博士の愛した犬

白居ミク

物理学教室の博士


「不破、また断ってきたよ。ウィーン行き。」

「はい。そうですか。」

 その不破は、牛飼教授から見えない場所で、仕事をしている。牛飼教授だけでなく、誰からも見えないように、狭めの研究室だが、パーテーションで区切った端で囲われている。いるのは明かりがあるからわかる。それは「不破を視界に入れたくない」という、研究室の全員の願いによるものである。

 ついでに話をなるべくしたくないというのも、私を含めた全員の願いであるが、教授の願いでもあるために、助教授兼秘書である私が伝言係にされてしまうのである。

「何度も言ったよね。これはチャンスだって。留学の先を見極めるためにも必要なんだよ。あいつ英語できるし。」

 教授は英語が怪しい。質疑応答でも『誰も理解できない』という外国人研究者の評価を得ている。よって、不破か誰かの通訳が必要なのである。不破なら、質疑応答に完璧に応えられる。なぜなら論文を書いたのも彼であり、プレゼン資料を作ったのも彼であるからだ。ちなみに論文のテーマも彼が考え、夜を徹して実験を繰り返し、データを取ったのも彼である。教授は何をしたかと言うと、いろいろと不安のある不破を研究室に入れて、予算を取ってきて、論文を書いて献上(もちろん直接的に「渡せ」とか「寄こせ」とかは言ってなかったが、研究室内ではそれがまるまる不破の仕事であることを全員が知っていた。)させたことである。


 それが教授の仕事だというならそうであるし、不破に研究室が維持できるようなコミュニケーションスキルがあるとは思えない。だから、教授の功績であることは間違いではない。研究室は大体このようなものだ。ただし、ここまで完全に横取りしてしまうのは、それは教授の人格の問題だろう。


 私はそれが分かっていたが、逆らいようがない。ほかに物理学者がやっていける仕事なんてないだろう。私はこの牛飼い教室の助教授の一人で、今は不破との調整役を仰せつかっていた。不破の代わりはいないだろうが、残念なことに私程度の代わりはいる。


「そうなんですが…。」

「また犬のせい?」

「それがあいつには大事なようで。ウィーンへは、私か、ほかのだれか…みんな英語できますし。不破の実験を手伝ってた波久とかどうです?あいつ英語うまいですよ。物おじしないですし…。」

「英語の問題じゃないよ。不破の将来にかかわる問題。もう一回行ってきて。」

「(自分で言ってくれ。)」

「ちゃんと説得してから、報告してきてくれる?」

「(これは最後通牒か?)」

 人並み以上に働いているから、そう簡単に首にはされないだろうという自負はあるのだが、説得できなければちくちくつつかれる弱みになってしまう。しかし不破をウィーンに行かせる方法なんて、とても思いつかない。東京に行かせた時だって、無理して深夜便で帰ってきてしまうようなやつである。

 自分の物になるはずの栄誉を奪われたからと言って、なんら反抗することはないが、「一日一度は家に帰る」と言うのは、彼の聖域である。正直動かせる気がしない。教授に別の人を選ぶように説得する方が絶対楽だろうと思う。

 それよりなにより、彼と話したくない。


 私は不破スペースに寄る前に大テーブルで読書(近くに置かれた携帯では同じ動画がエンドレスループ)する波久のところに行ってみた。教授に「不破の助手だ」と言ったのはあながち間違いではないし、事実2か月くらい前までそうだったので、私も教授→私→波久→不破と、伝言役に便利になってもらっていたのだが、急にぱったり距離が開くようになって、それ以来実験も不破一人でやっていたし、どうしても記録係が必要な時は私が引き受けていたくらいだった。もちろん私たちの間には必要最小限の会話しかない。ほぼ沈黙の支配する共同作業だった。


