第5話
ベッドの上には、当たり前のようにあの男がいた。
暗がりで男は玉座の間の主のように俺を迎える。
「退屈で死にそうなんだ。話をしたくてね」
「退屈じゃなくてももうすぐ死ぬだろ。ここの連中は皆」
俺は椅子ではなく、音を立てて男の隣に座った。男は楽しげに笑う。
「煙草を一本もらっても?」
「図々しいな……」
俺が睨んでも男は意に介さず、俺を見ていた。
「灰皿は?」
男は夜中に嘔吐したときのための洗面器を指差す。
俺は枕元のペットボトルを取り、水を洗面器にぶちまけて俺と男の間に置き、煙草とライターを渡した。
「見たことのない銘柄だ」
男は手の中でひしゃげた箱を弄んだ。闇の中で指の動きが白く巨大な蜘蛛のように見える。
「私が吸っていた頃はバットだった。知っているかい。ゴールデンバット」
戻ってきた箱を受け取り、部屋に匂いがついて後で咎められないかと一瞬思ったが、どうでもいいと一本取り出して火をつけた。
「大学時代、俺の知り合いも吸ってた。太宰が好きだからって」
「太宰か、いいね。富嶽百景だろう?」
やはりジッドで笑う男だと思った。
「バットももうすぐ廃盤だ」
男は悲しげに眉をひそめてみせた。
「廃盤か長く生きていると、どんどん自分の知ってるものが少なくなっていく」
「不景気だからな、売れなきゃ淘汰されていく」
男は髪を搔き上げ、上を向いて煙を吐き出した。
「……淘汰というより時効のような感覚だな。自分の生きたものがどんどん消えていって、もう未練もないだろう、そんなに気張っていつまでもここにいなくていいんだと、許しを与えられているような気分になってくるよ」
「死にたいのか、あんたは」
男は答えずに肩をすくめた。
指先から煙が糸のようにほどけて、天井の闇に溶けていく。
「君が来てくれるのか賭けだったよ」
「自分の妄想だと思うことにした。そう思ったら何でもいい」
なるほどね、と溜息のように吐き出した男の声に煙が絡んで立ち上った。
「ここのひとたちは忙しいだろう。私のように時効を迎えたようなものを見ようとはしない。そういう意味では、若いひとはまだ隙があるけれど、ここにはあまりいない」
俺には隙があったということか。幻覚か悪魔かわからないものが滑り込めるほどの巨大な穴が。
「若いスタッフもいる」
「田端という彼だろう、彼は駄目だよ。明るすぎる」
男は俺を見た。
伏し目がちでどこか脇を見ているようなのに、真っ直ぐ俺の心臓の上で焦点を結ぶような視線。
部屋の微かな明かりを集めて、水銀のように目の奥の光が揺れる。
「君のような方がいい。ここで話せるのは君しかいない」
女を口説ける奴が男に嫌われるというのは間違いだ。誰かに自分を特別だと思わせるのが上手い人間には男も女もない。
「そう言って女を落としてきたのか」
男はまた肩をすくめた。慣れた仕草だ。
「田端は、童貞だってさ……」
俺が言うと、声を上げて男は笑う。
初めて聞く子どものような笑い声だ。
息をついてから深く煙草を吸い、虚空を眺めて男が呟く。
「昔、修道院にいるという娘がいて、いかにも貞淑そうなんだが『童貞様』といつ言葉を使うんだよ。驚いた。聖マリアのことだったらしいが……」
男はかぶりを振って洗面器に煙草を捨てた。飛沫が小さな魚のように跳ねる。
俺は無言で煙草の箱とライターを男の方に寄せた。
「君はどうなんだ。女は?」
明け透けだが不思議と下卑た雰囲気のない言い方だった。
「童貞様か……だったら、まだよかったけどな」
「失敗したのかい」
「失敗も、それすらしてない」
学生時代に付き合っていた女と働き出したら一緒に住まないかと言われていた。
断る理由も浮かばなかった。
大学三年生の冬、子どもができたと言ったらどうすると聞かれて、何も言えなかった。
女はすぐに嘘だと言ったが、暗いものを敏感に感じ取ったのだろう。
別れた方がいいね、私たち。
交際中に話したことは山ほどあったのに、思い出せるのはそのひとことだけだ。
結局、妊娠は真実ではなかったが、卒業式のとき見た袴の腹が帯のせいで膨らんでいるのが嫌な想像につながって、式の間中陰鬱だったのを覚えている。
「失敗してない、か……怖いのかい、父親になるのは」
恐ろしい男だと思った。心の奥底まで見透かされた気分になり、かえって自分の罪悪感が作り出した幻覚だと思うには都合がいいかもしれない。
「あんた、歳いくつなんだ……」
「さぁ……ずっと前からいる。女の生気を吸って、若いまま……気づいたらこんなところまで来ていた」
「女を死なせて、その分寿命を延ばして、他に何かあるのか」
「何もないよ。自分で生きるだけだ」
「……どん詰まりだな」
「そう、自分の生きるためだけ。でも、それももう限界だ」
セピアカラーの写真は相当古いものだった。
灰が落ちそうなのに気づいて俺も煙草を捨て、新しく火をつける。
男はすでに二本目を吸っていた。
「あの写真、若いあんたが写ってた……隣にいたのが妻なのか」
男は片方の眉を上げてから、苦笑した。
「見たのかい……」
「古い写真だった」
「そうだね」
「何番目の妻なんだ」
「違うよ、妻じゃない。一度ダンスホールで会っただけの娘だ」
男の横顔から表情は読み取れない。ただ時折煙草の先端で煌めく火の赤で、確かに呼吸しているのだと思った。
「ずっと昔の夜、一曲だけ踊ってそれで終わりさ。名字も知らない。名前はショウコと言っていた。くすのきに子と書いて樟子。小さいダンスホールで床から虫除けの樟脳の匂いがして、それで名前だけよく覚えている……」
エアコンが場違いに騒がしく温風を吐き出し、また白檀に似た香水が香った。
カーテンが揺れた。
その向こうには飲み屋に挟まれた、夜に沈む無人のダンス教室がある。
「それからだ、老いたのは」
男は顔を覆った。痛みに耐えるような押し殺した声だった。
洗面器の中でふやけた煙草が蚕の死骸のようだ。
「堕とせなかった女は彼女だけだ。負けたんだよ。それから女を殺して生きられなくなって、気づいたらここまで老いてしまった……」
沈黙の重たさに押されるように、部屋の床を煙が這う。
灰が落ちそうだと思ったとき、男は顔から手を退けて煙草を捨てた。
俺の方を向いた男はすでに完璧な顔を作っている。
「もう仮眠の時間だろう。付き合わせて悪かったね」
時刻は午前三時を回っていた。外の道路を行く車のヘッドライドが、窓の縁を白くなぞった。
「また明日」
男はベッドで脚を組んだまま言った。
「……次は煙草代取るよ」
「貢いでくれる女を探すようかな……」
掠れた声が煙草の匂いと共に残って、離れない。
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