5. 限界

 地獄から逃れようと必死に手に入れた人間の皮が、ここに来て足枷になるなんて。

 ようやく慣れてきた黒い髪が視界に垂れるのを、彼は口惜しそうに掴んでぎぎぎと歯を鳴らした。


『多分……、そういうことだ。お前の代では真の平和は訪れない。たとえ救世主とやらが現れても……、私の髪は黒いのだから、三つは絶対に揃わない』


 絶望を通り越して、頭は真っ白だった。

 今までの努力も、苦労も、全部水の泡だ。――しかも、そうしてしまったのは自分自身。

 例えようのない真っ黒い感情が、腹の底から湧いてくるような気持ち悪さに、彼は息を荒くした。


『ほ、本当にお前が白い竜ならば、救世主さえ現れれば……!』


 黒い塔の魔女は言ったが、彼は床に両手を付いたまま首を横に振る。


『いや。私は白い髪の男の姿を捨ててしまった。きっと、リサの言った白い髪の男は私ではない。……私ではない、別の白い竜なのだ』

『髪の色はともかくとして、お前が間違いなく白い竜ならば、それで……!!』

『私ではダメだ。……お前、名は?』

『ディアナ』


 ゆっくりと顔を上げ、彼はディアナの顔を見た。

 世話好きそうな黒人の魔女は、眉間にシワを寄せて、苦しそうな顔で彼を見つめている。


『ディアナ。この世界に唯一存在する白い竜たる私が、その役目を終えるには、どうすれば良い……? どうすれば、私とは別の、新たな白い竜は現れるのだと思う……?』


 呆然として何も考えられなくなった彼は、それまで決して吐き出さなかった弱音を口にしていた。


『もう何百年も……、私はずっと待っていた。化け物だと罵られても、破壊竜だと恐れられても、世界を構成する三つが揃うことを待ち望んだ。私を倒しにやってくる救世主の存在を待ち焦がれた。救世主が現れるためならと、世界を恐怖のどん底に陥れたこともあった。何もかも破壊し尽くせば、救世主は現れるのではないかと、そう思っていた。ドレグ・ルゴラと呼ばれるようになって久しい。この時代に救世主が現れても救われないのだとしたら、これ以上恐ろしい存在になっても意味がない。恐らく今までとは全く違う別の方法で三つを集める必要があるという意味だ。塔の魔女は延々と引き継がれる。救世主は世界がどん底に沈むまで姿を現さない。白い竜は……、唯一の白い竜……私だけが、永遠の時を、約束を果たすためだけに生き続けてきた。私はもう、限界だ。早くこの地獄を終わらせたいだけなのだ。お前は知っているのか? どうすれば別の白い竜は現れる……?』


 天涯孤独な白い竜の本音に、ディアナは酷く困惑していた。

 悩み、しばし沈黙。


『普通、生きとし生けるものは、子を為して増えるはずだが、白い竜はそうではないのか……?』

『白い竜は他にはいない。私自身の出自も分からない』

『へ、変異種であるなら、他の竜と交われば』

『私は森を追われた。竜とは一緒に暮らせない』


 泣きそうなのを我慢して、彼はボソリと言った。

 孤独に苛まされていることを告白するのは、とても苦しくて……辛いのだ。


『ずっと、人間の振りをして生きてきた。私は白い竜である己を何度も呪った。人間になりたかった。人間の姿をしていれば、生き延びられるからだ。やっと人間の皮を手に入れたのに、今更竜と交合まぐわうなど、出来るはずがない。竜が私の存在を受け入れるはずがない……』


 竜と交合うなど……。

 そこまで考えて、彼はハッとした。






『人間の皮を手に入れたのだから、人間の雌に子どもを産ませるという手もあるか……?』











      ・・・・・











「――――あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ッ!!!!」


 自分の叫び声で目が覚めた。

 全身ブルブル震えていて、頭が割れるように痛かった。


「大河君!! 落ち着いて!!」

「……ってことを考えてるんだ。なんてことを考えてるんだッ!! あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

「大河君! 大丈夫だよ。夢から覚めたから!! 落ち着いて!!」

「やめろって!! 別の地獄が始まるじゃないか!! ちっくしょう!!!!」

「大河君!!」


 思い切り揺さぶられて、ハッとした。

 横になったまま悶える僕の顔を、リサが覗き込んでいた。

 ガバッと起き上がるとそこはいつもの監視小屋で、僕はベッドの上にいた。

 視界に入ってきた手は白かったし、鋭い爪があって、鱗もびっしりだった。恐る恐る触った顔にも鱗があって、頭には角が生えたままだし、羽も尾も……引っ込むことなく、そのままだった。

