第3話
夜の帳が下り、空が藍色に染まった。
巡回を終えて、窓の外を眺めていると、働き出して二日目だというのに長年ここにいたような重たい気持ちになってくる。
視線を下ろすと、先ほどまで下でたむろしていた老人の集団が消えていた。
一階のデイサービスで日中だけ訪れるここの利用者かと思ったが、雑居ビルにある社交ダンス教室の生徒らしい。
鞄からひだの寄った衣装の裾をこぼし、まだ何十年も生きる気でいるような、皺だらけなのに妙に脂ぎった笑顔が脳裏に焼き付いて、胃の底が重くなる。
ひどい対比だと思う。
老後に社交ダンスを学んで余生を過ごす老人たちもいれば、同じ時間死を待つだけのように安いホームで眠る老人もいる。
去年還暦を迎えた俺の父は間違いなく後者だ。
母は、自分を前者だと思い込んだまま後者になっていくのだろう。
また頭痛が始まって視線を遠くにやる。
どちらでも行き着く先は、あの丘の上の火葬場の細い煙突だ。
一時間前に入った父からの連絡はいつも通り。ダイレクトメッセージのような無関心な文面だ。
たぶん父は俺がまだホテルで働いていると思っている。
廊下の先で、這うような重い音が響く。
どこかの部屋の扉を押し開ける音だ。
明かりが消えて静まり返った廊下に出る。
自分のゴム靴の底の音が短い悲鳴のように響いた。
無意識に俺は二〇一号室の前にいた。
ガラスの向こうの暗い部屋には誰もいない。
考えすぎだと踵を返すと、隣の部屋のドアがわずかに空いていた。
利用者が用でも足しに行ったのかと戸に手をかけると、中にまだ人影がある。
ひとつではない、ふたつ。
暗がりの中で油粘土の塊に見える老婆は、空洞のような口を開けてベッドに横たわっていた。
その枕元に立っている、細い影。
ここにいるはずのない、どこか古風なアイビールックのスーツに黒々とした髪の、若い後ろ姿。
昨日の男だ。
「何、してる」
男は一寸間を置いて、こちらを向けた。
差し込んだ月光で顔の半分が青白く金属のような色に見える。
「お前誰だ。どうやって入ってきた」
男は何も言わず、代わりにベッドの上の老婆が何かの合図のように呻き声を上げた。
「起こしてしまったみたいだ。もう夜だから、騒ぐとまずい。場所を変えよう」
男の声は低く、湿った響きだった。
微かな足音を立てて老婆の元から離れると、男はこちらに歩いてきて、静かに扉を閉める。現実が遠のく感覚に襲われる。
古い香水か線香のような香りがした。
我に返って、俺の横をすり抜けていこうとする男の肩を掴んだ。
「どこに行く」
ジャケットの厚い布地越しに確かな体温がある。
男は不思議そうに俺を見返すと、口元だけで笑った。
「部屋に戻る」
***
明かりの消えた二○一号室で、俺は簡素なパイプ椅子に、男は寝台の上に腰かけている。
この部屋で眠っているはずの老人はいない。
男は目にかかる前髪を払ってから膝の上に手を置き、俺が話し出すのを待っている。
「お前、誰なんだ」
そう聞いた自分の声がいかにも沈黙に耐えきれないという上ずった調子に響いて嫌になる。
男はかすかに吊り上がった目を細めて笑う。
「もちろん、ここの利用者だよ。二○一号室の。痴呆症で足も悪い老人だ」
「馬鹿言うなよ……」
「本当だ」
男は袖のカフスボタンを外して、手を見せた。皮膚の薄い白い甲に、引っ掻いたような赤い筋がある。
「爪は切った方がいい。他の老人にまた怪我をさせると行けないから」
男は笑みを含んだ声で言った。
「煙草を一本頂戴した。悪かったね。ここでは吸えないものだから」
「全部幻覚だ……」
思わず呟くと、男は笑う。とてつもなく古いトーキー映画の俳優のような笑い方だ。
「あの婆さんの部屋で何してた」
男は目を伏せて、眠りに落ちる寸前のように首を傾げた。それから確かにこう言った。
「殺そうとしていた」
幻覚だと思おうとするが、光景と声の生々しさが邪魔をする。
先ほどこの男がいた部屋は、食堂で辰木といた老婆の部屋ではなかったか。
「青井くん、だったか。私はね、女の命を吸って生きているんだよ」
暖房が低く唸り、闇の中でカーテンが揺れた。
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