【32】地竜ニグ・ドラコ
1. 救世主になり得る男
深い深い湖の底でじっとなりを潜めていた彼が再び人間達の住む都市部へと向かったのは、妙な力の気配を感じたからに他ならない。
それまでとは違う、強い意志と底知れぬ魔力を隠し持った干渉者の気配。
『遂に現れたか』
高鳴る胸を押さえつつ、彼は人間の姿に化けて真相を探った。
美桜が生まれて四年が経っていた。相変わらず世間では、竜との混血児である美桜を巡って諍いが起きている。五人衆と名乗る市民部隊の強硬派が中心となって、塔の魔女派の能力者らを巻き込み、あちらこちらで暴動が起きているようだ。
人間達は、もはや彼の意思とは無関係に戦いに興じているようにも見えた。
その負の感情が湖に零れ落ち、いずれ彼の血となり肉となることを――誰も知る由もなかった。
美幸と美桜の気配は意外にも森の中にあった。
そこにあの金色竜の気配もある。そして……妙な男。相当な力を隠し持っていると、彼は直感した。
どうやら男は人化した金色竜と共に、美幸と美桜を守っているようだ。
忌々しい金色竜は、美幸の
並々ならぬ決意と力が、あの男の中で滾っているのが見える。隠れた力は尋常ではない。――あの男こそ、救世主たる存在になり得るに違いないと、彼は悟った。
それにしても美幸と美桜が人間社会で居場所を追われ、森の中、小さな小屋に隠れ住んでいたとは。
基本人間は森には寄りつかないが、それでも木こりや猟師は森へ入る。森のごくごく浅いところに。美幸らのいる小屋は、それより少しだけ奥まったところにある。出来る限り社会から断絶されたところに……ということなのだろうか。
小屋の周辺にはしっかりと魔物除けの結界が張ってあった。竜と魔物から彼女らを守るための結界だ。
だが、彼には効かなかった。
彼は木陰に隠れてそっと彼らを外から監視した。彼の気配には、誰一人気付いていない。
『あの男を、どうにかして救世主に仕立てねば。そのためには、更なる絶望が必要だ』
・・・・・
気が付くと、僕は人間の姿に戻って仰向けで甲板の上に倒れていた。
空は清々しい程に青く、心地の良い風が頬を撫でている。清らかな水の臭いがする。
帆船の船首は粉々で、マストも引き千切られているようだ。甲板のあちこちが穴だらけで、だけど沈んでしまう程穴が開いてるわけじゃなくて。
身体の上に掛けられていたものをつまみ上げ、それがシバの上着であることに気が付いて、僕はガバッと起き上がった。全裸だった。慌てて服を具現化させようとして……違和感に気が付いた。そこにシバの気配がなかったからだ。
「お目覚めですか、神の子よ」
女の声。
立ち上がるまでの間に服を元通りにして、僕は咄嗟に身構えた。
「エルーレ、いつの間に」
水竜エルーレは長い青髪を垂らし、蛇のような半身をくねらせて僕を見下ろしていた。
その直ぐ後ろに、ルベールとフラウの姿もある。
「湖の隅々まできちんと浄化されていること、確認致しましたわ。素晴らしい。流石は神の子」
「出来てたんだ……! 良かった……!!」
僕は船縁にそろそろと近付いて、グルッと辺りの景色を見渡した。
視界いっぱいに広がる、美しい湖の青。生臭さと妙な温さが消えて、爽やかで澄んだ水の臭いが肺の奥まで染み込んでくる。
僕が船縁に寄りかかると、水面が僅かに揺れて波紋が広がった。日の光を反射して輝く湖面。覗き込むと、水面に映った僕の顔の向こう側、湖の底に何かが透けて見える。それこそ、まるで街が湖底に広がっているような……。
「これが本来の湖。神話によると、神は争い続ける人間達を嘆き悲しみ、大地の縁に立って涙を零したと言います。その涙に吸い寄せられるようにして、今度は二つの世界からどんどん悲しみや苦しみが流れ込んでいくようになったと。――湖の存在は長い間人々に知られることはなかったというのに、そういう話が何故かしら語り継がれてきたと聞きますわ」
「その話、多分干渉者達が広めたんだ。彼らは湖の存在を知ってたからね」
「神の子自らも飛び込まれた」
「うん。真っ黒に汚れた気持ちの悪い水の中に飛び込んで、黒い水を思いっ切り大量に飲み込んだ。昔は飛び込んでも大丈夫なくらい澄んでいたんだろうね。浄化魔法には、もう二度と汚れないようにと願いを込めたんだ。この先もずっと美しさを保てるようだといいんだけど」
湖から吹き付ける柔らかい風に、僕の長く白い髪がなびくのが見えた。白い竜になって長時間魔法をぶっ放って、……けど、ちゃんと人間の姿に戻ってる。心が静かだったら、ちゃんと人間の姿のままでいられるってことなんだろうか。
分からない。
自分の身体なのに、全然。
「エルーレにお願いがある」
「なんでしょう」
「エルーレ地区にある二本の杭、まとめて壊したい。少し休んでから行くから、もし場所を把握してるなら、僕のこと連れてって貰えるかな」
「ええ、喜んで」
聖魔法が使えるようになるのは、あくまで通過点で。
――ただ、終わりが近いのは分かる。
もう少しで僕の記憶の旅も終わる。そうしたらきっと……一番苦しくて、嫌なことが待ってるんだと思う。
*
森へ戻って、守護竜達が見守る中、エルーレが守っていた杭を壊した。
