工学部の博士①
不破が突然研究室を去って1週間。
私は教授に不破の居所を突き止めるように言われたが、連絡がつかなかった。
まず連絡先が分からない。
不破の緊急連絡先は、古い電話番号だったが、それは現在使われていなかった。そもそもたいてい教室にいる奴だったので、物理学教室に電話したら足りたのである。
メールアドレスは知っていたが、学内アドレスであり、教授と私が送ったメールは、未開封のまま学内メールボックスの中に積みあがっているだけであることが判明した。
教授は不破をアルバイト待遇で雇っていたために、人事課に連絡される様子もない。せめてなにか保険でもかかっていたら不破も一度は手続きのために来ていただろう。が、後の祭りである。
「友人知人に聞く。」この手は使えないだろうなと思っていたが、やっぱり使えなかった。彼に友人知人はいない。学内で不破と一番しゃべっていたのは私だった。
つまりきれいさっぱり行方不明である。不破の足取りなんて、プロの刑事さんでも見つけられないのじゃないかと思った。
教授が辞表を見るなり破り捨てようとしたので、何とか止めて、私が預かっている。
教授には「不破の意思を尊重している姿勢を示せば、不破も喜ぶでしょう。不破が辞めないと言った後で目の前で破りましょう。」と言ったが、正直努力の成果(資料及び論文)を奪い取られてさえまったく気にしていなかった人物が、「辞表を勝手に破らなかったんだな。」と人間的に感激してくれる未来は私には見えない。ただ、その辞表を破ると、不破とのつながりがきれいさっぱり消えてしまうような気がしたのだ。最悪失踪届を出すときにでも、指紋と筆跡が役に立つかもしれないと思ったのだ。
私が探索の成果を報告していると、教授は意味ありげににやにやしていた。
「不破の籍は残してあるんだろう?それを不破に伝えたか?」
「メルアドが通じないので。学務には伝えましたが。更新期間までだと言われましたよ。不破が学務に電話することがあればわかると思いますが…。」
確定申告の時とかに、所得証明が必要であると私は教えられていた。ただし不破が残りの年内でそこそこまともな給料がもらえていた場合に限るが、(つまり税金抜きの所得150万越えをしていた場合に限るが)それはあえて言わなかった。教室の安月給を批判することになりかねない。
「ふふふ。学務じゃなくこちらに連絡してくるはずだ。不破は失業保険には入っていなかっただろ?」
「はあ。」
「知り合いの企業全部に『不破は問題を起こしているから雇わないでほしい』と言っておいた。知り合いの教授全員にも同じことを言っておいたから、雇ってくれる大学もない。きっと生活に困って連絡してくるはずだ。そうなったらすぐに取り次げ。」
「…。」
物理学は机上の空論に思われがちだ。事実「紙とペンさえあればできる」と言われているが、実は実学に密接にかかわっている。飛行機の飛ぶ速さと揚力の関係、その時の外装の金属の耐用年数、ダムの壁にかかる圧力と必要なコンクリートの厚さ、大型機械の中で回転する潤滑液がどう内空を削るか。核兵器を作るのにだって、物理学者が必要である。
力を分解し、計算し、予測して、実際にそうなるのを見せる。それが物理学者の力だ。
だから、大型機械を作る企業はできる物理学者を囲いたがる。毎年特許をとれるくらい貢献する実力のある人なら、高給で雇ってもらえるし、学歴だけの張子の虎ならすぐに首になる。
不破はたぶん前者だ。疑いなくできる学者である。
でも牛飼教授の話では、その道は閉ざされた。
教授は知らない。いや、彼は自分の教室に長く居つく研究生が少ないことは知っている。教授のパワハラと「出張費自腹で」とかそういう細かいことの積み重ねで給与を削るせいで、学生は生活ができない。論文を持っていかれて熱意を失い、生活の苦労と無茶ぶりとバイトによる蓄積疲労につぶされて、死んだ目をして1年もたないで去っていく。1年半も持ったのは、人間的には問題山積みだが優秀だった不破や、実家の援助がある学生たちくらいである。
