ウンディーヌ
三枝 優
第1話 ウンディーヌ
少女は今日も海に来ていた。
誰も来ない入り江。
そこで岩に座って海に足を浸して泣いている。
ここは両親の友人の家の近く。少女は今はしばらくその家に預けられている。
なぜなら、少女の両親が事故で亡くなったのだ。
朝から夕方まで。ここで泣き暮らしている。
夕焼けに染まる海。
その時、少女に声をかける声がした。少女の足元から・・・
「どうして泣いているの?」
金色の髪。青い瞳。白い肌。
そして水着をつけていない。海の中から上半身を出した素肌のままの若い女性。
驚いて何も言えない少女。
「どうして泣いているの?」
もう一度聞いてくる。
「おとうさんと・・・おかあさんが死んでしまったの・・・」
するとその女性は微笑んで言う。
「そう・・・大変だったのね。」
ちゃぽん・・・
近づいてくる。
「そちらに行ってもいい?」
うなずく少女。
女性は岩に手をかけて海から上がってきた。
それを見て息を呑む少女。
その女性の下半身は、白いヒレになっていた。
まるでイルカのような・・・
そう、その女性は人魚であった。
彼女は少女の隣に座ると彼女の頭をなでた。
「大変だったね。」
少女は人魚の胸に抱かれて泣いた。
ーーーー
それから毎日少女は入り江で人魚と会った。
たくさん話した。
人魚は少女の話をやさしく聞いていた。
やがて、少しずつ少女は元気になっていった。
人魚と少女は入り江で一緒に泳いだりもした。
人魚に教えられて、少女は泳ぎ方を覚えた。
2週間ほど、そんな日々をすごした後。
少女は東京にある祖母の家に引き取られることになった。
少女が人魚にそれを告げたとき、人魚は言った。
「それは良かったじゃない。」
「でも、人魚さんに会えなくなる・・・」
「生きていればきっとまた会えるわよ。」
「私も人魚になれないのかな・・」
すると、人魚は初めて悲しそうな表情をした。
「もし・・いつまでもそう思っていたら・・・いつか人魚になることができるかもしれない・・・。でもそれは人間でなくなることよ。」
その言葉は少女の心になぜか残った。
東京に行く日、また少女は入り江に来てお別れをした。
「人魚さん。ありがとう。また会えるかな?」
「えぇ。また会いましょう。」
そして海に消えていく人魚。
しばらくすると沖の方でバシャッっと飛沫が上がった。
少女の旅立ちを見送るように。
ーーーー
10年後、少女だった水川洋子は高校生になっていた。
今は東京の祖母の家から近所の高校に通っている。
友人もたくさんできた。泳ぐことが好きになった彼女は水泳部に所属している。そこならば、毎日泳ぐことができるからだ。
ある朝、担任がHRのために教室に入ってきて言う。
「今日は転校生を紹介するぞ。さぁ、入ってきて。」
入ってきたのは顔立ちが整った鳶色の瞳の少年。髪がちょっとボサボサなのでイケメンとまで言えないのが残念である。
「風間ヒロシと言います。ヒロって呼んでください。趣味は体を動かすことです。よろしくおねがいします。」
真面目に挨拶する少年。
「はい、席は・・・窓際の一番うしろが空いているのでそこでいいな。」
そこは洋子の隣の席。
やってきた少年に会釈すると、「よろしく」と言って微笑みを返してきた。
その瞳・・・どこかで見たような気がした。
転校生は水泳部に入部してきた。
結構きれいなフォームで泳ぐ。
同じクラスということもあり、洋子とはよく話す間柄になった。真面目で誠実。でも、ユーモアもある。
帰りの方角も同じとのことで送ってもらうことも度々あった。
・・・告白されたら、付き合うのかな・・・
なんとなく、それでも良い気がしている。
でも、まだ告白されることもなく夏休みになる。
夏休みと言っても水泳部はほぼ毎日、高校に通って泳いでいる。合同練習に自主トレーニング。
その日によって参加人数は違う。
ある日・・自主トレーニングの日。プールに行くとヒロくんしかいなかった。
「今日はヒロくんだけなんだ。」
「そうみたいだね。」
ニッコリと笑う。
しばらく、トレーニングをした後プールサイドで休憩をいっしょに取る。
「ヒロくん、フォームがきれいだね。」
「いや、洋子さんこそとても綺麗なフォームだよ。」
真面目な彼。
ちょっといたずら心が芽生え、言ってみたくなった。
きっと信じてはもらえないだろう秘密。
いまだかつて誰にも言ったことはない秘密。
でもなぜか、彼の鳶色の瞳を見ると言ってみたくなったのだ。
「実は、私には秘密があるんだ・・・誰にも言わないでね。いい?」
「秘密?」
「そ・・誰にも言わない?」
「うん、言わないよ。」
「私、子供の頃に人魚に会ったことがあるの。そして、人魚に泳ぎ方を教わったの。」
舌をぺろっと出して、冗談めかしてみる。
信じないかな?笑うかな?信じたふりをして驚くかな?
でも、彼からは想像していたのと全く違う反応が帰ってきた。
ちょっとうつむいた後に彼は言った。
「秘密を教えてくれてありがとう。じゃあ僕からも秘密を話さないといけないな・・」
こちらをまっすぐに見つめ話してきた。
「秘密?」
「実はこの高校に転向してきたのは、あなたを探していたからなんだ。」
何を言われたか全く理解できずに聞き返す。
「私を探して?」
「彼女に頼まれてね」
「か・・彼女って?」
「君が人魚と呼んでいる人。彼女はキミに会いたがっている。」
冗談を言っているようには見えない。
だが、あまりのことに驚きすぎて何も言えなかった。
「彼女に会ってもらえないだろうか。」
ーーーー
彼の真剣な頼みに了承してしまった。
でも、半信半疑である。
数日後、彼の運転するバイクの後部座席に乗っていた。
なぜか、海ではなく山に向かっている。
途中休憩のコンビニの駐車場で聞いてみた。
「ヒロくん。彼女は、海にいるんじゃないの?少なくとも私が会ったのは海だったよ。」
すると、ヒロくんはすこし悲しげに言った。
「彼女は、もう寿命があまりないんだ。体力が衰えていて・・・きれいな水でしかもう生きられないんだ。」
呆然とする私に更に言う。
「だから、彼女の最後の望みを叶えたくて・・・君を探していた。」
「ヒロくん・・・あなたは・・・」
彼女とどんな関係なの?
そう言おうとして言えなかった言葉を察して答えてくれた。
「僕は、彼女の古くからの友人だよ。古くからのね。」
つづら折りの峠道をバイクで上り・・・林道に入りまた山奥深くに入る。その後は道なき道を歩いて沢を登っていく。
もう、秘境としか言えない場所。
沢を流れている水は透明で美しいものだった。
「もうすぐですよ。辛かったら言ってください。」
時々川を渡るときなどおんぶしてくれる。
やがて見えてきた小さな滝。
「もうすぐです。あの滝の上です。」
「え?滝の上?」
「あそこから登れます。」
指差す先は崖にしか見えない。
切り立った崖の下にくると、おんぶしてくれた。
どうやって登るのかと思ったら、まったく普通の坂を登るように登ってしまった。
その滝の上・・・
下からは見えなかったが、さらに大きな滝があった。
透明で青く、深い滝壺。
その滝壺に向かって、ヒロくんが呼びかけた。
「待たせたね。彼女を連れてきたよ・・・ウンディーヌ」
すると滝壺の底から白い影が浮かんできた。そして水面に現れた上半身。
金色の髪。青い瞳。白い肌。
あの日のまま、全く変わらない姿。
あの日一緒に過ごした人魚がそこにいた。
「洋子ちゃん。ひさしぶりね。会いたかったわ。」
「私も会いたかったです!」
「言ったでしょ、また会えるって。」
にっこりと微笑む彼女。
私は彼女に抱きついて泣いてしまった。
ーーーー
「では、2人きりで話すと良いよ。」
そう言ってヒロくんは離れていった。
滝壺の水辺に座り私達は話した。
東京で中学・高校と水泳をしていたこと。祖母と暮らしていること。
彼女は、あのときのように聞いてくれた。
そして私からも質問した。
「彼に・・ヒロくんに聞きました。もうすぐ寿命だって・・そうなんですか?」
「そうね・・私はだいたい2千年生きたけど・・そろそろだめね。もう後1年も生きられないでしょう。」
「どうにかならないんですか?」
涙が出てくる。
すると以前のように頭をなでて言った。
「これは、もうどうしようもないことよ。」
「そうですか・・・悲しいです。」
「泣かないでね。」
涙を流しながら気になっていたことを聞いてみる。
「あのころ、私は・・いつか人魚になりたいと言いました。人魚になる方法はあるんでしょうか?」
「人魚になりたいの?」
「私・・・もう両親もいません。祖母がいなくなったら天涯孤独です。だから・・人魚になってもいいかと思っていたんです。」
