第7話
事務所に入ると、今朝見た介護士が俯いて机の上に何枚もの色紙を広げていた。
折り紙にして、来月のクリスマスに向けた食堂のオーナメントにするのだろう。
介護士は俺に気づくと手を止めた。
「今朝はありがとうございました」
「いいえ……それより、辰木さんはその、よくあることなんですか」
介護士がわずかに首を傾げる。
「あまり重篤なようには見えなかったんですが」
「認知症の方っていうのは、症状に波がありますから。いいときはいいですけれど、悪いときはね。徘徊とかもありますよ」
介護士はすでに器用に折り紙で五芒星を折り始めている。
昨夜、男が言っていた限界が近いというのも冗談ではないのかもしれない。
「ほら、ちょうどですよ」
介護士が顎で示した廊下の先が騒がしい。
窓にすがりつくようにして居座る辰木を、菊池と田端がふたりがかりで引き剥がしていた。
「ほら、青井くんが来たから。言うこと聞いて戻ってちょうだい」
菊池は俺を見るなり声を張り上げた。
その腕を振り払って、辰木が言う。
「外が、見たいんだ、私は」
老人の辰木の声を初めて聞いた。
痰の絡んだようにざらついて、震えた声だ。
真夜中に聞いた、本でも読み聞かせるような抑揚のある声からあまりにかけ離れていた。
「辰木さん、外が見たいのか」
俺を見上げた老人の唇の端に、叫んだせいか唾液が泡になっていた。
辰木が壁に手をついてまた移動しようとし、介護士ふたりが飛びついて止める。
「向かいに社交ダンス教室があるでしょう。あれを見たいって出て行こうとするんですよ」
困り果てたような声で田端は言った。
「自分も昔ダンスをやってたからって。この街のダンスホールでって言うんです」
菊池が鼻で笑った。
「やだ、ダンスホールがあったのなんて戦後すぐの話よ。辰木さんの歳ならまだその頃子どもでしょ。本当に何にもわかっていないんだから」
老人の身体が震えて、そのまま自壊し、バラバラになりそうなほどだった。
耳鳴りに目を閉じて耐えるが、止むどころかひどくなり、目の裏で血管が破れて赤くなるような気がする。
あまりに惨めだ。辰木、女殺しなんだろう。
そのふたりを殺して、好きなところに行けばいい。
老人の眼は怒りに耐えるように揺れ、さらに横長に歪んだ。
そんな目をするのは、笑みを作るときだけじゃないのか。
女を堕として命を吸い取るための笑顔を作るときだけだ。そうだろう?
「お前こそ、何を知ってるんだよ……」
思わず呟いた俺の声に、老人が弾かれたように顔を上げる。
困惑した表情の介護士ふたりを押し退け、辰木の腕を掴んだ。
「見たいんじゃなく、出たいんだろう。あんたは」
我に返った菊池が誰か止めて、と叫ぶ。
田端が動くより早く、俺は堅牢なドアの鍵の解除機に手をかけ、ダイヤルを押す。
三、七、四。
介護士の手が、辰木の服の裾を掴む寸前に五を押した。
間の抜けたアラーム音が鳴り、ドアが開いた。
***
辰木の腕を掴んだまま、暗い階段を走る。
自分の足音で、追っ手の足音があるかどうか聞こえない。
この速度に老人がついて来られるか気がかりだったが、振り返って確かめている暇はなかった。
手の中で、硬いが細く頼りなかった腕の感触が、いつの間にか筋肉質な弾力に変わっている。
俺は足を早めた。
秋の果物を模した折り紙が貼られたロビーを通り、緩い空気が停滞した玄関の自動ドアを抜けると、剃刀のような冷たい空気が服の裾から流れ込んだ。
俺はそのまま駐車場へ走った。
送迎用のミニバンには、田端が愚痴っていた通りキーが刺さったままだ。
ドアを思い切り開け、運転席に座った。
エンジンがかかるか試すと、軽快な音を立てて難なく駆動する。
行ける。
助手席のドアが開き、アイビールックのスーツを纏った細身の身体がするりと滑り込んできた。
シートベルトを締めながら、男は仰け反って笑った。
「大脱走だ」
自信と余裕に満ちた、この三日で聞き慣れた声だった。
俺はもう一度エンジンをふかして、車を発車させた。
***
まだ夕暮れの街が歪み、ガソリンを溶かした水溜りのような輝きで車窓の外を流れていく。
アクセルを踏み込みながら俺は聞いた。
「で、どこに行きたいんだよ」
窓枠に肘をついて、男は楽しげに言う。
「どこへ連れて行ってくれる」
「そう言ってもな……」
曲がり角を曲がると、新装のパチンコ屋から音の洪水が溢れて、スクールバッグを抱えた女子高生たちが緩慢に歩いている。
忘れていた街の喧騒が雪崩れてくるようだった。
「運転するのも就活で免許を取ったとき以来だ」
男は大げさに眉を吊り上げた。
「行き先が地獄にならなければ御の字かな」
「嫌なら置いてってもいいんだぞ」
「老人虐待だ」
ルームミラーに映る男は、隣に座っているのと寸分違わぬ姿をしていた。
吸血鬼と違って鏡に映らないということはないらしい。
赤信号で停車すると、どこかのパブの呼び込みか、アジア系の女が短いダウンコートから剥き出しの足を突き出して寒そうに歩いてきた。
女は上着の前を搔きよせ、俺たちの車の横に立って、不思議そうに中を覗きこむ。
助手席で、男が片目を瞑ってみせた。
女は間を置いてから、呆れたように笑って窓ガラスを軽く叩き、去って行った。
女の目には老人と男どちらが映ったのだろう。
「この車のどこかに予備の靴はあるかな」
声がして振り向くと、隣には寝巻き姿の老人がいた。
視線を下ろすと、逃げるときに室内用のサンダルが脱げたのか薄く汚れた靴下だけを履いていた。
車内を見回すと、ダッシュボードに色あせたボックスティッシュと消臭剤、競馬場のマスコットキャラクターのキーホルダーがある。それだけだ。
「どこかで買うよ」
「すまないね」と答えたときには、もう若い男だった。
どうやっているのか、俺にはわからない。
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