そういう学生が多いことは、教授も知っている。知っているが、その去って行った学生たちから、死ぬほど憎まれていることは分かっていない。彼らは教授に泣きつくくらいなら、普通に就職することを選ぶ。私がそれを知っているのは、物理学ではなくSEとして就職先を決めた元学生と飲んだ時に、「望んでいた仕事とは違うけど、ちゃんとお給料がもらえて保険もついて幸せです。」というしみじみしたセリフを聞いているからである。今でも教授に隠れて連絡を取り合っている奴らは多いが、共通しているのは「おのれ牛飼(恨)」である。不破がそのカテゴリーに入るか分からないが。彼はまともな言動もできるが化けの皮が薄いので普通の就職は難しそうだし、貯金もないだろうから、飼い犬のためなら戻ってきそうな気もした。
(しかしそうなると、不破は物理学から離れているかもしれないんだなあ。)
私は立ちくらみを感じた。
「もしかしたら抗議してくるかもしれないが、絶対に取り次げよ。講義中でも構わないから電話して来い。それに、ナンバーディスプレイを入れて、電話番号分かるようにしておけ。」
訂正する。教授は自分が憎まれていることは分かってる。分かっているがやっている。
新しい電話機について教授と必要事項を確認し、席に戻った私は、指紋が保存できるようにクリアフォルダーに入れた不破の辞表を取り出して眺めた。空き時間にはせっせと自分の研究を進めて成果を上げなければ私だって後がないのだが、もう捜索が打ち切りで、不破を探せないと思うと、名状しがたい感情が、胸に渦を巻いた。
私は不破が怖くて、話をするのを避けていた。なるべく近づかないでおこうとした。
それは事実だが、それでもなお前に進んで不破と向き合っていたのは、物理学者として彼をとても尊敬していて、その尊敬度合いが、恐怖の度合いを上回っていたからだ。
不破は勉強熱心だった。教室内と図書館の資料は雑誌に至るまですべて読み込み、なお足りずに外国の文献を電子書籍で漁っていた。そしてそれらをすべて頭に入れて、自在に取り出し、柔軟な思考でつなぎ合わせることができた。
思考は大胆だが作業は繊細で、計算間違いはすぐに気づいたし、実験結果もすべて記憶しているのか、入力ミスを指摘されたことすらある。
何よりも、成果が出るまで粘り強くあきらめなかった。半年も研究室に泊まり込みに近い状態で(日に一回は犬のために必ず帰っていたが)、目当ての仮説を証明するための装置を考案し、それを証明して見せた。(教授の名前で発表された。)
物理学よりも犬に熱意を注いでいた気がしないではないが(作業中に虚空を見つめて犬の名前をつぶやいているとか)、とにかく素晴らしい物理学者だったのである。研究室の全員が、教授も含めて、純粋に不破の新しい理論を楽しみにしていた。
電磁場を視覚化したファラデーがいて、そのファラデーを見出した科学者のデービーが「私の最大の発見はファラデーである」と言ったように、いつか私も、「あの理論を考案した不破を、私が支えたことがあったんだ」と言う日が来るかもしれないと思っていた。
不破がどこか人間的に欠けていることも、それを教室内で私だけがフォローしているということも、心のどこかで喜んでいた。
それが教授の度重なるパワハラと足引っ張りのために、不破はまだ全くできない頃からチェックもなしに論文提出をしてリジェクトを食らい、まだやり方もわかっていないうちにいきなりプレゼンを丸投げされて大恥をかいたうえで教授にいびり倒されたこともあった。
それをまるで意に介さないで次に見た時には自力でできるようになっているのが不破だった。
最初はろくに返事もできない奴だったが、(ろくに返事もできないのは今も変わっていない。ただ犬を飼い始めてから不気味さが顕著になって誰も話しかけなくなっただけで。)今では論文とプレゼンと会場設置にかけてはどこに出しても恥ずかしくない。普段はよれよれだがそういうときの不破はどこからか調達してきた(新品を買うお金はないはずだ)一張羅の古スーツを着て、敬語を使い、プレゼンは時間ぴったりで、期日は守り、遅れる場合のホウレンソウまでできる。
