3. 前とは全然
小鳥の囀りと、梟の低い声で目を覚ました。眠っている間に引っ掻いた土が、指の腹を汚している。何かが燃えたような臭いと、湿った土の感触。鱗だらけの白い手が自分の意思で動くことを確認して、僕はゆっくり手を握った。
森の中だ。
僕はどうやら竜のような人間のような妙な姿をしていて――深い森の中、何らかの力で抉られた窪みの中心で、気を失っいたらしい。
うつ伏せになった身体を持ち上げ、一体どうしてここに居るのか考えた。
見覚えは、ある。多分ここは、凄く……大切な場所だ。多分、そう。それが何なのかは、全然思い出せないけれど。
夢を見ていたのは、何となく覚えている。
砂漠を冒険する夢だ。
とても楽しくて……とても、充実していた。けれどそれは夢で、今の僕とは無関係なのも、何となく分かっていて。
頭が……重い。
鈍器で殴られたみたいに、頭がぼうっとする。
掻き毟った頭には角が何本も生えていて、白く長い髪が視界に垂れた。白く太い尾が、元気なさそうに地を這っているのが見える。
「何か……食べないと。頭が、ぐるぐるする……」
森に漂う魔法エネルギーを、眠っている間に随分摂取出来ていたのだろう、傷だらけだったはずの身体はある程度癒えていた。確か、傷だらけだった。僕は何かと戦って、傷付いた。……で、何らかの理由でここに来て、倒れた。
かなり強い魔法を浴びたような気がする。気がするだけで、どんな魔法だったのかまでは分からないけど。
僕の目線の直ぐ先には、巨大な穴が空いていて、それが相当深いってことだけは見て取れる。
「神殿に……行かなくちゃ…………」
森の奥、木々に囲まれた古い神殿。
僕は確か、そこに辿り着くために苦しい思いをし続けたんだ。
のっそり立ち上がって、僕はフラフラと歩き出した。
*
神殿までの道すがら、動物や魔物を襲って肉を食った。
身体はずっと火照ってて、変に興奮していた。汗とよだれが止まらなくて、深く息をする度に口から炎が吹き出していた。
何もかも壊してしまった方が、きっと気持ちいい。だけど、それはダメだと頭の中で誰かが叫んでいる。食うために殺すのは最低限。それ以上はただの殺しになるからダメだと誰かに教わった。
僕が襲った魔物の目に、僕らしき白い化け物の姿が映り込む。そのおぞましい姿に、僕は何度か狂いそうになった。
もう戻れない。……前の僕には。
何日もかけて森を歩き回り、それでも迷わず神殿へと向かって行けたのは、はるか昔、僕が前の僕ではなくて、もっと別の白い竜だった頃に行ったことがあるからだ。
僕の姿と力に恐れをなして姿を見せないけれど、この森には昔からたくさんの竜が住んでいた。魔法エネルギーをたくさん浴びて、言葉を話し、魔法を操れる竜達だ。
白い竜はここで育った。嫌われ者で、仲間は居ない。
天涯孤独で、残忍で、独りよがりで……けれどとても純真だった。
僕は彼で、彼は僕で。
だから確か……彼の代わりに、僕が…………。
*
――昔むかし、世界を創造した神が、ニグ・ドラコの森に降り立った。
神は白い鱗をした半分竜、半分人間の姿をしていて、白く長い髪をなびかせた美しい雄神だったという話。
人間達は創造の神を未来永劫称えようと、森の中に神殿を建設する。普段は殆ど関わり合うことのない二つの種族が協力し合って造った神殿は、やがて廃墟となって……生い茂った草や木に覆われていると誰かに聞いた。
神殿が近付いてくると、にわかに森がざわめき立った。
何かが僕の存在に気付いておののいて、慌てて神殿の方へ向かって進んでいくような気配。警戒の色が辺りに立ちこめ、緊張感が増していく。
甘い臭いが鼻腔をくすぐった。
人間だ。
大量の人間が神殿の周辺にいる。
僕はだらだらと零れ落ちるよだれを腕で拭って、必死に心を落ち着かせながら歩き続けた。
「か、神の子だ……」
誰かが言った。
「まさか」
「前とは全然」
視界に人間の姿が入ってきても、僕は前しか見なかった。
胸を押さえ、口から炎が漏れ過ぎないよう歯を食い縛って歩き続けた。