 無意識下ではもう、人間の姿をしていない。

 それがまた苦しくて、僕は頭を抱えたまま、ううと嘆いた。


「記憶の再生は順調なようだな」


 真っ赤な色が視界に入ってくる。

 恐る恐る顔を上げると、炎の守護者ルベールが腕を組んで僕を見下ろしていた。

 肩で息をして鼻水を啜って、僕はベッドの上からギリリとルベールを睨んだ。


「順調すぎて、頭がおかしくなりそうなんだけど。レグルは何を考えてるんだ。僕を壊す気か。こんな地獄みたいな過去を見せられて、まともな思考でいるなんて無理だ!!」

「レグル様は恒久の安寧をお望みなのだ。その記憶の先に、いずれ真実が見えてくる」

「真実が見える前に僕の精神が限界を迎えそうだって言ってるんだよ!! ……なんでこうなるんだよ。なんであいつは、絶対に選んじゃいけない方の道ばっか選ぶんだよ!!!!」


 両手で髪を掻きむしって、僕は大きく肩を落とした。

 大きく荒い息。

 頭の中がぐるぐるして、自我を保つのが精一杯で。

 小屋の中にはルベールとリサの他にも、シバとレン、ノエル、ルークとアナベルの姿も見えた。それからグリンとエンジも、小屋の隅っこの方で心配そうにしてる。

 起きがけの半竜姿を見られるのは正直心外で、だけどそれを回避する手立てもなくて、それだけでも心が痛くて堪らないのに、あんな夢を見て、あんな目覚め方をした。

 全然まともじゃない僕を見て、皆不安そうにしてて、それが色に出てて。空気がマーブル色に染まっているのが何よりの証拠なのに、皆平気そうな振りをしてるのがまた、苦しくて堪らない。


「……ごめん。取り乱した。人間の姿に戻る」


 手の甲で涙を拭って、僕はベッドから立ち上がりながら、するするといつもの芝山大河の姿に変化へんげした。

 皆の視線が痛い。

 特に……、ルークとアナベルの視線が、グサグサ刺さってくる。


「杭を壊す前に力尽きるなんて……、ダサすぎだよね。はは。身体も心も、全然コントロール出来てない。僕はもう大丈夫だから、杭、壊しに行くよ」

「だ、ダメだよ大河君! 無理しちゃ!」


 リサが止めに入ってくる。

 けど、他に誰も僕を止めるヤツはいなくて。……違うな。掛ける言葉が見つからなくて、何も言えないみたいな、そんな色をしてる。


「こんなにたくさん魔力の高い人間がいたらさ、襲っちゃうかも知れないじゃん。僕、今凄く不安定で。必死に自我、保ってるんだけど、いつ暴れ出すのか、自分でも良く分からなくて。――関わらない方がいいよ。僕なんかに、関わらない方がいい」


 感情の置き場が分からなくなって、笑ってるのか泣いてるのか、それすら自分でも分からなくて。

 記憶の内容が強烈過ぎた。僕は、僕の存在理由に絶望した。

 それしか選べなくなったあいつには同情していたし、僕だって同じ道を選んだかも知れないと一瞬でも思ってしまったことに恐怖を覚えた。

 僕の感覚はもう、随分前から、あいつと同じになってきていたんだ。


「シバ。当分の間、私が神の子を預かろう」


 ルベールが急に変なことを言い出して、だけど僕も、それが良いと思って何も言わなかった。


「普通の人間として生きてきた神の子にとって、ここから先の更なる試練は、計り知れないものになる。それに、こんな中途半端な状態では、レグル様を倒すどころか足元にも及ばない。それでは……、地獄は終わらない」


 シバは困り果てたような顔をして、だけど僕の不安定で壊れそうな状況を見て、こくりと無言で頷いた。


「だ、だったら私も一緒に……!!」


 リサが僕とルベールの間に割って入ろうとしたけれど、シバが引き留めた。


「た、タイガ! あなたばかりが苦しむ必要なんて!!」


 意を決したようにアナベルが叫んだ。

 けれど僕は、ゆっくりと首を横に振った。


「言ったじゃん。こういうのは全部僕が背負うから。君は塔の上で祈ってて」

「――けど」

「祈っててよ。化け物に同情なんて要らないからさ」


 頑張って笑って見せたんだけど、それが笑顔になっていた自信はなかった。


「ここも、解体して良いよ。もう、戻らないから」


 シバの方に顔を向けると、困ったような顔をされた。

 けど、やっぱり僕の気持ちを汲んでくれたのか、無言で頷いてくれるのがありがたかった。


「さよなら。迷惑ばっかりかけて、ごめん。じゃあ、また、いつか」


 一通り、目配せを済ませてから僕はルベールと転移魔法で杭へと飛んだ。

 どう思われてるのか見えるのが怖くて、あんまりじっくり皆の顔は見れなかった。

 そろそろ潮時だったんだと思う。

 誰かに守られて、その中で力をコントロールするなんて、出来っこない状態だった。

 人間と同じ暮らし方も、考え方も出来なくなって来てた訳だし。

 そろそろ本格的に、神の子としての本当の使命に向き合わなくちゃならない時期になってたってことくらい、僕にも分かってたから。

 だから素直に従ったんだってことも、ルベールは何となく分かっている感じだった。

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