(やめるのは唐突だったけど、メールで引き継ぎはしていったし、辞表まで書けるようになったんだもんなあ。)
私は寂しかった。
不破が表面上はまともになってしまって、もしかしたら普通の企業に擬態のまま就職してしまっているかもしれないことが。
そして、物理学から離れてしまっているかもしれないことが。
(もっとやれることがあったんじゃないか。もうちょっと教授との間に入ってやればよかった。
あいつは犬のことさえ譲歩すれば機嫌がよかったんだから教授に掛け合って…。)
その時私は気が付いた。
不破の辞職理由が全く分からない。辞めて当然だと思うあまりに気が付かなかった。教室における待遇は今まで通りで、日帰りの出張以外受け付けない、急ぎの仕事があっても日に一度は家に帰る、犬の病院の時には休むという特別扱いを、教授は変えたわけではなかった。ウィーン行きだって強制したわけではない。不破は断っていた。それなりの理由があるはずだ。最後に見た時にはどこか不安定だった。病気かもしれない。もともと病んでいるし。
4年以上が過ぎて、私は不破のことを心のどこかで気にかけていたが、物理学業界では不破の影は見えなかった。どこかで別の物理学者に囲われているのではないかと思っていたが、著者の名前が誰であっても、不破の論文は見ればわかるのだ。それはなかった。
教授は不破のことにすっかり見切りをつけたようである。新しい学生も入れて、しかし不破ほどの学生はいなかったために、おそらく今までほど成果を上げられないことを責められているのだろう。常に不機嫌である。来年は予算も減らされる見込みで、申し出てくれる企業奨学金も、打ち切りがちらほらある。ただ口がうまいので何とかするだろうと思う。
教授は「才能ある学生なんて探せば見つかる」と思っているようだが、私はそうは思えない。探せば見つかるかもしれないが教授にその才能を搾取してつぶしてしまう権利はないし、不破は私にとってほかに見ることのできない輝く星である。(もちろん近くに寄りたいわけではない。)
不破の様子がおかしかった理由は、波久が教えてくれた。「愛犬が死んだときのことを考える」と不破がかなりおかしくなるらしい。二人の会話でアイドルの引退のことを話した時、なぜかそんな話題になったようだ。私の時もそうだったから間違いないだろう。どうしようもないことなのだから、教室に戻ってきてほしい。
不破が去ってから4年後も、私は同じ教室で、同じく牛飼教授の下で、秘書兼助教授をしていた。
私が重宝されているのは教室内で学生をうまく動かすからで、その日もその活動の一環として、5:5の合コンに来て飲んでいた。
断じて私が女の子たちと飲みたかったとかではなく、私の主催する合コンの場が荒れたりしないように、not遊びの付き合いを見張るべく、司会兼お目付け役としていたのである。
と言うのも、案外女の子に奥手なうちの学生どもは、悪い女の子に引っかかると、バイトに夢中になるあまり、課題を遅らせたりしてフェードアウトしてしまうやつがいるからなのである。遊び目的で女の子漁りに来るやつがいたりすると、あっという間に女性方のネットワークに広がって、もうまともな女の子が寄ってきてくれないかもしれないので、そうではなく、経済的にも精神的にも支えてくれそうなまじめなお嬢さん方を呼ぼうと思ったら、悪い虫を適時排除する必要があるのである。一次会には私が見張っているという安心感から、普段は出てこないようなまじめな女子学生も出てきてくれる。
特にその日は、飛び込みでよその学部の学生が入っていたために、そいつを重点的にマークしていた。
それは工学部の院生で、「ちょっと自慢話しすぎじゃないか」という以外はまともなやつだった。
「うちの学部でさあ、今すごいロボット発明してるんだよね。もうすぐ発表されるかも。」