「波久。」

「あ。芝さん。」

「ちょっと伝言頼みたいんだが。」

 波久の顔は引きつった。声は自然と小さくなった。

「不破さんにっすか?」

「うん。いやまあそうなんだけど。」

 私も不破スペースをちらっと見て声を潜めた。

「外国の学会に出席してくれって説得してほしいんだ。」

「えええ。思いっきり泊りがけじゃないですか。どうやって説得するんです。」

「それはお前が考えろよ。」

「うーん。」

「うまく行ったら今度合コン呼んでやる。」

 これは誰もが飛びつくプラチナカードである。理系男子の女子との出会いの少なさを考えると、私の妹のコネで開く合コンへの参加権は、「プラチナの人参」として、強力な推進力を生む。

「うううーん。…俺、彼女っぽいのいますし…。」

「じゃあすぐに断れよ。」

「それに不破さんとあんまり話したくなくて。」

「なんで?お前ら前は結構分かり合ってたじゃないか。」

 波久は、仮病を使って総選挙に行くほどの「ドルオタ」で、偏執的な不破と「合うのではないか」「よかったよかった」と研究室のみんなから(押しつけも込めて)喜ばれていたのである。

 それが合わない。なぜだ?

「いや。俺もそう思ってたんすけど…不破さん、ちょっと怖くて。」

「(怖いのは前からだ。)何かあったのか?」

「いや…その…ほんのちょっとした言葉をとらえて、急に変なこと考えだすっていうか。何を言い出すか分からなくて。それでしゃべるの怖くなって…。」

「(今さらか。怖いのは前からだぞ。波久。)そうか。」

 つまり私が行かなければならない。


 私は不破スぺ―スに向き合った。

 距離にして2歩ほどしか離れていないのに、研究室と不破スペースの間には、深い溝がある。誰も彼に話しかけない。私も話したくない。この溝を越えたくない。本当に越えたくない。

 私は本能の叫びを押し殺して、パーテーションのラインをくぐった。



 波久の机は、小さな2段の本棚の置いてある事務机で、本来大勢が横一列に机を並べる用の幅のせまいものだ。誰も隣に並ばないという理由から、それを彼は一人で使っているし、前回見た時、机にもパーテーションにもびっしりと犬の写真が貼ってあって、それは映画に出てくる異常者をほうふつとさせた。写真の中身が女性や死体や爬虫類や不気味な虫ではなく、目のくりっとしたふわふわの真っ白な犬だったとしても、それを乗り越える不気味さを醸し出していた。

 だから今回もパーテーションの内側に入りたくなかったのだが、前回とほとんど変わりなかった。むしろ写真が着実に増えていた。実験に必要な工程表や、予定表などの連絡事項は、写真の邪魔にならないように、すぐに見えない机の下に貼ってあるのである。不破の机では、カレンダーでさえ、邪魔と分類されて机の中である。

 かろうじて本棚の上に積んである古洋書の専門書が、ほっとするわずかな空間を作り出していて、私はそれを必死で見つめた。

 当の主はと言えば、休憩中らしく、ぐらぐらと前後に揺れながら、一つの名前をつぶやき続けていた。

「リボン リボン リボン リボン …ああ早く会いたい。」

(落ち着け!インクリボンのことだ!きっと切れているんだ!)

 すでに研究室のコピー機がインクジェットに切り替えられていることを私は知っていたが、それは無視した。彼の犬は「リボン」というのも知っていたが、そのことも努めて頭から追い出した。すぐに後ずさろうとする私の膝に、私は言い聞かせた。

(大丈夫!大丈夫!駄目だという返事を聞いて、それから教授を説得したらいいんだ。ウィーンなんて、どうせ旅費は自腹でとか言われるんだろうけど、荷物持ちと通訳にされるんだろうけど、それでもチャンスには違いないんだから、誰でも行きたがるにきまってる。…不破以外!)



