12

 次の日、マリアが目を覚ますと、朝食の用意がすべて終わっていた。テーブルの上にはほかほかのクロワッサンと並んだボウルからは甘いチョコレートの香りがした。エスが朝、買い出しに出かけたのだと分かる。

 彼女の泣き腫らして真っ赤になった目を見て、エスは気まずそうな顔をした。


「…あの、だいじょうぶですか?」


 冷たい水に浸したタオルを手渡す。


「あなた、昨日わたくしのことを初めて、マリアって呼んだわね」


 それを目に充てながら、マリアはにや、と笑ってみせた。

 エスは疲れたように遠くを見つめ、ふう、と息を吐き出す。


「お腹は空いていませんか?」


 話を逸らしたエスにマリアは慈悲の心で乗っかってあげることにした。

 お父さまも、男心はむずかしいんだぞ、って言っていたもの!


「ええ、もうぺこぺこよ! もちろん、あなたも一緒に食べてくれるんでしょう、エス?」


 髪の毛を搔き上げる。


「………はい」


 二人は、マリアの住んでいた頃の城に比べると、十分の一も、いや百分の一も小さいテーブルで一緒に食事をとる。小さいテーブルでも、楽しさはそんなに変わらないような、マリアはそんな気がした。

 和気藹々と食事が進む。


「次は『人魚の歌声』ですね」

「人魚と言ったら、やっぱり海なのかしら」


 ここは気候が暖かいし楽しみだわ、とマリアが微笑む。

 そんなマリアを見て、エスはぽつりと零した。


「マリアは、物事を楽しむ天才ですね。いつでも楽しそうに見えます」

「まあ、どういうこと?」


 それじゃあまるで何も考えていない人みたい、とマリアは内心思っていると、


「まっすぐで、強い。おれは、あなたみたいになれない」


 寂しそうに、ボウルの底に溜まったチョコレートをティースプーンでかき混ぜた。マリアはエスの意図を測りかねた。


「それは、もちろん…。あなたとわたくしは違う人間だもの。当然じゃない」

「そうですね、…いいえ。なんでもないんです」


 無骨な男が浮かべる笑みの儚さに、「なんだか、すごく悪魔っぽい顔ね」と心の中で独り言を言った。


「人魚っているの?」

「はい。北の海に王国を作っています。人間は立ち入れませんが」

「ここから人魚がいる海へ行くにはどのくらいかかるの?」


 鳥か、今度は亀か、とマリアは想像する。

 ところが、想像に反して、エスの口から出てきたのは、文明の利器だった。


「列車…ですかね」


 マリアは久しぶりに聞く文明に、瞳を輝かせた。


「わたくし、列車の旅が大好きなの」


 首にかけたロケットペンダントがマリアの喜びを表すように、シャラリと揺れる。


 のんびりと食事を終えた二人は、街へと遊びに出かけることにした。マリアはどれを着ようかとトランクに入った自分の服を見回す。自分がもとの世界から持ってきた唯一の白いブラウスと濃い灰色のスカートを見るが、気が滅入ってしまい、トランクの蓋を閉じた。


 結局、いつも通りの男物の服を着て、街に繰り出す。

 暖かい気候に晴れた空。

 この陽気で帽子をかぶったままでいられるなんてエスはすごいわ。

 マリアは鼻歌を歌う。


「ここはやっぱりどこかフランス風の街なのね」

「フランス?」


 並んで歩くエスが聞きなれない発音を繰り返した。

 それからしばらく黙り込むと、思い出したことがあるらしい。


「そういえば…、この街に、今から百三十年ほど前に稀人が現れたそうです。当時少年だった稀人は、やがてこの街の町長を務めることになり、立派な町長に感謝した街の住人たちが彼の故郷を再現しようとしたんだそうですよ」


 今から百三十年も前。

 たった一人現れた少年。


「その人の名前は、なんだったの?」


 マリアは、その同胞の名前をなんとなく知りたくなった。


「この街の女性と結婚して、彼女の姓を名乗ったようで…たしか、ルイ・ボンゾだったような」


 マリアはそうなのね、と静かに答えた。

 ルイなんて名前、たくさんいるわ。

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