4. 威嚇
リサの唇は、石のように硬く冷たかった。
未だ辛うじて息はしているが、手遅れになってしまうのは時間の問題。
アナベルが見守る中、僕はゆっくりと身体を起こして両膝を突き直し、彼女の胸と腹の辺りに手をかざして静かに息を吐いた。
これ以上壊れないように、元に戻るように、全身全霊を込めて修復魔法をかけていく。
淡い緑色に包まれたリサの身体は、徐々に徐々に柔らかさを取り戻していった。
ひび割れて崩れた皮膚も、魔法で丹念に直した。快活で優しく、厳しく接してくれた彼女を、どうにかして取り戻したかった。
彼女を直している間、僕の心は空っぽだった。
騒がしく部屋の扉を叩く音にアナベルが必死に対処するのや、インターホンや通信端末がやたら鳴り響くのも、全く耳に入らなかった。
*
どれくらい時間が経ったのかは分からないけれど、かなりの時間と魔力を使ってリサを修復した。一通り魔法を終えたあと、僕は彼女を抱きかかえ、アナベルが進言した通りソファに横たわらせた。
リサは未だ起きない。けれど、心なしか表情を緩めたように見えた。
僕は彼女の頭をそっと撫で、それからもう一度キスをした。
「やっぱり、タイガはタイガのままなんじゃないの?」
全部終わったことを確認してから、アナベルは僕にそう問いかけた。
立ち上がり、小さく息をついてから、僕は首を横に振った。
「タイガのことは知らない。それがもし僕だったとして、何も……覚えてない」
「わ、私のことは覚えてたじゃない。リサのことも、シバのことも」
「儀式に必要なことは覚えてる。君は塔の魔女として、やらなければならないことをしてくれればいい」
気を抜いた途端に、廊下の方から激しい音が聞こえてくるのに気が付いた。
扉を蹴破ろうとしているのか、重機で穴を開けようとしているのか、ともかく耳障りな音が幾つも聞こえてくる。
舌打ちして扉の方に向かおうとすると、アナベルが慌てて僕の前を塞いだ。
「け、結界魔法、張ってあるから……!! タイガは、行かなくて良いの!!」
僕はアナベルの制止を払いのけ、そのまま扉の方へと突き進んだ。
確かに結界が張ってある。けれどそれも無視して、僕はバンと扉を開いた。
「わああぁっ!!」
急に扉が開いたのに驚いて、何人かが大きな声を上げる。尻餅をついたり、仰け反ったり。そうやってひっくり返った人間の一人が、「か、神の子……!!」と裏返った声で叫んだ。
僕の姿に、人間達は酷く混乱し、慌てふためき、ひっくり返った。恐怖で足が竦んだり、叫び声を上げたりと、とんでもない状態になった。悲鳴を聞きつけたヤツらがまた廊下をのぞき、同じように叫び、逃げ惑う。そうやって恐怖が伝播して、いつの間にかフロア全体が異常事態になっていた。
そんななか、スキンヘッドの男が恐る恐る前に出て、怯えた顔で僕に話し掛けてきた。
「あ、アナベル様は……ご無事、なのか……」
なるほど、やっぱり僕が彼女を傷付けていると思っていたらしい。
無理もない。角だらけの白い半竜、黒い目玉に爛々と光る赤い目は恐怖でしかないはずだ。それが塔の魔女と大人しく過ごしてるなんて有り得ないんだろうから。
「アナベルに危害は加えない。騒ぐな。邪魔をしたら、全員殺す」
「――タイガ、そんな言い方!」
「アナベルは黙ってろ。いいか、人間共。これ以上僕の神経を逆撫でするな。壊そうと思えば、僕はいつでもこの世界を壊せるんだ。騒ぐな。僕に喰われたくなかったら、さっさと逃げろ」
「タイガ!!」
僕の太い腕を、アナベルはか細い腕でむんずと掴んだ。
「ダメ!! 自分を恐ろしく見せようとしないで!! お願い、みんな信じて。タイガは世界を救うためにここに居るの。彼は全てを犠牲にして、ここまで辿り着いたのよ……!!」
「黙れ、アナベル。余計なことを喋るな。だいたい僕はタイガじゃない。ドレグ・ルゴラ――この世界で唯一の白い竜。この世界を生かすも殺すも僕次第だ。邪魔をするな、人間共。さっさと去れ!!」
「タイガ……ッ!!」
分かりやすく怒鳴って威嚇して、口から軽く炎を吐いた。
悲鳴を上げて人間達が次々逃げ出していくのを見て、心底ホッとする。
逃げろ、逃げてくれ! お願いだから、ここから離れて欲しい……!!