下手に反応して邪魔されるわけにはいかないと思った。だから進路を塞ごうとしている人間も、話し掛けてこようとする人間も全部無視した。
「様子がおかしい。神の子、一体どうして」
個体を判別するのはやめた。
誰が誰だとか……認識している余裕はなかった。
「タイガ! お前本当にタイガか?!」
僕はとても恐ろしい姿をしているのに、人間達は驚きながらも近付いてきて、ちょっかいを出そうとしてくる。
徐々に草丈が短くなって、道が見えてくる。草は刈り取られ、蔦は取り払われ、地面が程よく踏み固められて。ここしばらく人間達がこの付近に滞在していたんだろう、神殿の周囲に幾つかテントが張ってあるのが見えた。
神殿の入り口、重々しい扉の前に一人の人間が突っ立っている。
僕は何も言わずに石段を一歩ずつ上って行く。
石段を上がりきったところで、僕は否応なしに、彼と顔を付き合わせることになった。
「大河……」
“タイガ”が何か、何を指す言葉なのか、僕には分からなかった。
ただ、空色を漂わせるその人間が僕にとって特別な何かで、そして夢に出てきた彼であることは明白だった。
「――お前が、シバか」
シバは青ざめたような顔をして、一気に空色を曇らせた。
「大河、どうした……?! 私が、分からないのか?!」
僕の両腕にしがみ付き、シバは泣きそうな目で僕を見上げてきた。
目を合わせないよう、僕は彼を無視して腕を払った。
「お前のことは知ってる。“予備”だ」
それ以上は言わなかった。
シバはフラフラと壁により掛かり、どうしてと何度も呟いていた。
崩れるシバの元に石段を駆け上がって何人か人間が寄ってきて、そのうちの一人が凄まじい形相で僕に突っかかった。
「タイガ、お前いい加減に」
けれどその人間も、僕の顔を見て言葉を失った。
「人間に用はない。ここからは僕がどうにかする。死にたくないなら今すぐ帰れ」
バンッと大きく羽を広げて、尾を怒らせて人間達を威嚇する。
恐怖の色が辺りを支配し、人間達は徐々に僕から離れていった。
僕は……人間達を襲うかも知れない恐ろしい存在で、だから、皆、怖がる。人間だけじゃない、竜も、敵になるだろう存在は最初から拒む。
拒まれた方が、都合が良い。巻き込まないで済む。
「神殿の封印を解いたら、何が起こるか分からない。お前に何かあったら困る。逃げろよ、シバ」
シバは別の誰かに支えられながら、やっと立っているような状態で。
それでも無理矢理自分を奮い立たせるようにして、介助を断り、自分の足で立って僕に向き直った。
「もう……大河じゃないんだな。前に混乱して自分を見失った時とは、何かが違う」
「知らないな。僕は……ずっと僕だよ。さぁ、早く逃げて」
「逃げるわけにはいかない。お前だけに全部押しつけるわけには……!!」
「警告はしたよ。予備がいなくなったら困るからさ、ホント……頼む」
大抵の人間達は竜の背中に乗ったり、転移魔法を使ったりして逃げていったが、それでも何人かの人間達は神殿の周辺に居座っていた。
魔力の強い人間がいっぱい残っているせいで、僕の頭は興奮しきりだったし、よだれも何度も呑み込んだ。
蔦や蔓を剥ぎ取ったばかりの石の神殿は、高い位置から降り注ぐ日の光を浴びて鈍く光っていた。ここが美しい神殿だったのは、もう千年くらい前の話。人間達が徐々に寄りつかなくなったのは、白い竜が化け物で、竜への警戒感が高まっていったからかも知れない。
「大河君……どう、しちゃったの? シバ様のことも分からないの?」
シバに駆け寄っていたうちの一人が、立ち上がって恐る恐る声を掛けてくる。
長い金髪の……杏色を漂わせた女。
知らない。誰だか知らない。思い出そうとすると頭がガンガンしてしまうんだ。
僕は、彼女を無視した。
うわごとみたいに彼女が「大河君、大河君」と喋っていて、「やめろ、無駄だ」と誰かが彼女を諭していて。
「僕が、全部……終わらせる……!!」
神殿の石の扉に手を当てる。
重々しいその扉は、僕の魔力に反応してゴゴゴと低い音を立てて左右へと開いていった。
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