第6話

 事務所で目覚めると、乾燥しているのに背中にだけ汗をかいて、身体中の水が干上がったようだ。



 喉がひりついて、灰皿代わりにしたままの洗面器を思い出す。

 重たい頭を抱えて二○一号室へ向かうと、数人のヘルパーがすでに集まっていた。

 もう吸殻が見つかった頃だろうか。



 振り返った菊池は咎めるでもなく、むしろ助かったという顔で俺を見た。


「青井くん、ちょうどよかった。ちょっと来て」


 部屋に入ると、大川と見たことがない介護士のふたりが辰木の足元にかしずいていた。


 ベッドの上で俯く辰木は、夜よりふた回りも小さく、土気色の肌に焼け焦げたようにも見えるシミが浮いた、ただの老人だ。



「お願いだから、辰木さん。ちょっと脚を上げてね」

 大川が子どもに聞かせるように言った。

「何かあったんですか」


 初めて見る介護士が顔を上げると、かぶりを振った。


「漏らしちゃって。冷えるから着替えなきゃいけないんですけれど、動いてくれないんですよ。手伝ってもらっていいですか」



 ベッド脇の洗面器は空で、心なしか濡れている。

 俺が帰った後に自分で片付けたのだろう。

 煙草四本をどうにか始末して、洗面器を洗った辰木の姿は老人だっただろうか。

 それとも、悪魔のような若い男の姿か。



 俺は辰木に近づき、足元に屈み、持ち上げようとするふりをして膝に手を置いた。

 肉がなく、剥き出しの骨があるような硬い感触だ。


 老人は動かない。

 俺は他の介護士に聞こえないよう、声を落として言う。

「頼むよ、今更このくらい大した秘密でもないだろ」



 辰木は何も言わずに俺を見る。


 睫毛が抜け落ち、眼球に赤い珊瑚のような毛細血管が散った、まごうことなく老人の眼だが、張った涙の膜は真夜中に見る男と同じだった。


 その中に、目の下にくまを作った、病人のように疲れた顔の俺が映っている。



 辰木が僅かに腰を浮かせた。


 俺の肩に掴まるようにして立つ老人を、下から持ち上げる形になり、ふたりの介護士がその間に下履きを脱がせる。


「青井くんの言うことは聞くんだから。帰る前で助かったわぁ」


 菊池がベッドからシーツを剥がしながら言った。


 両肩にかかる手は虚しくなるほど軽い。

 一瞬辰木が俺の方に倒れた。

 よろけたのかと思い、支えると、辰木が耳元で唇を動かした。



「恥ずかしい場面を見せたね」



 思わず顔を上げると、表情のない老人の顔と別の生き物のように突き出た喉仏があるだけだ。


 他の介護士には聞こえていないらしい。



 囁かれた声は確かに「また明日」と微笑んだ若い声だった。



 ***



 白く強烈に眩しいが温度のない十一月の朝日が目を刺す。

 光の刃で研がれた耳鳴りと頭痛が鋭くなった。



 眉間を揉みながら信号を待っていると、白いミニバンの横腹が視界を塞いだ。


 施設がデイサービスの利用者の送迎用に使っている車だ。

 ガラス窓の中の老人は、毛布とたるんだ首の皮に埋もれるように眠っている。



 バンが発車して視界が開けると、目の前の横断歩道から老人の集団が談笑しながら歩いてくる。

 ダンス教室の生徒だろう。



 この街で若い人間は皆死に絶えたようだ。


 俺とすれ違うとき、ひとりの老婆が持っていた小さな

 トランクが落ち、外れた蝶番から赤いひだが溢れた。


 腹を割られたトランクが臓物を見せたのかと思う。


 陽光を反射するサテンの煌めきで、ワインカラーのそれが社交ダンス用のドレスだと知った。



「あら、すみません」


 そう言って老婆は屈んで広がった布を掻き寄せ、トランクに押し込んだ。

 俺の方を見てぎこちなく笑う。

 笑顔だけは少女のようだった。


「あーぁ、ショーコさん何してるの」


 教室の仲間なのか、派手なセーターと頭髪が完全に禿げた老人がからかうように声をかけて、ドレスをしまうのを手伝う。


 俺はその脇をすり抜けた。



 施設で見た老人のカップルが浮かび、後から来た男もあの老婆を狙っているのかと思った。



 相方に先立たれた者が、余生で始めたカルチャースクールで新しい相手を見つける。老いた体に溜め込んだ熱気の生々しさが匂い立つようで嫌になる。



 振り返ると、老婆と老人が集団に追いつこうと足早に去っていくところだった。


 禿げ頭の老人の大学生が女をからかうような声が蘇り、ワインカラーのドレスの老婆には不釣り合いだと思った。



 それで踊るのではないにしても、下品なセーターの柄も合わない。落ち着いた赤に合う男の服は。


「アイリッシュグレーの三揃い、か……」


 独り呟いてから、かぶりを振って、俺は横断歩道を渡った。



 ***



 帰って驚くほど深く眠り、目を覚ますと父親からの着信があった。メッセージはない。

 かけ直さなかった。


 空がどろりとした琥珀色に染まり、電線がその重みに耐えかねるように垂れている。



 ビルとビルの間をけたたましく走り去る電車の窓が、西日で魚の鱗のように光った。

 凝り固まった肩を回して、俺は特別老人施設の扉を押した。

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