フロアから一通り人間達が居なくなったのを確認してから、僕は力を抜いた。
荒く息をして肩を震わすのを、アナベルは困惑した様子で見上げている。
「やっぱり……タイガ、だよね。そうやっていつも苦しんで」
「知らない。何も覚えてないんだ、本当に」
額に手を当てて、必死に精神を落ち着ける。
魔力の強い人間が何人かいた。甘ったるい臭いに、また僕は興奮していた。
「無理しないで、タイガ。シバが来てくれるまで……少し、私と話さない?」
アナベルはもう、僕を怖がってはいなかった。
彼女の周囲に漂うスノウホワイトの白さに促されるように、僕はこくりと頷いた。
*
リサを寝かせたソファの向かい側に、アナベルは僕を案内した。彼女は別の椅子を持ってきて、僕と斜めに向かい合う形で座る。
「シバが救世主になるっていう確証はあるの?」
気を利かせて、アナベルは僕にお茶を出してくれた。甘い香りのするお茶だったが、僕は今は不要だと、手を付けなかった。
彼女はお茶を一口含んだあと、カップをローテーブルの上にトンと置き、ごくごく自然にそう尋ねた。
「リョウが死んだら次はシバだと決まっていた。何もかも、あいつが用意した。僕の代で儀式が行えるよう、長い時間を掛けて。僕はそれに答えなくちゃならない。早く……終わらせたいんだ、何もかも」
「タイガも同じことを。やっぱり……タイガよね?」
「みんな、どうしても僕をタイガにしたいんだな」
「だってそれは」
膝に両肘を突いて、頭を抱える。
やっぱり僕はタイガなのか。……頭が、ガンガンする。
「順番は違うけど、全部君の言う通りになった。だけどまだ、希望は捨てないよ。君がタイガに戻れる未来、普通の男の子になれる未来、あると思うから」
慰めるつもりか、アナベルは変なことを言った。
納得は出来なかった。
今更何を言い出すんだと、僕は彼女を鼻で笑った。
けれどアナベルは動じなかった。
恐ろしい僕の顔を見て、まるで僕に全てを見て欲しいみたいに、じっと僕を見つめてくる。
「実はね、塔の魔女になってから、夢に白い髪の男の人が何度も出てくる。今のタイガに凄く似てる。どの時代でも、彼は一貫して『約束を』と塔の魔女に言うの。……拒んできたのは私達人間の方。彼は必死に約束を繋ごうとした。今、この時代になってやっと、白い竜は理解されようとしてるんだよ。君の絶望を、少しでも理解したい」
アナベルは真剣だった。
「……理解して、どうなる。僕を理解したら、君は躊躇なく僕を殺せなくなるだろう? 全部終わったら殺してくれと頼んだのを忘れたのか」
「そういうことは、覚えてるんだね……」
「何もかも忘れた訳じゃない。タイガの……記憶だけ、どこかに消えた」
「そうなんだ。――でも、私達は覚えてるよ」
そう零した彼女の周囲に、ほの温かい色が差し、僕は目を丸くした。
「タイガと出会って一緒に過ごしたことのある人なら、タイガがどんな姿になっても、別の何かになってしまったとしても、タイガを嫌いにはならない。全然、怖くない。君が私を脅したとしても、君が暴走してしまったとしても、たとえ私を襲ってきたとしても、私は君を怖いとは思わない。救いたいと思う。変……かな」
はにかむアナベルの顔が、何とも可愛らしくて。
僕は首を横に振った。
「リサも、同じことを。こんな僕を、救うと」
「でしょう? 君は、救われるべきだと思うの。君が全ての罪を被る必要はないし、恐ろしくある必要もない。闇の力――感じないんだよね」
「えっ……」
「君から、闇の力、感じない。聖なる力をも会得した君が、簡単に闇に染まるわけないの、知ってるんだからね」
……参った。
僕は額に手を当てて項垂れた。
「知ってたのか」
「白い竜本来の力が強過ぎて、だから人間達は震え上がってしまうけれど、君自身から闇は感じない。“ドレグ・ルゴラ”が“偉大なるレグルノーラの竜”の称号で、“唯一の白い竜”を指す言葉だってこと、ウォルター司祭に聞いたよ。恐ろしい竜を指す言葉じゃないの。君はこの世界にたった一匹しか居ない白い竜になったってだけ。強過ぎる力は簡単に制御出来るものじゃないから、暴走だってすると思う。みんなを威嚇したり、怖がらせたりするのは全部、巻き込みたくないからでしょう? どこまでも優しいんだよ、君は」
カップを手に取り、アナベルは優雅にお茶を啜った。
敵わない。塔の魔女である彼女には、到底。
僕は観念して、深く息をついた。
「――ありがとう。けど美化はやめた方がいい。僕が恐ろしいことに何ら変わりはないんだから」
「タイガってば、まだそんなことを」
「アナベルは知ってるか? 竜は巨体を支えるために、多くのエネルギーを摂取する必要があるんだ」
僕はグッと身体を起こして、彼女に向き直った。
アナベルはきょとんとした顔をして、少し頭を傾げた。
「竜が住む森の中には魔法エネルギーが満ちている。だから森に留まれば、そこまで大量の餌を口にせずとも生きていける。森から出た竜は、この恩恵を受けられなくなる。市民部隊も翼竜達の餌やりに相当の費用を割いてるはずだ。僕の場合は……あの巨体だから、通常量の肉じゃ間に合わない。人間を……人間の肉を、大量に必要とする。魔力を帯びた人間の肉が好きだ。栄養価の高い人間の肉は、少量でも十分なエネルギーに変換される。僕の主食は人間の肉だ。こんな化け物、生きていてはいけない。だから儀式が終われば、どうか……シバと一緒に僕を殺して欲しい」
アナベルの目から光が消えた。
飲みかけのお茶が未だカップに少し残っていて、それがカップから零れるか零れないかのギリギリのところに留まっていた。
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