第4話

 朝日の差し込む駐車場の裏で、水に濡れたプラスチック製の手桶やバケツ、用途のわからない鉄製の棒などが並んでいる。



 火曜日の朝には、入浴の介助に使う用品を洗って日干しするらしい。

 亀の甲羅干しみたいでしょと大川は言ったが、俺には戦場で並べられた兵士の死体袋のように思えて、アスファルトに染みる水の跡すら血痕に見えた。



 勤務を終えて煙草を吸いながら眺めていると、バケツを抱えた田端と菊池が現れた。


 菊池は俺を見るなり、

「あぁ、酷い顔色! 寝られなかったの」

 と茶化すように言う。

 夜の間は収まっていた頭痛が急に鋭く脳の奥を刺した。


 菊池が放り捨てていったバケツの中身を地面に並べながら、田端はデイサービスの送迎に使う車に運転手がキーをつけたままにしていることを愚痴った。


 その背中はいかにもスポーツマンらしく、同い年のはずの自分の手の細さが衰えた老人のように思えた。



 ふと、闇の中で見た二○一号室の男の陶器のような手が浮かぶ。



「この仕事っていうのは、変な話、精神を病むひとも多いんですか」


 田端は不穏なものを感じ取ったように顔を上げると曖昧に笑って答える。


「うーん、どうなんでしょう。青井さんが入る前にいた若い女性スタッフはちょっとそんなこともありましたけど。基本的にそうでもないですよ」


 何かあったんですか、と聞かれて、別にと返し、煙草を灰皿の中に放り捨てる。



「青井さんは、なんで前のホテル辞めたんですか」

 長居する前に帰ろうと思ったが、新しく煙草に火をつけてしまった。


「……向いてなかった」

「そうなんですか」

「ひとと話すのが好きじゃない」

「あぁ……でも、確かに大勢と騒ぐってよりひとりのが好きそうですよね。文学部っぽいっていうか」

「当たりだよ」

 へぇ、と呟く田端の声が嘲笑うように聞こえてしまった自分が嫌になる。



「田端さんは何で教師にならずにこの仕事を?」

 一瞬、眉をひそめた訝しげな表情に田端が秘めているプライドが垣間見えたような気がする。


「まぁ、この仕事も好きですし。教員も何だかんだで、狭き門ですよ」

「狭き門、か。ジッドみたいだな……」

「え、何ですか」


 控え室のドアが開き、顔を覗かせた大川に手伝ってくれと言われて、田端はエプロンの砂を払い慌てて走っていく。



 どんな経歴を持とうが自慢しようが、結局同じ施設の職員だ。


 煙を吐き出して、どこか遠い時代から来たようなスーツのあの男なら、ジッドの名を出したとき、妖しげな目を細めて笑っただろうかと、そう思った。



 ***



 俺は十五分早く出勤して、事務所で利用者の情報が入ったファイルをめくっていた。


 辰木義敏。

 要介護レベル二。

 四肢に軽度な障害。

 緊急連絡の息子らしい人物の電話番号。



 特筆すべきことのない項目を眺めていると、紙と紙の間に一枚の古い写真が挟まっていた。


 蝉の羽のように薄いセロテープがこびりついたそれを取り出すと、セピアカラーの面にふたりの男女が写っている。


 女の方は化粧っ気がなく、紅を引いた唇が黒く見える、肩を出したドレスを着ているのにどこか素朴な雰囲気の若い娘だった。

 ぎこちない笑みで、いやらしさのまるでない友人らしい距離を保つように、注意深く隣の男と腕を組んでいる。


 ふたりの身体の隙間の菱形に、どこかのパーティ会場らしいテーブルクロスとシャンパングラスがぼやけて見えた。


 男の方は、三揃いの細身のスーツに、整えた髪がわずかに乱れて額に下りた黒い髪をしている。

 鼻筋が通った、モノクロでも色の白さがわかる顔。横長の重たげな目。写真を撮られ慣れた完璧な微笑み。

 呼吸を忘れた。



 白黒写真だが、この男のスーツの色はわかる。

 アイリッシュグレーのジャケットに、青みがかったシャツ。カフスボタンの色は鈍い金だ。

 二○一号室に夜だけ現れる、女の命を吸って生きると嘯いた、あの男。


 騒がしいゴム靴の足音が聞こえて、俺は即座にファイルを閉じる。


「辰木さんがねぇ。まぁ気難しいどうしで会うんじゃない。あのひとも暗いでしょ。田端くんと同い年くらいだってのに疲れた顔して。怖いのよ、何考えてるかわからなくて」


 廊下の向こうからくぐもった菊池の声が聞こえた。

「ああいう男は昔っから嫌いで。田端くんはまだ可愛げがあるでしょ。忘年会のとき言ってたけどまだ童貞なんだって。見えないけどねぇ」


 勢いよく扉が開いて、私服に着替えた菊池と大川と目が合った。


「あぁ、今日は早いのね……、いつからいたの」

 バツが悪そうに低い声で菊池が言った。

「さぁ……、今さっき来たんですよ」

 大柄な菊池の横から顔だけ覗かせて大川がこちらを見る。菊池の首からもうひとつ頭が生えたようだった。


「青井さん。申し訳ないんだけれど、あとで二○一号室に行ってあげて。辰木さんがね、話があるって」

「辰木さんが、ですか」

「そう。夜の間何かお手伝いしてあげたの? 気に入ってらっしゃったみたいで。珍しいんですよ。あまりスタッフさんと話さない方だから」


 大川はじゃあお願いしますね、と頭を下げて、菊池も曖昧に会釈し帰っていった。

 ひどく気が滅入って、疲労が腹の底に凝る感じがした。



 ***



 向かいの雑居ビルのダンス教室の看板を眺めている。


 背広とイブニングドレスのシルエットが抱き合う絵が健全なカルチャースクールというよりパブやスナックのようだ。


 家と老人ホームとの往復で、ダンス教室の老人たちと行き帰りにすれ違い、街で若い人間の顔を見ていない。


 ジーンズのポケットから携帯を出すと、父親からのメッセージがあり、定型文のような文面の後「潤もたまには見舞いに来い」と付け加えてあった。

 名前を呼ばれるのも久しぶりだと思った。


 意識も戻ってないのに、行っても仕方ない。そう打ち込んで、送信する前に消す。


 母が元気な頃はろくに会話もなく、あっても喧嘩にもならないような不穏なわだかまりしかない夫婦だったのに、倒れてからは日課のように病院に通う父は何を考えているのだろうか。

 喋らない分、安心していられるのかもしれないと思う。


 俺はこのまま母が目覚めないのを望んでいるような気がした。



 携帯を机に放り捨て、反対のポケットにねじ込んだ煙草の箱とライターの感触を確かめて、二○一号室に向かう。


 事務所の窓に、ネオンが灯り出した街が濡れたように反射した。


 ガソリンを撒いて街に火をつける寸前に見る光景はこれに似ているのだろうか。

 そのまま全て燃えてしまえと、俺は思う。

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