(やってることブリーダーだったら、研究室追い出されるだろ。
いや、ロボット作ろうとするよりよっぽどまともなやり方だけども!
不破は何か超理論を展開して予算もぎ取ってくるかもしれないけど!
いや待て、俺今不破の秘書なんだから、予算申請するの俺じゃね?じゃあ説明するの俺なのか?無理だろ。)
「不破…クローンはどうする?」
「…」
お返事がない。不破は義手に集中している。
おそらく犬の世話係になるであろう私は、ペットシートに排泄した犬を誉めてご褒美の粒エサをやりながら、そちらをうかがった。
丸地は私が来た時点で、犬から離れて、不破の手元に視線を張り付けていた。
私も不破の貴重な作業をのぞき見しようとしかけたが、赤いベストを着た不破の犬が囲いをうらやましげに見ているのを見つけた。
いつもはかごの中で、「顔も見せない構わないでくれ」とばかりに、顔を隠して白い穴あきクッションのごとく丸くなっているのだが、今は仲間の犬に興味をひかれたのか、囲いにしてあるケージに遠慮がちに前足をかけてみたり、鼻で押してみたりして、しかし中に押し入る勇気はないようだ。
その姿は、甘やかされて過保護に育ったお金持ちの子供が、走り回る幼稚園の子供たちを指をくわえて見つめながら輪の中に入りたそうにしているような、そんな気持ちになった。
私は不破の作業をのぞきながら、指で肩をつついた。
目線で犬を示すと、不破はすぐに犬を呼び戻した。
愛犬は、1度目は聞こえなかったふりをし、2度目はのろのろと、それも時々立ち止まって不破が取り消してくれないかと顔をうかがいながら歩いてきて、やっと足元に来た1秒後には不破の腕の中に(嫌そうな顔で)がっちりと囲い込まれていた。
「リリ。お前が気に入った犬がいたら、子犬を産んでもいいぞ。でも今はだめだ。あの犬たちは寄生虫の駆除と予防注射をしたばかりだから、…1週間後から、一緒に遊んでもいい。
大丈夫。お前をいつでも特別にするから、ボスになれるぞ。かわいいリリ。
エサも散歩も、この子が終わってからだ。この群れの4番目にリリを置く。」
最後の言葉は私たちに向かって冷たく事務的に言われた。4番目と言うのは、不破、私、丸地の下ということだろう。私は返事をできる気分でなかったのでうなずいた。
想像してほしい。
尊敬し、こいつには絶対かなわないと思っている無表情の天才が、溶けそうにでろでろになって、甘ったるい声で観念している子犬に話しかけている様を。目と脳にかなりくる。賢い丸地は視界に入れないようにひたすら義手を見つめていたが、私はうっかり見てしまったために、知り合いをやめたいという心の声に一心に消しゴムをかけた。
私たちはそれから、無言で不破の作業を見つめた。
丸地はほとんど完成させてくれていたらしい。3時間もたたないうちに不破は義手から手を離して(犬を膝から降ろして)伸びをした。それは不破の作業ペースからしたら、短い。義手は3mの長さまで手元のスイッチで伸び縮みしたし、伸ばしても腕を曲げ伸ばしすることができた。肩と背中に取り付けたコードの信号をもとに動く。
「丸地、まだ手のひらの未完成部分があるな?」
「はい。」
「そこを完成させてくれ。」
「はい。『握る』機能だけでいいんですか?」
「『つまみ』もいる。親指と人差し指だけ神経を独立させてくれ。残り3本は一緒でいい。あとは腕だが…。」
不破は周りを見回して、カジュアルに私の腕をとると、ごく自然にノミをつかんで、腕に突き立てようとした。
「おいやめろ!」
私はすんでのところで気が付いて、不破を止めた。不破は止まった。
「ああ。許可を得てなかった。いいか?」
「よくない。いいわけあるか!」
「手と腕の構造を見たい。犬にはなかった。…麻酔を忘れてたな。動物用が家にある。」
不破は首をかしげた。
「でも人間に使うときの量が分からない。」
私は不破の飼っていたドナー犬がこんな具合に何となく殺されたことを知った。ロボット犬の構造の礎になり、ついでに毛皮はロボット犬のカバーにされてしまったのだろう。麻酔をかけられたらしいところだけは安心した。が、問題はそこではない。
「痛くなかったらいいとかそういう問題じゃないんだ。
いいか…不破。人を解剖するな。許可があろうが、見たかろうが、麻酔があろうが、…今度俺を解剖しようとしたら訴える。」
不破は驚いた顔をした。私の方がびっくりである。
「傷害罪だぞ。…どこへ行くんだ?」
私は目の端にそーっと出ていきかけた丸地を捕まえてにっこり問いただした。
「いやあ。そろそろ工学部に帰ろうかと思って。」
「ここにいたいんじゃなかったのか?不破に聞くんだろ。今聞こう。」
「大丈夫です!それに忘れ物思い出しました。」
「(戻ってこないつもりだな。)不破。丸地がここで雇われたいそうだ。」
不破はうなずいた。考える時間は1秒よりも少なかった。
「給与は工学部と同じで、会社がないので福利厚生は一切なし。成功報酬は給与の2.5か月分。俺の作る機械の下準備をしてもらう。犬ロボットの劣化版を人型にしたものだ。現在の予定は義手、義指、義足の作成で、随時追加する。すべて作り終えた時点で契約終了する。
この条件でどうだ?」
「工学部での有給が余っているのなら、それを使え。二重取りできる。その間に作り終えることができたら、報酬だけもらって瀬波戸さんのところに帰れるぞ。帰れなくても、うまく契約終了したらどこかに雇ってもらえないか、できる限り探してみる。」
私も畳みかけた。不破を尊敬して近寄ることも辞さない貴重な人材だ。
「…いや俺帰ります。」
ちょっと不破の刺激が強すぎたようだ。
「大丈夫だ丸地。さっきは俺も驚いた。不破が解剖しようとしたのはこれが初めてだぞ。(人間は。)もうしないだろう。(うまく止められたらたぶん。)飯食いに行こう。疲れただろ。学食おごるぞ。この時間開いてたよな?一番高いの頼め。」
私は食事をご馳走しながら丸め込むつもりでがっちり丸地を抱え込んだ。デザートもつけてやるつもりである。これで逃げられまい。義手義指義足=研究費は確保した。不破は無給なのだ。これが研究費と私へのボーナスになる。丸地を追い出してくれた瀬波戸さんには感謝しかない。
不破は時計を見て、食パンを折ったシンプルなサンドイッチと牛乳を出した。奴はいつも研究室で食事をする。愛犬が近くにいるからである。
不破は4年後、完全なクローンを完成させた。
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