聖魔法が使えるようになったからか、思いの外暗黒魔法によるダメージは少なかった。相変わらず杭の欠片は容赦なく僕の身体を貫いたし、全部僕の身体に吸い込まれた。それでも、ギリギリ理性は保てていたし、凶暴になり過ぎずに済んだ。
竜化しかかった状態で踏ん張り、荒く息を吐いて叫んだけれど、何かを襲いたい、壊したい衝動に負けずに済んだのはとても大きかった。
「次、行くよ」
興奮で口から炎が漏れ出るのを必死に抑えながら、僕はエルーレに頼んで次の杭へと向かった。
次の杭も、直ぐに壊れた。
二連続で杭を壊しても意識が飛ばない程度には我慢出来たのは幸いだった。
身体が痺れ、膝がガクガクした。けど、僕は耐えた。
「残り一本。一旦休んだ方がいい」
ルベールに言われて、僕は「そうする」と言った。
一度に四本壊したことを思い出して、無理は危険だと思ったからだ。
帆船へと戻り、泥のように寝た。杭を壊す前にちゃんと船を直しておいた僕を、僕は自分で褒めた。
・・・・・
男は、まだ若かった。
初めて出会った頃の美幸と同じくらいに見えた。
小さな美桜は男をお兄ちゃんと呼び、とても懐いていた。美幸と美桜の事情を知った上で一緒に行動する男――偏見もない、純朴で真っ直ぐな彼を、美幸は信頼しているようだ。
『凌君が美桜と一緒にいてくれるなら安心ね』
小屋の中からそんな会話が漏れ聞こえた。
『そうですかね。俺は未だ頼りなくて……』
『ううん。そんなことないよ。美桜と将来、一緒に過ごしてくれる人がこうして時空嵐を抜けて未来からやって来てくれたのも、何かの縁だと思うの』
『確かに、そうかも知れないですけど』
時空嵐。砂漠で度々起きる砂嵐は、時空の歪みを発生させ、巻き込んだ人間を様々な時間軸に飛ばすらしいと聞いたことがあった。凌と呼ばれた男はどうやら、もっと先の時代からこの時代に迷い込んできたらしい。
『美桜と縁がある……? 面白い。やはり、彼は適任だ』
会話に耳をそばだてて、彼はほくそ笑んだ。
人間共は勝手に殺し合う。
勝手に枠を拵えて、そこからはみ出したものを、躊躇なく叩き潰す。
彼の意図せぬ地獄を、勝手に作り上げる。
五人衆を名乗る男共が美幸達の潜伏する小屋を襲撃した。静かだった森は戦場になった。幼い美桜は捕らえられ、命の危険に晒された。
『人間共め……! とうとうやってくれたな……!!』
彼は怒った。
怒ったが、良いものを見た。
男の活躍は目覚しかった。炎に包まれる美桜を救うために男は魔法で雨を降らせた。次々に魔法を発動させ、しかもそれが尽きることはない。まだ力の使い方はなっていなかったが、迷いのない戦い方をしていた。命など惜しくない、何もかも救いたいという傲慢さに、彼は打ち震えた。
『救世主になり得る男……か』
塔の魔女と一派の能力者達が応戦したが、そんなものはどうでもよかった。
命からがら戦場から美桜を救い出し、男は小屋に向かっていく。一緒に人化した金色竜も美幸を抱えて中に入って行くのが見えた。美幸も美桜も、傷付き、意識がないらしい。
男は未だ攻撃の手を止めぬ五人衆を倒すため、再び戦場へと戻っていったようだ。
小屋には美幸と美桜、そして人化した金色竜。
『ここで美桜に死なれては困る。回復くらいはしてやろう』
魔法の雨が止まぬ中、彼は人目を避けるようにして小屋へと入っていく。
暖炉には火が付いていた。さっき男がやったのだろう。床にぐったりと横たわる美幸と美桜には毛布が掛けてある。
『未だ息がある』
彼は美桜のそばに屈み、頬を撫でて回復の魔法をかけた。暖炉の火に照らされ、美幸と揃いの赤茶の髪がチラチラと輝いて見える。丸い顔、丸い鼻、小さな手足。生まれたばかりの頃、リアレイトで触って以来。これが……本当に自分の血を引く子どもなのかと、彼は目を丸くした。
『――誰だ』
ガタリと音がして振り返ると、人化した金色竜がこちらを見ている。
向こうは彼が何者か、気付いていない。
彼はのっそりと立ち上がり、人化した金色竜を見下した。
『今度こそ邪魔は……させん』
彼は右手を突き出し、魔力を放出させた。バンッと人化した金色竜が壁に打ち付けられ、気を失う。
思った通り、人間と同化さえしなければ、金色竜は弱い。
あとは……美幸と美桜をどうするか。
自分で育てるにはリスクが大きい。人間など育てたこともない。
『あの男を救世主にしたい。私を敵だと強く印象づける必要がある。仮に美桜が……、美幸の言うように先の時間であの男と繋がるのだとしたら、ここで与えるべき絶望は……』
彼は思案した。
思案を巡らせながら、気を失いぐったりとした美幸を抱きかかえる。
――と、ギシギシ、外の階段を上がってくる足音。
この足音、この気配。
美幸を抱えたまま、彼は入口付近に顔を向けた。
『何をしている。ここで何をしているのだ……!!』
赤い魔女だった。
黒い髪を高い位置で括り、真っ赤な三角帽子に、赤の戦闘服、真っ赤なマントに身を包んだ黒い肌の塔の魔女ディアナが、死んだような目をしてこちらを見ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます