2. 絶望を与えなければ

 狭い室内は一瞬にして張り詰めた空気に支配される。

 美幸を抱える彼と、床で眠る美桜、壁際で倒れる金色竜の男を見比べて、塔の魔女は気力を振り絞るように杖を構えた。

 杖先は震えている。

 咄嗟に取った行動は誤りだと知っていながら、無意識に杖を向けたことを既に後悔しているように見えた。


『――テラ!』


 塔の魔女の後ろから、男の声がする。

 例の男。

 テラというのはどうやら金色竜の名前で。……違う。確か美幸はあの金色竜を“深紅”と名付けていた。であるならば、何故男は金色竜をそんな名前で呼ぶのだろう。通常、竜は契約を結んだ人間に名前を……。


『…………!!』


 彼は瞬時に何かを理解し、何かを企んだ。


『ダメだ、凌。お前が敵う相手ではない』


 無理矢理中に入ろうとする男を、ディアナが制止する。

 男の名前は、凌。硬そうな黒髪、鋭い目、ガッチリとした身体、溢れ出る正義の臭い。

 向こうもこちらを見ている。目が合う。ゾクゾクと背筋に悪寒が這う。


『砂漠へ……、時空の狭間に戻ったのではなかったのか』


 怯えたような、ディアナの声。

 彼はククッと肩で笑う。


『妙な気配を感じた。酷い有様だ。人間とはかくも卑しい生き物なのだと、改めて思い知らされる。誰かを守ろうとする者、異端を排除しようとする者、支えようとする者、滅ぼそうとする者。人間共の様々な姿が私を楽しませた。だが……、あまりの愚かさに、私は憤慨した。失望した』

『し……、失望するのは勝手だけどね。好き放題やらかして姿を消したあんたの後始末をしてる、こっちの身にもなって欲しいもんだよ……。美幸と美桜が今どんな状況に置かれているのか、知ってるんだろう……? 庇いきれないよ。どんなに私が力を持っていたとしても、束になってかかられたんじゃ制しようがない。これで済んだのは不幸中の幸いだと思うね。そこは……、わかってるのかい?』


 ディアナは恐怖でまともに思考回路が働いていないようだ。必死に隠しているようで何も隠せていない。そのままだと塔の魔女と白い竜の関係が凌にバレてしまうぞと、彼は心の中でほくそ笑んだ。

 パチパチと暖炉の火が燃える音が、小屋中に響いている。

 良い……絶望の始まりだと彼は思った。

 己の中で燃え盛る黒い炎を隠すように表情を全部消して、美幸を抱えたままディアナに歩み寄る。

 向けられた杖先に視線を落とすと、ディアナは大袈裟に震えて杖から手を離した。


『アッ……!!』


 ディアナは焦り、強張った手を必死に開いて魔法陣を捻り出そうとする。が、何も起こらない。恐怖で集中力が途切れ、魔法さえ操れなくなってしまっている。

 

『――“かの竜だ”』


 彼女は僅かに口を動かし、か細い声で凌に彼の正体を告げた。

 凌の顔が青ざめていく。

 とても良い、絶望顔。


『こんな世界は、滅ぼすしかない』


 追い討ちをかけるように彼が言うと、ディアナは膝から崩れ落ちた。


『ディ、ディアナ! しっかりしろ。おい……!!』


 動かなくなった彼女に、凌は必死に声をかける。


『もう、お終いだ……』


 恐らく、ディアナはしばらく立ち上がれない。白い竜の真の目的を知るからだ。

 彼は二人に一瞥をくれて、小屋を後にした。

 雨は止んでいた。

 冷たい風、死臭と焼けた木の臭い。

 人間共が美桜を殺すために起こした暴動の残骸が、目の前に広がっている。

 秘密を覆い隠すように茂っていた木々も今は丸焦げで、下草がまだ僅かに燻っていた。

 彼は美幸を抱きかかえたまま、死体の転がる草地の真ん中に立った。

 ――深呼吸し、周囲を見回す。

 愚かな人間共めと、彼は口の中で何度も呟く。


 たった一人の、年端もいかぬ白い竜との合いの子が恐ろしくて恐ろしくて、人間共はこんな酷いことをした。くだらない。何もかも。

 所詮人間とはそういう生き物だ。何百年となく生きてきて、彼は知っていたはずだった。誰も彼も白い竜を受け入れようとはしなかったし、受け入れようとした者を非難した。

 この暗澹たる世界が変わるには、恐らく初代塔の魔女リサとのあの約束を叶えるしか方法がない。世界を構成する三つ――塔の魔女と白い竜と救世主、全てを一つずつ揃え、儀式を行う。それしか。


 ずっと足らなかった救世主が……救世主になり得るほどに強大な魔力を隠した男がそこに居て、今、この瞬間自分を注視していることを彼は知っていた。美桜と金色竜を小屋に残し、のこのこと外に出てこちらの様子を覗っているようだ。

 気分が高揚した。

 絶望を与えなければ。どうにかしてあの男に、白い竜ドレグ・ルゴラは倒すべき強大な敵なのだと認識させなければ。


 絶望とは、光の影に存在する物。光と影の落差が絶望を演出する。

 彼は僅かな希望を示すように、美幸の頭をグッと抱き寄せ、ゆっくりと唇を重ねた。腕の中の美幸がピクッと反応し、だがそのまま彼に委ねられるようにキスに応じる。何年ぶりかの濃厚なキス。

 凌に見せつけるように、彼は長く、長くキスをした。


『ゴメンね……』


 美幸が僅かに目を開ける。澄んだ瞳に、彼の顔が映り込んだ。


『私が不甲斐ないばかりに、美桜を危険な目に遭わせてしまった……。守ろうと思ったの。必死に生きようと思ったの。でもね……、世界はそれを、許さなかった』


 一筋の涙が、美幸の頬を伝う。彼はそれを、親指でそっと拭った。


『あなたが居なくなって、この先どうやって生きていけばいいのか途方に暮れてしまって。ディアナが宛がってくれたアパートも、この小屋も、安全じゃなかった。どうしたらいいの。どこにも、居場所がない。助けて……、助けて欲しい……!! お願い。このままだと……、このままだと美桜が、あの子が死んでしまう。ねえ……!!』


 美幸は彼の胸元を掴み、必死に訴えた。


『二つの世界が一つになったら、私たちは幸せになれるの? 私たちが持つ力の意味って何? 竜は世界を全て見渡す力を持っているのでしょう……?!』


 未だ自分を信じていることが嬉しくて、同時にこれから行おうとしていることが上手く作用するためには、美幸のあり方はこうであって欲しいと考えた通りに彼女が言うのが嬉しくて、……彼は、頬を緩めた。

 彼はゆっくりと美幸を地面に下ろした。それからギュッと抱きしめ、再び、長くキスをした。


『美幸、君は儚く美しい』


 彼の言葉に、美幸は目を潤ませた。


『無垢で、健気で、そして、愚かしい。私はそんな君を魅力的だと感じ、近づいた。人間というものにもっと触れたかった。竜は人間に変化へんげするが、人間にはなりきれない。近しい存在でありながら、相容れないと言われてきた二つを掛け合わせれば何かが起こるに違いないという、興味本位で君に近づいたことを、まず謝らねばならない。だけど、信じて欲しい。私は君を心から愛している。この世界が君を悲しませるなら、私はこの世界を滅ぼしてもいい』


 美幸に、そして少し離れたところから耳をそばだてる凌にも聞こえるように、彼は言う。


『それは……、それはダメ! そんなことをしたら、私も美桜も、どこにも行けなくなってしまう。お願い。そんな怖いこと、言わないで!!』

『ならば……、ならば君は何を望むのだ。“リアレイトの破壊”か?』

『ちがうの、ちがうの! 何も、傷つけたくない。壊したくない……! どうしてわからないの……?!』

『わからないな。人間の言うところの愛だとか正義だとか、そんな曖昧なものは、私には到底理解ができない。二つの世界を自由に行き来する力を持っていながら、君はどうして何も望まないのだ』


『私は、みんなが幸せになる方法を探りたいだけ』

『理想論では幸福など掴み取れない。滅ぼしてしまえばいいのだ。二つの世界の壁など取り払ってしまえ。君を悲しませるリアレイトの全てを、レグルノーラで取得した力を持って制すればいい。レグルノーラで君らを排除する動きがあるなら、それらを力で消し去ってしまえばいい』


 彼は、ゆっくりと美幸を引き離した。

 そしてニヤッと小さく笑い、天に向かって手を掲げる。


『私に助けを請うならば、そうするしか方法がない』


 魔法陣を天に描く。天空を埋める、巨大な赤色の魔法陣。

 空一面に描かれた美しい三重円に、レグル文字を文様のように書き込んでいく。

 普段は描かぬ魔法陣にわざとらしく現代レグル文字で刻むのは、“レグルノーラの街という街を跡形もなく消滅させる”という文字列。

 ――気付け、凌! そして私を恨み、この世界を救う為に身を捧げる救世主となれ……!!


『美幸! 騙されるな! そいつは最初から、世界を滅ぼそうとしてる!』


 凌の叫び声に、彼は満面の笑みを浮かべた。

 気が付いた。目論見通り、凌は彼に気が付き、その異常性を感知した。

 追撃だ! 更なる絶望を!!

 口をグワッと開き、凌目掛けて炎を吐く。咄嗟にシールド魔法で防いだようだが、それも想定内。それでいい。ドレグ・ルゴラに見つかったと認識したなら、目論見は成功なのだから……!!


『空を、空を見て! 美幸!! 世界が……!!』


 度重なる凌の叫びで、美幸はようやく魔法陣の存在に気付く。

 凌に炎を浴びせた彼と、天上の魔法陣を交互に見て、美幸はウッと両手で顔を覆い数歩後退った。


『酷い。面白がっていたのね……、私と美桜が苦しむのを。そして、世界を滅ぼす口実を探していたってことなの……?』

『だとしたら、どうするのだ』


 彼女はもう、彼を愛した美幸ではなかった。

 幾度となく彼が浴びせられたのと同じように、美幸は彼を憎み、憐れみ、怒っている。

 彼女は何かを決意するように、深く頷き、それから凌の方に振り返った。


『頼むね、凌君。美桜のこと、頼むね』


 それから両腕を目一杯天に伸ばして、美幸は魔法陣を描き換えた。

 ――“禁忌の子についての一切の記憶をレグルノーラに住む全ての人間の記憶から跡形もなく消滅させる”


『別の方法があったんじゃないの、キース……! あなたが救われるためには、別の方法が。救われたいと願うなら、どうして全部滅ぼそうとしてしまうの……?!』


 魔法は程なく発動した。


『破壊以外の手段を、私は知らない。案ずるな、美幸。美桜は守る。次の白い髪の男を産ませるために、絶対に殺させはしない』


 世界が、真っ白に染まっていく。

 空も、木も、空気さえも、真っ白な光に染まり、音が消え、そして――……

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