「そう・・・でも、人間が人魚になることは難しいわ。だから・・・」
「そうじゃないんじゃないか?ウンディーヌ。」
いつの間にかやってきたヒロくんが会話に割り込んできた。
「ヒロくん・・・どういうこと?」
「ウンディーヌは水の精霊なんだよ。だから命を失う前にその力を誰かに引き継ぐことができる。逆に引き継がないと世界は水の精霊を失ってしまう。」
「だからといって、この子が人間をやめることはないわ。私は・・ただ会いたかっただけなのよ。」
「でも、それは彼女に選ばせてあげても良いんじゃないのか?」
彼女は私に言う。
「精霊になるということは、人間をやめるということよ。人間より長い寿命だし、人間社会では生きられなくなるわ。」
悩む私は聞いてみた。
「もうすぐ、あなたは死んで何もなくなってしまう・・・でも、私が引き継げば力を残すことができるの?」
彼女は、私の顔を見る。
やがて、小さくうなずいた。
子供のころを思い出した。
毎日話を聞いてくれたこと。泳ぎを教えてくれたこと。
決して忘れなかった。
「私・・引き継ぎます。」
彼女も、ヒロくんも悲しげな表情である。
「いいの?」
「はい、決めました。」
「そう・・・か」
彼女が言う。
「もう、人間に戻ることはできなくなるんですよ。それでもいいのですか?」
「いいんです。もう決めたので。」
「そう・・・ごめんなさい。」
「謝らないでください。それでどうすればいいんですか?」
「私があなたに力を受け渡せばいいのです。」
「それでは、いつします?いまでもいいですか?」
彼女は困ったようにヒロくんを見る。
小さく頷くヒロくん。
「それでは・・・精霊の引き継ぎをします。目を閉じてください。」
「はい」
目を閉じると、頬に手を添えられる。
そして口に柔らかい感触。
あぁ・・・キスしてるんだ・・・
と思っていると、口から物質ではない何かが流れ込んできた。
たくさんのエネルギー・力とたくさんの記憶。
それが体の隅々に行き渡っていく。
足の先から髪の毛の一本一本まで。
その奔流の中、私は人間でなくなったことを知った。そして気を失った。
目を覚ますと、岸辺に横たえられていてバスタオルを掛けられていた。
滝壺の方を見ると、ヒロくんに彼女が抱きかかえられていた。
見るからに顔色が悪い。
「洋子さん・・ありがとう。感謝します。」
苦しそうな声で感謝を述べる彼女。
私にはもう彼女が長くないことがわかるようになっていた。
「私はしばらくここで休むことにします。」
「ウンディーヌ。また来るよ。体を労ってくれ。」
「ありがとう、ヒロ。」
私とヒロくんは滝壺を離れ、もと来た道を戻って行った。
「ヒロくん。私、この後どうしたらいいかな?」
自分で、自分はもう人間ではないことがわかっていた。
姿形は以前と同じ。だけどそれは以前と同じにしているだけ。
水に触れれば、すぐに水に同化することもできるし、人魚にだってなれる。
「そうだね、しばらくはこのまま女子高生でいいんじゃないか?高校卒業するまでは。」
「そっか・・そうだね。」
それまでは人間のように生きていこう。
「ところで、ヒロくん。」
「なに?」
「あなたは一体何者なの?」
私には彼女の記憶も引き継がれた。といっても映画を見るように記憶を客観的に見ることができるだけだけど。
彼女の中で、ヒロくんは何度も登場していた。
それこそ、何度も。
最初に彼女とヒロくんが出会ったのは1500年くらい前。でも、それより前から生きていたようだ。
「人間だよ、ちょっと長生きだけど。」
「精霊より長生きな?」
「そう」
正直にはなかなか言わないようだ。
「まぁいいわ。これから長い付き合いになりそうだし。」
バイクの後部座席で、彼の腰に抱きつきながら言う。
「これからもよろしくね。」
私はもう恋愛することも、子供を産むことはないだろう。
