11. 人魚と血肉
腕から流れる血が水中に漂い、赤い筋を作る。痛みはさほどではないし、傷口も浅くすぐに塞がる。……けれど、水に溶けた血液は簡単に消せない。目に見えないものはイメージしにくいからだ。
ギリリと歯を噛む。口からぶくぶくと漏れる空気が見えた。
水面まで、かなり遠い。
このままじゃ息が続かなくなる。
半竜の姿でまともに泳げるのかどうかも分からない。ただでさえ羽と尾が明らかに邪魔で、自分の身体の大きさが把握しにくいのが難点だ。かと言って人間の姿に戻ったらヤツらの思うつぼ。巨大化したら勝てるかも知れないけど、理性が吹っ飛んで制御出来なくなったら意味がない。どうにかこのままの姿で、ヤツらを倒さないと……。
「ふふふ。人魚どころではございませんわね。あなたの息が続くかどうか、そちらのほうが問題かしら」
顔のない人魚が耳まで裂けた口を開け、僕の周囲をゆらゆらと泳いでいる。
僕は白い半竜なのに、それでもああ言ったのは、僕の血と肉が人間のそれと殆ど変わらない味をしてるってことを、エルーレが知っているからだ。
実際……森に入って直ぐ、頭がおかしくなって自分の腕を食い千切った時、人間の血肉と同じ味がして……酷く、興奮した。砂漠でも、僕の血肉を求めて魔物が襲ってきた。
ここまで来て、また分からなくなる。
僕は人間なのか、竜なのか。
いや、人間であってたまるか。こんな化け物が人間を名乗って良い訳ないだろ。
「……ッ! ウグッ!!」
息を吐き出した瞬間、誤って水を飲み込んだ。しまった! 僕は思わず剣から手を離し、両手で口を塞ぐ。
手から零れ落ちた剣はみるみる落下して、視界から消えていった。
さ、酸素がなくなる! 息を止めるにも限界が。
足をばたつかせ、ブンブン頭を振って必死に耐えたが、動けば動く程、水に溶けた僕の血は水中に広がっていくわけで。
どうすればいい。水中で自在に動くとか、長く沈み続けるとか。鯨だって呼吸のために何度も水面へ上がっていくのに。
「――かの竜は、何十年も湖の底で過ごしたと聞きます。同じ白い竜ですのに、水の中で息も出来ませんの?」
そうだ。
あいつ、ずっと黒く染まった湖の底に。
あの感覚、記憶を呼び起こせ。確かあいつは水を全部身体の中に取り入れて。けど全然苦しくなかったはずだ。
黒い水の中でも呼吸出来るよう、何らかの魔法を掛けていた……? 違うな。空気がなくても苦しくない、空気を体内で具現化させて……空気の膜を。いや、それも違う。確か、空気も水も同じように吸ったり吐いたり……。
――と、人魚達の動きが早まり、僕目掛けて腕を伸ばしてきた。
ヤバい、息が!!
手を突き出し、衝撃波を撃って追い返す。仰け反り、一旦は動きを止めるが、人魚達は益々動きを活発化させて僕目掛けて突っ込んでくる。
ザクッと、人魚の一体が僕の尾に傷を付けた。トゲだらけの鰭が当たったらしい。僕の血がまるで煙みたいに大きく揺らいでいる。
血の臭いが広がる。
人魚が興奮して、大きな口を開いたまま突っ込んでくる。
いつの間にか数は倍に。待って、その奥にも何体か見える。
「グッ……!! ガアッ!!」
――ボゴッと大きめの空気の泡が幾つか、僕の口から漏れ出て遥か水面まで上がっていく。
最後の、空気。
苦しい、助けて、息が。
左手で口を押さえようとして、その腕に顔のない人魚が噛みついているのが見えた。
慌てて押し退けようとしたが、ガッチリと噛み付いた歯はなかなか抜けず、それどころか僕の肉ごと人魚に引っ張られてしまう。
「……べぇものじゃ、ぬぁい……」
痛みより、息が出来ないのが苦しくて。
あいつは確か、水の中でも息が出来たはずだ。僕にも……出来るはず。あいつに出来ることなら、大抵出来たから。
いっそのこと、水も全部呑み込んで、息が出来る、それが普通だって考えてみたら。
「はぁ……なせ」
肺に残っていた僅かな空気がボコボコと小さな泡を出して水に溶けて。
ギリギリと噛まれる腕。腕だけじゃない、足にも、羽にも尾にも。気が付くと僕はたくさんの人魚達に噛みつかれていた。
鮫状の歯は一度噛みつかれると、簡単には外せない仕様のはずだ。
人魚達は硬い鱗を避け、身体の内側の柔らかい部分を選んで噛んでいる。
辺りが血だらけになる。僕の血に、人魚が群がる。
身動きが取れなくなるくらい、人魚達は僕の身体に引っ付いて、我先とガジガジ歯を立てた。髪を引っ張られ、首に齧り付こうとするヤツまでいて、僕は噛みつかれまいと必死に身体を捩った。
痛い……どころじゃない。痛過ぎて意識が吹っ飛びそうだ。このまま意識を失えば……。失う、わけにはいかない。こんなところで、くたばるわけにはいかないんだ。
水中では息が出来ないとか、水を飲み込んで溺れるとか、そういうわけの分からないことには絶対にならない。
「美……味い、か……? 僕の血は、そんなに美味いのかよ……」
そう、ここはリアレイトじゃない。
水の中でも存分に呼吸は出来るし喋れるはずだ。そういう……リアレイトでは不可能なことも、この世界では具体的にイメージすることで全部……可能になる。
僕は神の子で、神に準ずる力を与えられていて、簡単には……死なない。血がどんなに流れようが、肉をどんなに削がれようが、死なないんだ。死ぬことを赦されてない。約束を果たして、僕が全部救うまでは……!!
