待ち合わせ──弥勒の債務が残っておるぞ でもアンドロメダからは遠いし──

亜中洋

マハーヤーナ、発進!

 宇宙船の後方から極小白色矮星が排出される様子を私は見ていた。

 宇宙船の名前は「マハーヤーナ」。

 船の形は球状で、その直径は約1万2700㎞。

 推進方式はレーザー核融合で、航行中に採取した暗黒星雲から生成した小さな恒星を船体に格納し、それをエネルギー源とするダイソンスフィア型恒星間宇宙船。

 それが、「マハーヤーナ」である。


 マハーヤーナが天の川銀河・白鳥座湾にある母星を出港して100万年が経過した。

 目指す場所は10万光年先、オリオン座湾にある人類起源の地、太陽系。



 太古の昔、地球に住んでいた人類は、西暦5億年、海がマントルに沈みきる前に母なる星を脱出した。

 大海原に漕ぎだした我が先祖の船は天の川を漂流し、太陽系の場所から銀河の渦のほぼ反対側、白鳥座湾に浮島を見つけ、そこに接岸した。

 地球を発ってから1000万年経過していたという。


 それから50億年経つ間に人類は何度か絶滅したが、その度に人格合成施設から新たな心ある者「有情」が生成され、数千年の黒歴史期間を挿みながら人類の歴史は紡がれてきた。

 私はそうした繰り返される絶滅のなか、新たな人類として誕生した。


 地層の如くに積み重なった歴史ガレキの上に座り込み、過去の人類の記録を読み漁っていると、ある記述が目に留まった。


 弥勒菩薩は釈迦がこの世を去ってから56億7千万年を経たときに娑婆世界に下生し、衆生を救済してくださるという。


 釈迦の入滅から56億7千万年……計算すると約束の時間まであと500万年ほどだった。

 やばい。待ち合わせに遅れてしまう。

 こうしてはいられないと、急いで身支度を整える。


 衛星軌道上に放置されていた監獄を利用して、大きな乗り物「マハーヤーナ」を作った。


 技術革新によって窃盗・詐欺・殺人等の犯罪は意味を成さなくなっていった。

 かつてあった「犯罪」が無くなり、絶海の宇宙に浮かぶ監獄は、人格の保管庫として機能していた。

 犯罪者達は身体を剥奪された後、人格のクラウドサーバーにアセンションしないよう、スタンドアローンの檻に凍結されることになった。しかし、それが地上に降り注いだ厄災から守られることにもなった。


 100万年かけて宇宙船を作り、燃料を充填している間に100万年ほど地上を探索し、数億人分の人格データを回収した。


 そしていよいよ船出の刻。

 水素とヘリウムの混合気を船体中心の大空洞に注入する。ピストンで圧縮し、プラグで点火。

 マハーヤーナのマントル部分に回転する炎の星──恒星が生まれた。

 太古の時代の内燃機関はこの、吸気・圧縮・爆発・排気の4ストロークを秒間隔で行っていたらしいが、ダイソンスフィア型内燃機関は1万年間隔で回転させる。

 タコメーターの数値は0-100r/million yearsである。

 回転は常に人類に寄り添ってくれた。車輪、プロペラ、タービン。全ての回転に敬意を払い、マハーヤーナの各部位が動作を始める。

 システム総じ緑な。

 軌道計算中……航路に小惑星群、被害予想極小。舵取りを有情に委任します。

「マハーヤーナ、発進!」

 スロットルを開くとプラズマが超電導コイルによって押し出され推進力を生む。

 母星の軌道を離れたマハーヤーナは光速の10分の1まで加速しながら外宇宙に漕ぎだしていった。



 天の川は荒れていた。

 アンドロメダ銀河が天の川銀河に衝突し、その影響であちこちで新しい星が誕生していたのだ。

 星雲がぶつかり合いバチバチと発光し、スターバーストの嵐が吹き荒れる海域を抜けようと、マハーヤーナは銀河の渦の外側へと舵をきった。

 ブラックホールの深海を振り切り、流星群と回遊し、ダークディスクの水面を跳ね、銀河の中心部から約4万光年離れた凪の海域に出た。


 銀河の縁に近い場所では、比較的重い元素が少なく、生命が誕生する確率は低いとされている。

 無限の夜を進むマハーヤーナの保守点検を済ませながら、私は思索する。「救い」とはなんなのだろう、と。

 解脱する。悟りを開く。空に至る。───私には理解できない。

 苦しみから解放されること?