だけれども、少なくとも孤独ではない。なぜなら彼がいるのだから。
おそらく、彼とはこれから何百年以上の付き合いになるのだろう。そんな気がする。
そのことが、あたしには嬉しかったのだ。
ーーーー
その後、何度も彼女に会いに行った。
精霊の力で、私は水があればすぐに地球上どこへでも移動できる。
ヒロくんもバイクなんか乗らなくても、移動してこれるようだ。
毎週のように会い、色んな話をした。
彼女はだんだん弱っていった。
やがて、秋になるといよいよ最後の時が来た。
ヒロくんが言う。
「ウンディーヌ。最後に君の故郷の海に行かないか?」
「そうね・・・あの海をもう一度見たいわ。」
「あぁ・・一緒に行こう。」
ヒロくんは空間をつなげて我々を、ある海辺へと連れてきた。洞窟のようになっている入り江。
どうやらここは地中海。
私と彼女が出会った入り江に似ている。
金色の砂地がとてもきれいである。
「ウンディーヌ。見てご覧。故郷の海だよ。」
砂地に彼女を横たえ、ヒロくんが膝枕をする。
「あぁ・・久しぶりね・・。」
彼女の頬を涙が流れた。
「ヒロ・・・ありがとう。」
「そして、洋子。ありがとう。」
「私は・・もう・・思い残すことはない・・・」
やがて・・彼女の体は溶けるように液体となり、金色の砂に染み込んでいった。
ヒロくんの頬を涙が伝う。
「彼女のこと、愛していたの?」
「愛・・・か。ちょっと違うかな。仲間とか家族に近い関係だったんだ。だから・・・体の一部を失ったような・・・そんな感じだ。」
気づけば私も涙を流していた。
二人の絆は私にはわからない。
でもいつか、ヒロくんと私はそんな関係になるのだろうか?
ーーーー
それから私は普通の女子高生のように生活した。
ただ一つ困ったのは、進路調査。
ヒロくんに聞いたら、大学に行くことにすれば良いって。
それなら、受験に失敗したことにすればうまくごまかせるとのこと。
どうやら、これまでも彼は経験しているらしい。
4度目の高校生とか言っていた。
高校3年の秋。祖母が亡くなった。
もう94歳だったので大往生と言えるだろう。
これで、私は本当に天涯孤独の身となった。
そして・・人間であることに対するしがらみも無くなったのだ。
祖母の遺品を整理したり、身辺整理をしたり。
そんなことをしていたら、すぐに卒業式。
「卒業おめでとう。」
ヒロくんに言われる。
「ヒロくんもおめでとう。そしてありがとう。」
クラスメイトにからかわれる。
「お前らほんとに仲良いな。結婚式には呼んでくれよ。」
そんな相手には笑ってごまかす。
本当は付き合っていないんだからね。
それでもきっと、長い長い関係になるのだろう。
「ヒロくん、これからもよろしくね。」
「あぁ、こちらこそよろしく頼むよ。」
連絡先は聞かなかったけれど、その必要もなかった。
もう我々は、水を通じていつでも連絡が取れる。いつでも、会話を交わせる。いつでも会える。
ーーーー
高校を卒業して、1ヶ月位たった4月下旬。
電車を乗り継ぎ、私はあの入り江にやってきた。
思っていたより小さな入り江。
GW前なので、人の気配はない。
服を脱いで、海に入る。
もう水着なんかいらない。
下半身を、彼女みたいにイルカのヒレのように変化させる。
そして沖に泳ぎだす。
この姿だと、とても泳ぐのが速い。
あっという間に沖に出る。
陸地が遠くに見える。
もう、あそこに帰るつもりはなかった。
チャポン
飛沫を一つあげた後、私は深海に潜っていった。
その日、人間 水川洋子は姿を消した。
そして、新しい水の精霊が誕生した。
全世界の精霊たちはそれを歓迎したのである。
(完)
ウンディーヌ 三枝 優 @7487sakuya
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