「振り解くことすら出来ないのかしら? そのままでは人魚達に食べられてしまいますわよ?」
大量の血が吹き出し、肉が抉られる。人魚達は容赦なく僕に噛みつき、僕の血肉を貪った。
「う、うぅぅぅ……」
齧られ、引っ掻かれ、抉られて……僕の視界が人魚で埋め尽くされていく。
「楽しませて欲しかったのに。残念ですわね、神の子……」
「――違う、これからだよエルーレ」
全身の痛みに耐えながら、僕は一気に魔力を高めた。
「人魚は簡単に、獲物を逃がさない。その方が……僕も、都合が良い」
ニマッと嗤ったのが、果たしてエルーレに見えていたかどうか。
「僕が……自分自身を餌にして、人魚をぶっ殺そうとしていたなら、どう……?」
「神の子……それは一体、どんな」
身体が、徐々に光と魔法を帯びる。
何かに気付いた人魚達が一斉に慌て始め、刺さった歯を抜こうとしていたけれど、僕は逆に力を込めて、彼女達の歯が抜けないよう筋肉を硬くした。逃げようとした人魚を尾で巻き取り、長い髪の毛をぐるぐると絡めて動けなくし、なるべく大量の人魚が僕のそばから離れないよう、拘束する。
「同じことをするだけだ。僕がやられたのと同じことを」
ギャアギャアと、水中に甲高い悲鳴が広がる。
人魚達はバタバタ足を動かして、僕から逃れようと必死に藻掻いていた。互いにぶつかり合って、爪やトゲで引っ掻き合い、彼女らの美しい上半身がどんどん血で染まってゆく。
「――喰らえぇぇ!!!!」
ビリビリビリビリッ……!!!!
僕が喰らった何倍もの電撃を、人魚達に喰らわせる――!!!!
水を伝って、電撃は一瞬のうちに人魚達の身体を駆け巡った。激しい叫び声、ちぎれていく身体、黒焦げになった個体もある。
けれど、これだけで終わらせるつもりはなかった。
「はぁぁあぁああ……ッ!!!!」
――バンバンバンバンッ!!!!
人魚の身体ひとつひとつを爆撃で壊していく。まるで魚雷が弾けるように、人魚達の身体を一掃する。残骸が飛び散り、透明になった湖の中に広がってゆくのが見える。
僕はそれらを押し退け、雷魔法を帯電させたまま、血だらけの状態で水を掻き分け、ギュンとエルーレの前まで迫った。
「……自分を、犠牲にするなんて」
エルーレは微笑みを忘れ、氷のような顔で僕を見ていた。
「どうでもいい、僕の身体なんて……どうでも」
「どうでもいいはずはありませんわよね? 生きとし生けるものは皆、自分の命が惜しいものでしょう……?」
「へぇ……、そうなの? 僕は……惜しくないって思ってるよ。自分の命なんか、微塵も惜しくない。こんな傷、簡単に癒える。この程度で怯えたり苦しんだりなんかしない」
「この……程度? 手足はズタズタで、水中に漂うのがやっと。その状態で、わたくしと戦うつもりですの……?」
「痛いのは慣れてる。傷が直ぐに治るのことも、エルーレ、知ってるよね? だから、どうだって良いんだよ。僕のことなんか。どうせ、死にたくても死ねないんだから……!!」
痛いとか苦しいとか、どうでもいい。
心を殺さなければ、無感情にならなければ、僕は直ぐに躊躇する。守護竜を倒すのに躊躇してたら、何一つ、救えなくなる。
破れた袖の下、所々皮膚が抉れて骨の見える腕を上げ、僕は彼女を指さした。
「最初に壊すのは、エルーレ、君の石像だ」
血が湖の水に溶けだして、視界が真っ赤に染まる。
身体からどんどん血がなくなってきて、僕の意識は朦朧としてきていた。
「大切なものを守るためなら、僕はどうなろうと構わない。壊してやる……全部僕が壊して、唯一の白い竜になってやる……!!」
エルーレに啖呵を切りながら、頭の中では必死に自己修復をイメージした。回復魔法じゃ……全然足りない。森の中にいれば、空気中に漂う魔法エネルギーで賄えたのに、うっかり森を出た、出るしかなかったことを後悔する。
血が足りなくなると見境なくなってしまうことを、僕は何度も学習したはずだった。なのにまた、自分の身体を犠牲にした。
こんな……酷い戦い方しか出来ない自分に反吐が出る。
けれど、負けたら終わるんだ。
何百年も重ねてきた想いを叶えるのは、僕。全部終わらすのも……僕だ。
「威勢だけはよろしいですわね。わたくしも、本気を出させて頂きますわ」
エルーレはニタリと笑った。
途端に大きく周囲に渦が巻く。
「な、何だ?!」
僕は渦に巻き込まれまいと、慌てて上昇し……久方ぶりにザバッと水面から飛び出した。
そこは思った通り、遠くにレグルノーラの大地が見える、あの湖の上で。
傷付いた羽を広げて空へ上っていくと、ザバァンと凄まじい水柱を立て、湖から何かがせり上がっていくのが見えた。
水柱の飛沫と突風が、上空の僕にまで届く。
「青い……竜……」
それは巨大な水竜だった。
露草色の優しい色合いの鱗に、コバルトブルーの透き通った瞳をした巨大な水竜が、長い尾の先を水面から出して、僕をギロリと睨んでいた。
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