11

 マリアとエスは身体中に細かい砂を纏わり付かせたまま、夜明け直後、サン・ジェルマンに戻ってきた。


「シャワーを浴びたいわ」


 宿へ戻る道中、石畳の道をフラフラ歩きながら、マリアは手の内にある小さい石ころを見つめる。


「それが、本当に願いを叶えるのに必要な宝物なんでしょうか?」


 エスも不可解な面持ちでそれを見つめる。


「きれいな石ね」


 マリアは微笑む。

 石の向こう側、通りの向こう側から『賢者』のメルキオールが歩いてこちらに向かってきているのが目に入る。親切なこの賢者に好意を持っていたマリアは笑顔で駆け寄る。


「賢者様!」


 嬉しそうに駆け寄るマリアに、賢者も目を細めた。


「おお、稀人の子」

「見て、トカゲネコの石。いただけました」


 両手を広げて見せると、メルキオールの白い髭に縁取られた顔も破顔した。


「おおそうか、そうか。辛辣なあいつらがのお」


 慈しみを込められた声が、マリアの後ろでエスが所在なさげにしているのを目に留めると、険しいものに変化した。


「お嬢さん、悪魔には気をつけるように言ったと思うが」


 攻める響きのある言葉に、マリアは少しの間逡巡し、困惑もあらわに恐る恐る返事をした。


「でも賢者様。エスは悪い人ではないわ。ひどいことをおっしゃらないで」

「悪魔に善良なものはおらん! こいつらは、恐ろしい力を持っている。その力が真に解放されたとき、被害を被るのはお嬢さんだぞ」

「で、でも…」


 なおも言い募ろうとするマリアに、賢者はしびれを切らしたように叫び声をあげた。


「ならん! 悪魔はすべて焼き殺せ!」


 その言葉に、エスは諦めたように脱力した。

 ただ辛い嵐が過ぎ去るのを待ち、耐え忍ぶその顔を見て、マリアは頭がすっと冷える。


「…星を読み、人を導く、この世でもっとも博識な賢者の一人であるメルキオール様。わたくし、そんな高邁なあなたにお会いできたこと、先ほどまでとっても誇りに思っていたわ」


 マリアの言葉に、


「なんですと?」


 ぶす、と眉間にしわを寄せて、賢者がふてくされたように返事をする。


「でも、こんな風に取り乱すお姿はまったく賢者らしく見えないわ。一体、彼があなたになにをしたと言うの? ただ、悪魔だというだけじゃない」

「お嬢さんはご存知ないかもしれないがね、古来より人を誘惑し、悪の道に貶めるのは決まって悪魔なんだ」

「どうして? いい悪魔もいるかもしれないじゃない。堕天使となった天使がいるように、やさしい悪魔がいたっておかしくないわ」

「いない者の証明なんてできるものか! お嬢さんも禁忌をそそのかされる前に、その奴隷を売り払ってしまうがいい」


 その言葉にマリアの堪忍袋の尾が切れる。


「賢者さま、うるさい! ばか! エスはそんなことしないわ!」


 マリアは立ち尽くしたエスの手首を掴むと、そのまま彼を引きずるように駆け出した。通りを駆け抜け、宿まで辿り着いた時には、マリアは砂と汗でおそろしいほど汚れていた。

 部屋に戻って、やっとマリアはエスの手を離す。


「あの人、きっと、歳とって気が短くなっているのだわ。気にくわないものを何でも攻撃するの。気にすることはないわ」


 マリアが怒りを口にしながら、ぽろぽろ涙をこぼす。そして気を紛らわせるために枕をぽかぽか殴りつけた。エスは顔を強張らせたまま、マリアの細い背中をぼうと見つめる。


「賢者樣の言うことが間違っているなんてありえるでしょうか? …どうしてご主人樣はおれにこんなによくしてくれるんですか?」


 マリアはカッとなってエスの方を振り向いた。


「あのね、エス! イヤだったら怒るべきなのよ! カジモドですら反抗したわ! あなただって焼かれたくはないでしょう!」


 マリアはその大きな目でエスを見据えたが、なにかに気がついたように見開くと、肩を垂らして力なく呟いた。


「でも、だからみんな死んだのだわ…」


 大粒の涙が絶え間なく溢れ、頬を伝って、絨毯を濡らしていく。

 エスは、そんなマリアを見て、訳がわからないという顔をした。マリアの顔ほどもある大きな手を、そっと彼女の頬に伸ばしかけ、それからどうしていいか分からずに宙で止った。


「おれは、怒り方がわかりません」


 エスの手を涙が濡らす。


「どうしてマリアが泣くんですか」


 マリアはしゃくり声を上げながら、エスの手を取った。彼女の細い両手でエスの手を握りしめる。


「悲しいからよ。う、うわああああん」


 その日、マリアは異世界に来て初めて、泣いた。

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