3. 夜明け
仄明るくなった空に、星が一つ輝いている。
天まで伸びるような白い塔が視界の右側を遮っていて、僕はそのすぐ下に仰向けになって寝転んでいた。
風が少し冷たかった。朝の匂いがする。
何もかもが終わって何もかもが始まった時の匂い。爽やかで、瑞々しくて、鼻の奥まで潤うような涼やかな匂い。
僕は白い半竜の姿だった。
背中の羽をしわしわのまんま広げて寝転んで、角だらけの尻尾の、角の部分を地面に刺したような状態で両の足を広げている。寝心地は良くなかったけれど、身動きが取れなくて、ただ呆然と空を眺めて、ゆっくりと白い息を吐いた。
空の高いところで、小鳥がさえずっていた。
確かこの辺には大きな公園がある。魔法学校も近くて、あの辺は木がたくさんあるから、野鳥をよく見かけるんだ。
朝は空気が澄んでるから、遠くの音もよく聞こえた。
寝転んだ僕の耳には、遠くを走る車の音やランニングをする複数の足音だって聞こえていた。
人間が活動を始める時間まであと少し。だけど気の早い連中が誰も動いていない時間を見計らって動き始める時間でもあった。
塔の方から誰かが歩いてくる気配がして、だけれど僕は首を動かすことすら出来なくて、そのままの姿勢で足音を待った。
足音は僕の前で止まった。
周囲に漂う杏色と共に、長い足が見える。綺麗な長い素足だ。
「大河君、起きてる?」
目玉だけ動かすと、蜂蜜色の長い髪が視界に入った。
「起きてるよ。なんか……力が入んない。動けなくて」
ボソリと言うと、彼女はよいしょと僕のそばに屈む。
今度は翠色の綺麗な瞳と見知った顔が目に入る。
可愛いなと思う。年上のお姉さんなんだけど、僕好みでさ。なんだろう、とても長い間僕はこの人のことが好きで、ずっとずっと、一緒に語り合いたい人だった。泣かせたり、怒らせたり、傷付けたり……随分、酷いことをたくさんしてしまった。嫌われても仕方のないことを、たくさん。
「さっきね……起きたんだ。夢の中で、大河君によく似た白い髪の、半分竜の男の人が私に言ったの。大河君をずっと見守ってやってくれって。そばに居て、抱き締めてあげてくれって。自分には出来ないから、たくさんたくさん、愛してやって欲しいって」
リサの目は透き通っていて、僅かに白んできた空の色を映していた。
「レグル様にも似ていたけど、違う気もしたんだよね。誰だったんだろう……」
「さぁ、分かんないな」
知らず知らずのうちに溢れた涙が、ボロボロと頬を伝って後頭部に向けて落ちていく。
リサは鱗だらけの僕の頬をペタペタ撫でて、優しく髪を梳いた。
「大河君の目、元に戻ってる」
「え?」
「目玉、黒かったの、白くなってる。変なの」
ああ……それは、僕が自分を忘れようとして、無意識にかけた闇魔法の代償というか。
そうか、もう、そんなのは必要ないのか。
「ごめん……ちょっと、疲れた。何日も寝てなくて。少しだけ、休ませて」
「良いよ。ゆっくり休んで」
リサはそう言って、僕にキスをした。
柔らかい唇だった。
僕はそのまま、眠りに落ちた。
*
ニグ・ドラコの守る十二本目の杭に辿り着いたあたりから、よく考えれば眠ることも休むことも拒んで動き続け、一気に儀式まで駆け抜けた。
無理が祟った。
とにかく急いで儀式に向かわないと、僕は自分が壊れてしまうかもと……殆ど壊れかかっていたのに、そんなことを考えていた。
あの儀式が一体何だったのか、世界に何を齎したのか、目映い光に呑まれて、結局何も分かっていない。
ただ今は眠りたかった。
本当に僕が赦されたなら、多少ぐっすり眠ったところで誰にも怒られないだろう。
そしてもう、変な夢は見ないはずだ。
*
次に目を覚ました時には、例のガラス張りの部屋の中で、やたらと見知った連中が部屋の周りを彷徨いていた。
ベッドの直ぐそばにはリサがいて、どうやら僕のことを見守っていてくれたらしい。
「おはよう。ぐっすりだったね」
言いながらキスをしてくれる。ありがとうと、キスで返す。
僕はまだ、半竜の姿のままだ。
