4. 及第点

 石の扉の隙間から、じわじわと魔力を帯びた冷気が這い出してくる。

 冷気が肌に触れると、ぞわぞわと悪寒がした。途轍もない、強い魔力を感じる。

 一瞬動くのを躊躇って、けれど直ぐに覚悟を決めて、僕はゆっくりと神殿内部へと足を踏み入れた。

 後方で人間達が扉の内側を覗き込む気配がする。行くとか行かないとか言い合ってる声が聞こえてきたから、僕はチラッと目配せして入り口に結界魔法を張った。

 すると案の定、バシッと結界が何かを弾く音と驚いたような声がした。


「自分一人で全部やるつもりか?! 大河!!」

「大河君! 私も行くよ? ねぇ……ッ!!」


 遠慮のない叫び声が暗闇に響いたけれど、僕は聞こえない振りをした。

 扉の内側はゆっくりとしたスロープが数メートル、そこから石段に変わって、地下へと続いているようだ。開けっぱなしの扉の所からしばらくは光が入っていたけれど、いずれ届かなくなって、真っ暗な世界へと変わっていった。

 前に潜った洞穴と同じように、神殿の内部は竜石に覆われている。けれど、僕の魔力に反応して光るようなことはなくて、ただただ真っ暗で冷たい空間が広がっていくばかりだった。


 建設された当時、相当数の人間達が神殿工事に携わったのを覚えている。よりによって白い竜は出入りしていた人間達を食いまくっていたわけだけど、それでも信仰を繋ぐためにと次から次へと人間達が現場へと足を運んだ。

 壁に彫り込まれた文様は、彼らの信仰心を表すように殆ど風化せずに当時の美しさを保っている。

 この……信仰の中心に、本来ならば白い竜がいるはずだった。それがあいつであり、僕であるはずなのに、たくさんの小さな歪みが重なって、あいつと僕を闇に堕としてしまったんだ。


 夜目を効かせて石段を降りていく。僕の足音だけが神殿中にやたらと響いていた。

 しばらく進むと、ぽうっと目の前が白んでくる。

 竜石が何かに反応して、淡い光を発しているようだ。

 十年以上誰も足を踏み入れることのなかった神殿の、幻想的な光景を目の当たりにしながら、僕にはその感動を感じる余裕がない。

 息が苦しくなるくらいの異常な魔力の波を感じて、全身がガタガタと震えだした。

 階段が終わり、広い空間に出ると直ぐに、薄闇に浮かぶ白いシルエット。

 間違いない、僕はずっとこの瞬間のために全てを。



「待ちくたびれたぞ、大河」



 低い声が石壁に反射して響くと共に、竜石が反応して青白い光を放ち始めた。

 そいつは竜石で作られた玉座にどっしりと腰を下ろし、頬杖を付いて僕を見下ろしている。


「一年半以上余裕を持って現れたのは褒めてやる。及第点だ」


 白く長い髪の間から見える、真っ赤な目。肌の殆どを白い鱗が覆っているのに、背筋が凍る程に美しい相貌。紅を引いたような薄い唇が、口角を上げている。

 頭部の角も、広げた竜の羽も、服の下から伸びる太い尾も、だっぽりとした法衣のような袖の中から伸びる腕も、僕のそれよりずっと整っていて無駄がなく、美しさを際立てていた。

 別格だ。

 美しくて、冷徹で、圧倒的に強く……隙がない。


「早く終わらせたい。直ぐに殺してやるよ」


 手を突き出して睨み付けても、彼は微動だにしない。

 壁一面の巨大な竜の彫刻を背景に、足を組んで微笑みを浮かべている。


「焦るな、大河。私を殺してしまえば、何もかも有耶無耶になる。お前が見た、記憶の続きを知りたくはないか……?」


 命乞いをしている訳ではなさそうだ。

 何だこの余裕……。

 強烈過ぎる魔力を前に、こっちは頭痛と吐き気で気持ち悪いのを我慢してるのに……。


「どうでもいい。僕は早いとこ、唯一の白い竜になりたいんだ。そのためには、お前が邪魔なんだよ」


 ふぅん、と彼は目を細めた。


「なぁ、大河。私は誰だと思う?」


 意味不明な質問。


「知らない。どうでもいい」

「いいわけがない。真実はお前が探し当てろと言った。……逃げるな、大河」

「――“タイガ”って何だ」


 彼の美しい顔が、あからさまに歪んだ。


「僕は僕だ。一体どういう意味で使ってんだ、“タイガ”って」


 言い返すと、彼はおもむろに立ち上がり、長くため息をついた。


「心が壊れそうになって、防衛本能でも働いたか。……大河、甘えるな。ここからが本番だ。私を殺して終わりではないのだ」

「……何の話だ」

「世界を構成する三つの話を覚えているか?」


 彼は指を三本立てて、妙なことを聞いてきた。


「唯一の白い竜、強大な力を持つ魔女、悪魔を祓う者。……バカにしてんの?」

「それぞれひとつずつ揃える必要があることも認識しているな? だからお前は焦っている。私とお前が同時期に存在しては、条件は揃わないからだ。だが、ここで私を殺せば、もうひとつ確実に失うことも、お前は認識している」