 浄土とは悟りを開いた者が行く場所ではなく、悟りを開くための修行を行う場所であるという。そこでは様々の“苦”はなく、修行のみに集中することが出来る場所ということだ。

 人類は長い歴史のなかで、少しずつ“苦”を取り除いてきた。

 支配、戦争、飢餓、疫病───釈迦が生きていた時代と比すれば、人界は浄土に限りなく近づいているのに、人類はまだ「救われたい」と願っている。

 家に居るのに「帰りたい」と感じるように、人類のユートピアはどこにもないというのだろうか。


 そうこうしていると、マハーヤーナが減速を始めた。

 船首を180度回頭し、逆噴射。1年ほどかけて減速を続けると、太陽系が見えてきた。

 太陽のハビタブルゾーンに侵入したマハーヤーナは一時停止し、側面からプラズマを適宜噴射して位置を微調整し、太陽の周りで公転を開始した。その後、船体全体にメロンのような亀裂が走り、いたるところから蒸気を放出させた。

 マハーヤーナの冷却が済むと、私は地表に出て直接、赤色巨星となった太陽を見てみる。

 予想通り地球は無くなっていた。太陽の膨張に伴い引力が弱まった結果、どこかへ流されてしまったのだろう。ボイジャー出しがボイジャーになったということだ。


 地球がなくなっても、弥勒は来てくれるだろうか。

 このためにマハーヤーナの大きさを地球とほぼ同じにしたのだが。

 心配事は他にもある。

 弥勒信仰の代表的なものに弥勒下生というものがある。弥勒はバラモンの女に托生し、やがてこの世で悟りを開き、人々を悟りに導くというものである。

 しかし、既にこの世にはアミノ酸で出来た人類は現存していない。

 それと、我々は救済の対象である“衆生”として認められるだろうか。という不安もある。

 仏教では自らの意思によって行為をなす生き物を心有る生き物──衆生とした。運命論・主宰神論のもとでは行為の善悪は成り立たないからである。

 私は自らの意思でここに立っていると信じているが、過去の人類が設計した施設で生まれたことも事実。ならば、私の意思は全て過去の人類─主宰神と呼んでもいい─に設定されている可能性の不安もつきまとっている。


 私はそうした雑念を振り払うためにも修行に励むことにした。弥勒を待つあいだに少しでも立派な人間になるために。

 マハーヤーナの地表を歩き、適当な場所で座禅を組んだ。

 朝日が身体の右側を温めるのを感じながら意識をマハーヤーナの電脳空間に落としてゆく。

 それから凍結されていた人格データを起こしていく。

 すべてが宝石のように輝く電脳空間で我々は瞑想を開始した。

 初めの内は70億もの人格の演算にあやうく空間が崩壊しかけたが、一人また一人と“空”に近づくにしたがって、消費電力は抑えられていった。


 33万年の月日が経った。

 マハーヤーナからの警報を受け取り、覚醒する。どうやらブラックホールが接近してきているようだ。

 意識を地表に置いてきた身体にもどす。身体の周りには藻類の植物にうっすらと覆われ、地面には自らを中心に幾何学的なひび割れができていた。

 その蓮の花弁のようなひび割れから視線を宙に移すと、確かに肉眼では見ることがかなわない巨大な存在を感じる。

 額の計器を開眼し、電波を見るとその輪郭を見ることができた。

 いままで見てきた中で最も巨大なブラックホール。アンドロメダ銀河の中心だ。

 周囲には球状星団が曼荼羅を連想させるようにパラレルに征く。

 立ち上がると、33万年の間に宇宙空間で漂っていた水素と酸素が化合したのであろう水が眼のくぼみから零れ落ちた。


 刹那、ブラックホールは蒸発し、弥勒菩薩は到来した。

 巨大な質量に引き込まれていたギガに及ぶほどの光が逆流し、太陽系が後光で満たされる。

 黄金の光が六度振動し、最後の揺れが私に触れる。

 菩薩が私に微笑みかける。

「待った?」

「ううん、いま来たとこ」

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