 私も、波久ぐらいのオタクなら、笑って「現実の人付き合いも忘れるなよ~」とか、「ははは。昔俺も好きなアイドルいたなあ。」と軽口を叩ける。

 しかし、研究室で誰も不破に話しかけないのは、不破のレベルがそんなものではないからだ。

 真の狂気を前にすると人は言葉を失うのだということを、私たちは彼から学んだ。そういうときの私の気持ちを言葉にするのなら、「関わりたくない」「専門家に任せたい」という一言だっただろう。たぶんほかのみんなも同じ気持ちだった。たぶんと言うのは、誰も不破の話題を持ち出さないからである。不破がいるいないにかかわらず。みんな何かを恐れて避けている。

 しかし私は前に進み、彼に話しかけ、あわよくば説得しなければならない。

 今の仕事を守るために!


「不破。」

 不破は振り返った。

「ああ。」

 表情が抜け落ち、度重なる教授の無茶ぶりによってアルバイトを入れられないのが原因だろうが、やつれて無精ひげの生えた顔を、彼はこちらに向けた。服は相変わらずよれよれのネルシャツに、すりきれ過ぎててもはやおしゃれとはいいがたい擦り切れジーンズに、白衣である。

 ここで話題を盛り上げるために、「君の犬かわいいね。」とか言うべきだと思うだろうか?

 それは素人の考えである。

 この人物との邂逅は、一秒でも短い方がよい。よって用件だけを私はしゃべる。


「不破。ウィーン行きの件だけど。」

「ウィーン…?」

 不破は何かを記憶のかなたから引っ張り出そうとする遠い目をした。

「ウィーンで学会があるって言っただろ?それで、お前それを教授に断ったんだろ?たぶんメールで。」

「ウィーン…学会…?」

 学会などは不破の興味の外にある。彼にとっては、プレゼンも研究発表も、たぶんそんなに重要じゃないのだろう。ほとんど頭が犬で支配されてるから!

「それでお前は断ったから、教授が俺に説得しろって…理由は犬だろ?」

 不破は初めて焦点のあった眼で私を見た。

「俺は夜は家に帰ります。」

「うん。そうだよな。でもウィーンの学会は外国の研究者と話し合える貴重な機会だし…犬は俺が預かっても…。」

「『犬を預かる?』」

 不破は言葉の一部分だけを聞きとがめた。なぜこいつが私より頭がいいのか、本当は論文は夜中に小人がやってきて片付けているんじゃないかとか、ときどき思うが、間違いなくこいつの仕事である。誰も思いも及ばないほど頭は切れるし、記憶力は抜群だし、おかげで語学にも堪能である。通訳と論文関係以外で自分の言葉をしゃべることなんてほとんどないが!

「助教、俺の犬を預かる気か?」

 不破に敵認定されてしまった。

「俺が嫌なら、ペットホテルとか…プロが預かってくれるから、心配いらない。死ぬようなことはない。これは本当に不破にとってチャンスなんだぞ…。将来のことを考えるなら、留学は絶対しなけりゃならないし…。」

 不破は頭を抱えてがっと前のめりになった。私はびくっとした。おもわず逃げ帰ろうと思ったほどである。

「死ぬ…リボンが死ぬ…リボンが死ぬ…」

「死なない。死なないと言ったんだ。ごめん。ちょっと言葉選びが悪かったな。」

 しかし不破は戻ってこない。

「死ぬ…リボンが死ぬ…リボンが死ぬ…リボンが‥」

「(言葉をとらえて何言いだすか分からないってこれのことか!前よりひどくなってるぞ!徹夜続きのせいか!)うん。悪かったな。死なない死なない。リボンちゃんまだ死なないから。教授にはお前がウィーン行かないって言っとく。」

 言い切る前に私は逃げ帰っていた。

 こんな人間が日常生活を送るなんてありえないと思われるだろうか?しかし送っているし、論文を書いて、時間ぴったりの見事なプレゼンをするのである。犬が周りに全くない環境では、かなり普通(に見える)のである。


 私はその後教授に首尾を報告し、説得し、別の人選を勧め、これでこの話は終わったと思った。

 しかしまったく終わっていなかった。

 むしろ始まりに過ぎなかった。

 不破は突然牛飼研究室を辞めてしまった。 

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