「……悪魔を祓う者――救世主の身体は、お前の中から絶対に引き摺り出す。そうすれば約束が果たせるはずだ」

「無理だ」


 ゆっくりと目を閉じ、彼は首を横に振った。


「それは不可能だ。たとえお前が人知を超える力を持っていたとしても難しい」

「ど、どうして……! それじゃあ、何? 僕がお前を殺したところで儀式は無理だとでも? だったら……だったらどうして僕は、何もかも失った? もう、引き返せない……!! 元の僕には戻れないところまで来てしまったのに……!!」


 吐き出した言葉が全部、壁や天井に反射して増幅し、僕の耳に跳ね返って聞こえてくる。

 戻れない。

 前の姿なんてとうに忘れてしまった。僕が誰だったのか、どんなふうに生きていたのか、思い出そうとすると身体が拒む。

 けれどしっかり覚えているのは、約束を果たさなくちゃならないってこと。それから、僕以外の白い竜を殺さなくてはならないってこと。そして――全部終わったら、僕自身の存在を消すべきだっていう強い思い。


「時間は不可逆だ。だから、どうにもならないことも多く存在する。今まで積み上げてきたものが一気に崩れることだってある。私は……何度も絶望を繰り返して、ここにいる。私の役目は終わりだ。あの日の約束を果たすのは、間違いなく大河、お前だ」


 彼は淡々と、僕を諭すように理解不能な言葉を並べた。


「どういう……意味だ。何が言いたい。これ以上僕を混乱させるな……!!」


 頭が……ガンガンする。胸がズキズキ痛む。

 じりじりと、彼は僕ににじり寄ってきた。表情一つ変えず、美しい顔のままで。……その、全てを知っているような顔が怖くて、僕は無意識に身構え、数歩後退っていた。


「私が何故五年の猶予を与えたのか。何故美桜は死んだのか。シバとの約束の真意、お前が為すべきこと、レグルノーラとは何か、リアレイトには戻れるのか……全てを、知るべきだ。直ぐさま私を殺せば、知る術がなくなる。そうすればまた、地獄は続く。大河、お前が唯一の白い竜として……古代神の化身として何を選択し、世界をどう変えていくのか……最後まで見届けられないのが残念でならない」


 彼の透き通るような赤い瞳が、潤んで見える。

 そこに映る僕は彼とは対照的にとげとげしくて、柔らかさの欠片もなくて。


「お前……誰だ。お前から闇の力は感じない。かと言って、聖なる力でもなさそうだ。何なんだ、何者なんだ……!!」


 怯える僕を余所に、彼の唇が弧を描いた。


「私が死んだら、お前に全て引き継がれる。塔の魔女と同じように、何もかも。けれどその前に、私とお前が明確に別の個体であるうちに……伝えておきたいのだ」


 白い半竜の、美しい顔が眼前に迫っていた。

 僕より頭半分以上背の高い随分がたいの良い竜で、けれど清廉としていて、物腰柔らかく、慈悲深く見える。聖職者のような白い服、柔和な表情。神の化身と崇められ――一時は信仰の対象になっていたらしい。確か、塔の上で……そういう立ち位置にいて、自由を奪われていた記憶がある。

 誰も彼の本心を知らない。

 僕もそうだ。

 何故彼がこんな非道な選択を続けたのか、何故本当のことが言えなかったのか。


「まだ間に合う。絶望はするな、大河」


 大きな彼の手が、白い鱗で覆われた僕の頬を撫でた。

 ――まただ。

 泣きそうな目。

 前に見た時も、確か同じ表情を。


「りょ……」


 何かの単語の端っこが、僕の口からぽろりと零れた。

 けれどそれが何を意味するのか、僕には分からなくなっていた。

 彼は僕の頬を両手で挟むと、まるで幼子に言い聞かせるみたいにゆっくりと額を合わせてくる。

 抵抗など、出来ようもなかった。

 僕の意識はあっという間に彼に呑まれた。

 全ての感覚が、なくなる。

 強引に奪われた意識は、やがて僕の知らない彼の記憶の中へと引っ張られていった。

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