ベッドの上に寝転がったまま腕を持ち上げて、鱗の状態を確認する。肩から連なる鋭い角も、一向に引っ込む様子がない。これが最終形態みたいな感じで、寧ろしっくりきてる感じだった。
『た、タイガ……だよな? 破壊竜とかじゃ……』
ガラスの向こうでスピーカー越しに怯えた声を出すのはレンだ。茶髪に近い金髪頭の彼は、
隣にいるのはビビとフィル。三人とも、おっかなびっくり僕を見ていた。
「どうかな。また壊したくなったら、そうなるかも知れないけど」
よいしょと身体を起こすと、レンとビビはヒイッと変な声を上げてひっくり返りそうになった。
それをフィルが隣で見ていて、
『なぁに変な驚き方してんだよ。数値的には問題ない、前より落ち着いてるって二人には言ったじゃん。ま、完全に、竜の数値だけどな』
と笑った。
リサも一緒にクスクス笑っていて、とりあえずは冗談だと思って貰えてホッとする。
「実際、僕は竜だよ。そこは変えようがないって、あいつも言ってたし」
『あいつ?』
「……何か、変なヤツだった。レグルな訳ないんだよ。あいつは僕が喰ったんだから」
そう言うと、にわかに部屋の外が騒めき立った。
『く、喰ったのか? レグル様を……?!』
『やだ、やっぱり化け物じゃない……!!』
「まぁ……うん、そう。だからあいつじゃなかったんだよ。誰だったんだろう……。僕、あいつのこと、ずっと前から知ってる気がしたんだよね……」
よいしょとベッドから飛び降りて、自分の身体の状態を確認する。
手足は正常に動く。羽もちゃんとパタパタするし、尾も自分の意思でくねくね動くのを確認する。ガラスに映った自分の姿を見るに、湖に反射して見えた姿と殆ど変わらない。白い髪はやたらと長く伸びていて、ニョキニョキ左右に角が生えているし、顔にまで鱗が見える。眼球の色だけはリサに教えて貰った通り、白に戻ったみたいだけど。
「あれ? 前より、身体が軽い気がする」
どういうこと、とリサが隣で首を傾げる。
「力の調整、上手く出来るようにしてあげるって言われたんだ。そんなに頑張んなくても、人間の姿で過ごせるかも知れない」
「本当に?」
「うん。杭の何本目かまでは全然余裕で人間の姿になれたのに、森に入ったあたりからはもう、人間の姿を保つの、しんどかったんだよね……。それが、今は大丈夫そうなんだ。ずっと人化を維持出来たら、今度こそ、みんなと一緒に過ごせるかな……なんて」
そうやって姿を変えたくらいじゃ、僕の本質は変わらない。
結局僕は白い竜で、恐ろしい生き物で、人間も竜も喰う訳だし。けれど本当は傷付けるのも怖がらせるのも嫌なんだ。仲良くしたい、輪の中に入りたい。独りになんかなりたくないんだ。
「ちょっと、やってみる」
目を閉じて、人間の皮膚がどんなだったか、身体のつくりとか、骨格とか、思い出して作り替えて。少しずつ変わっていくのをしっかり感じて。
鱗も角も、羽も尾も全部引っ込めて、これからみんなと生きていくための姿に……。
「どう……かな?」
恐る恐る目を開けて、リサや、ガラスの向こうの面々に聞いてみる。
髪の長さは変えなかった。白髪赤目、白い肌。それはもう……かつての芝山大河じゃなくて、脱皮したみたいに色が抜けた、あのままなんだけど。
「良いんじゃないかな」
暖色を滲ませて、リサが言った。
「君は君のままで良いよ。――本当は、全然さっきの姿でも良いんだけど、この方が、君のこと、しっかり抱ける」
僕はついつい嬉しくなって、リサをギュッと抱き締める。
そうして人目も憚らず彼女に熱いキスをしたところで、いい加減にしろとガラスの扉をバンと開け、レンとフィルが僕とリサを引き剥がしにやって来た。
人前でやるな、独身男の前でイチャイチャするなと言いながら、彼らは嬉しそうだった。
ガラスの向こうでビビも笑っていた。彼女の笑顔を見るのは、初めてかも知れなかった。
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