「ロボットってどんな?」
「…犬のロボットなんだけど。」
私はなんとなく聞き耳を立てた。院生が言いにくそうに口ごもったのも、ちょっと気になった。
「なになに?売ってるやつみたいなやつ?」「写真ある?見たい!」
「もっとすごいの。まだ発表前だからさ~。見せらんないんだけど、今までのと全然違うの。犬の毛皮かぶってるし、動きもシームレスで全然ロボットらしくないし、大きさも小型犬くらいでちっさいの。しかも抱いたらあったかいところまで再現されてんの。俺も手伝ってんだけどさあ、あれだけの機構とプログラムを小型犬サイズに入れるのって、並じゃできねえから、繊細で時間かかる作業なんだよねえ。発表されたら見せてやれるんだけど。」
「ふうん。」「そ?」
写真もない、話だけならそんなものだろう。知能情報学科の院生は焦っていた。
「ほんとすごいんだってえ。」
焦って拗ねている彼のところに、私が話を聞きに行った。小型犬の犬種は「ウェスティ」だそうで、詳しいことは守秘義務で話せないが、同じ大学のよしみで見学に来てもよいという約束を取り付けた。
私にはすごく気になる。特に不破が飼っていたのと同じ犬種だということが。
「窓から白いカモメが下がっているのが目印だ」と言われていたので、研究棟の外からそのカモメを見た時、私は不破がいるのではないかとなんとなく思った。
そのカモメは風が吹くたびに、どんな機構なのか緩やかに羽をはばたかせていたのだが、それはいいのだが、なぜか頭に犬耳と、尾羽のほかに犬のしっぽがついている。顔立ちも心なしか犬に近い。むしろ「かもめの羽の付いた犬」と言ってもらう方がしっくりくる。
窓にむかって手を振ると、学生君は気が付いて手を振り返してくれた。
知能情報学科の研究室を案内板で探して入る。少し広めの作業場には、隅の方に学生が集まり、ひっそりと作業をしており、その反対側の隅に不破っぽい後ろ姿がパソコンを打っていた。
「いた。やっと見つけた。」
私は案内の学生君に目もくれず不破に駆け寄った。
肩をたたく前に彼のパソコンの周りを見る。
犬の写真のオンパレードである。違うのは犬の写真がコンビニの安いカラーコピーではなく、写真用のラミネートを施されていることと、犬が色とりどりの服を着せられていることが違う。しかし同じ犬だった。少なくとも前よりもお金に困っていないようである。
私は震える指で不破の肩をたたいた。
視界の隅を白い毛皮を着たシームレスな動きの犬ロボットがとっとっと歩いていく。さらに隅にはいぶかし気な学生君。私は不破の方を優先させた。
振り返った。やはり不破だった。
「おお。助教。」
相変わらずの仏頂面と無精ひげ。そしてくたびれて灰色がかった白衣と見慣れた赤青チェックのよれよれネルシャツ。
不破だった。
「どこにいたんだ。」
不破は首をかしげた。
「ここにいるが。」
「急に辞めてびっくりしたんだぞ。」
そのセリフに不破もびっくりしたらしい。ちょっと眉をしかめると、それで旧知の私のことは意識の外に追い出されたらしく、ふたたびパソコンの作業に戻った。
「ちょっとちょっと…邪魔しないでくださいよ。ってか知り合いですか?」
「前同じ物理学教室にいたんだ。急に辞めたんでずっと行方を探してたんだ。同じ学内の別の学部にいるとは盲点だった。
不破はいったいどういう経緯でここに入ったんだ。学部が違うだろ。」
「編入してきたんですよ。協力企業の紹介状つきで。…邪魔しないでくださいね。納期日前なんですから。」
私は頭をひねった。牛飼教授の圧力にもめげなかった企業があるということだろうか。あの人は外面がいいから、悪評を流して一学生をつぶすのなんか簡単なはずだが、教授の悪口よりも不破を信じる企業人がいるのだろうか。論文はすべて牛飼教授の名前で出されているのに。
とにかく私は不破を研究の世界に戻したい。
教授の席に座っているのが牛飼教授だとしても、本当に物理学を一歩ずつ前に進めているのは不破である。
(こんなロボット作らせておくなんて…。)
私は腕を引っ張って研究室から追い出そうとする学生君をすり抜けると、しゃがんで歩く犬ロボットを観察した。丸っこい手足といい、不揃いな毛並みといい、頭はできていないが、動きも姿も本当に犬のようだ。私が知っているロボットより、数段自然で、頭さえあったら、本物だと言われて信じたかもしれない。
「動きがシームレス」だとか、「触ると温かい」のだとか、学生君は言っていたが、これは完全に不破の好みで作られているのだろう。「犬が死ぬのが怖い」と思って退職したらしいが、理由はそっくりのロボットを作るためだったのか。
「不破。この犬ロボット触ってもいいか?」
不破はパソコンを打つ手を片手だけやめて、一言言った。
「Come!」
とっとっと歩いていた犬ロボットは、それを聞くと、ぴくっとして、一秒ほど考えたのちに、だっと不破の下へ走って行った。
不破はその首無し犬ロボットを膝の上にのせて、ふたたび両手での作業に戻った。
だめらしい。
「こっちに2号機ありますから。それ見てってください。」
ひそひそと学生君が、不破から一番離れた隅の作業場へ、私を連れて行ってくれた。
私は「二号機犬」を抱かせてもらった。ポリゴン調で本物らしくないが、頭がついていた。そして、真っ白な毛皮を着ていた。
「抱いてみてください。」
遠い目で勧められて抱き上げると、重さといい、重心の移動といい、本物としか思えない。学生君が言っていた通り、なんだか生暖かいし、ぐにゃぐにゃしているし、彼は言っていなかったのだが、心臓までついているらしく、胸を合わせるととくとくいう動物の早い動悸が伝わってくる。それに毛皮をなでると、なんだか本物の犬を抱き上げている気がしてくる。本物臭さがあふれているのである。黒い爪の付いたひび割れた肉球とかに。
(なるほど。気持ち悪い。)
すべて不破の膨大な計算と工夫の産物だと思うと、不気味で私はすぐに床に戻した。いったい奴はこれのために何日徹夜したのか。物理学にも電気や回路の素養はあるが、かなり畑違いの分野に入って4年でこれって、何をどうしたらそうなるのか。その情熱を物理学に注ぐことはできなかったのか。奴は人類の未来に貢献する気はないのか。
「動きも不破さんの考案したピストンと神経回路でスムーズですし、持ってわかるでしょ、本物そっくりで、もう協賛企業がついて販売予定なんです。」
「ほんとに本物そっくりだな。」
「ただ問題があって、まだ頭を作ってもらえないんです。それに、不破さんが作ったプログラムって、不破さんの犬の動きをもとにしているから、これを個々の犬のプログラミングに合わせて、さらに大きさとかも変えてもらえないと、販売してもらえないそうで。」
「個々の犬?」
「不破さんの犬にモーションキャプチャーつけて、AIに学習させたんです。で、もとのAIを不破さんが持ってるはずなんですけど、頭を作るのに一生懸命で、全然聞いてくれなくて。
この毛皮、本物そっくりでしょ?本物なんですよ。本物の犬の毛皮なんです。不破さん完璧主義者だから。…あっ、さっきの一号機、触る前に不破さんの許可を得てくれたの、ほんとよかったですよ。やっぱり元同僚は違いますね。あれ、許可なしに触った見学者のパソコンが、次の日『偶然』クラッシュして。それ以来誰も触ってないんです。不破さんは『記憶にない』っていうんですけどね。」
不破の『記憶にない』は、ほとんど犯行声明である。奴は証拠は残さないが嘘はつかない。
それにもちろん私は不破の同僚だったので、不破の犬は聖域であるという認識がある。
さらにここでも不破は集団ルールを完全に無視した個人主義者で、製品として売ろうとしているにもかかわらず非協力的で、逆の隅で助手たちが不破の最低限の協力を得ながら複製を作っていると。奴は出来上がるまで報告もなかなか出すの嫌がるが、出来上がれば何でも協力してくれる。本人もそのつもりで、パソコンの前にへばりついているのだと思われる。最低限の協力ラインは守るやつだ。
それはいいとして…毛皮?
「毛皮?えっ?本物の犬って?犬殺したってこと?」
「ええっとまあ…そういうことですかね?詳しく知りませんけど。」
学生君は目線をそらせた。
「動物愛護法とかに引っかからないの?」
「いや。自然死したとか言ってましたよ。プロに剥いでもらったって。血液型が同じ犬を飼っていたら、自然に死んだんだそうです。」
(それ本当に「自然死」なのか…?)
たぶん誰の胸にもその疑問は起こったはずだ。それに深く聞きたくはないが、「血液型が同じ犬」って何だ。それってドナー用に飼ってたってことか?
(よし帰ろう。)
私は不破が人の皮をかぶった悪魔だとわかったので、退散を決めた。
「人より犬の方が好きなやつだ」とは思っていたが、「同じ犬種でも愛犬以外はどうでもいいやつだ」とまでは分かっていなかった。「愛犬が死ぬのが嫌だ」と言う理由で凝ったロボットまで作るくせに、同族の犬を「ロボットにかぶせる毛皮がいる」と言うかんたん理由で殺せる奴だとまでは思っていなかった。
考えてもみてほしい。かわいいわが子と一緒に、「血液型が同じ」子供を育てていて、その子をほとんどとるに足りない理由で「自然死」させる親がいたら、それはホラーか異常犯罪である。2メートル距離にその人物がいたら誰だって裸足で逃げるだろう。
怖いと思っていた私の本能は、すごく正確だった。奴に関わるのは危険である。愛犬と同じ犬種でこれなら、人は蟻のようなものでしかない。気に障ったら同僚(私)にだって何するか分かったものではない。
物理学は新たな天才を待つとして、彼はここで幸せなマッドサイエンティストライフを送っているようだし、長居は無用だ。
幸い良い協力関係を築けているようだ。ここの人々は不破を歓迎している。
「これを愛犬を亡くした人向けに、愛犬の毛皮と愛犬の動きをコピーしたオーダーメイドの愛犬ロボット作ろうというのが、コンセプトなんです。一般向けにも作りますが、それはフェイクファーで。
だけど元のAIと、モーションキャプチャーに取り込ませるノウハウと、それに頭がいるんですけど…ちょっとどこ行くんですか!」
「いや。用事思い出したから帰ろうと思って。」
「まだもうちょっといましょうよ。」
学生君が目配せすると、部品を切ったりつないだりしていた学生たちが、私の腕にしがみついて腕ずくで止めにかかった。しかしながら私はこの部屋に長居することに生命の危機を感じていたので、必死でしがみつかれたまま作業場を出た。不破がいる部屋のドアが閉まるのを聞くと心から安堵した。
「なんでそんなに止めるんだ…!」
「なんでそんな急いで帰るんですか…ちょっとお話していきましょうよ…!…あ、もしもし瀬波戸さん?不破さんと話してくれる人見つけましたよ。元同僚らしいです。引き留めてますからすぐ来てください。帰ろうとするんです。」
「お茶菓子あったな。」「俺コーヒー淹れてくる。」「会議室に案内して。」
「俺は帰る…かえる…か…。」
「逃げたって物理学教室にいることは分かってんですからね。…観念してください。」
「逃げる…にげ…」
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