4. 自滅

 身体が悲鳴を上げて動かなくなった。

 意識はあるのに全身が人形みたいにだらんとして、半目を開けたまま泥水の中に頭からぶっ倒れた。

 バシャンと鈍い音。

 誰かが僕を呼ぶ声が遠くから聞こえて、でもそれが現実なのか幻聴なのかも判断出来なかった。

 鼻から口から、泥水は容赦なく体内に流れ込んで来る。だからって吐き出すとか苦しいとか、そんなのは全然なくて、鉛のように重たくなった身体が、くの字に折れ曲がってズブズブと泥に沈んだ。

 流れ込んだ泥水が気道を塞ぎ、息苦しくなってようやくウッと一瞬顔を歪ませる。けれどそれを吐き出す気力すらなくて、そのまま汚れた水を体内に取り込んでいく。


 身体の半分以上が泥水に沈んだところで、何かがぬっと腹の下に入り込んだ。何だろうと意識はそこに向くのに、視線すら動かせないでいると、不意に身体がグイッと下から人の目線の高さまで持ち上げられた。

 だらんと宙に垂れた腕と足。

 だらしなく垂れ下がった白い竜の羽と尾。

 口と鼻、髪の毛や手の先から泥水がボタボタと零れ落ちるのを、僕は無気力に眺めていた。


「これではレグル様には勝てない」


 ルベールの声。

 長い尾で僕の身体を持ち上げ、髪の毛を引っ張って僕の顔を除き込む。

 グイッと無理やり前を向かされて、だけど口を閉じることも声を出すことも出来ずによだれと泥を垂れ流す僕を、ルベールは悲しそうに見ていた。

 パシャパシャと水が跳ねる音、そして魔力の強い人間独特の甘い臭いが近付いてくる。


「大河君!! 大丈夫?!」


 リサの声。

 杏色。

 頭のどこかで美味そうと呟く僕がいる。


「あ゛ぁ゛ぁ……」


 力を使い過ぎて飢えた白い竜の身体がその血肉を欲して、だらだらとよだれが溢れた。

 食べたい、けど、全然力が入らない。


「大河!! 無事か?!」


 今度はシバの声。


「安心しろ、シバ。神の子は見事私に傷を付けた。だが、全ての力を使い果たしてこの有様だ。今は立つ気力どころか、手足も動かせない」


 ルベールはそう言って、僕の無様な顔をシバの方に向けた。

 あまりの情けない姿に、シバは愕然としているようだ。


「生きては……いる?」

「白い竜は簡単に死なない。使命を果たすまで生き続ける。神の子は普段、人間の姿を?」

「そうです。ずっと、普通の人間として育てて来たので」

「……なるほど」


 ルベールはふぅんと声を出し、僕の髪から手を離した。支えを失った僕の頭はだらんと垂れて、何度か上下に揺れ、そのまま下を向いた。

 今度は両足と尾の間から、恐る恐る近付いてくるレンとノエルの姿が見えてきた。


「どどどうなってるんだ……?」

「負け……た……?」

「負けてはいない。自滅だ」


 とルベール。


「アレだけ大量の真水を生み出して、しかも自在に操った。私の動きも見事に止めた。まだレグル様には及ばないが、あの水魔法は、水竜エルーレと同等か、それ以上かも知れない。だが、身体が追い付いていない。人間の姿ではもう、抑えきれない力を持ち始めている。杭は残り五本。このままでは最後まで肉体と精神が持つかどうか」

「えっと……、守護竜って、タイガの敵って訳じゃあ……」


 ノエルが尋ねると、ルベールは「違う」と短く言った。


「レグル様は恒久の平和をお望みだ。そのためには、神の子が唯一の白い竜として君臨する必要がある。我々四体の守護竜は、杭を倒しに来る神の子に力の使い方を教える指南役として、命を授かったのだ」

「唯一の……白い竜? そう言えば、タイガのヤツ、いつもうわ言でそんな事を……」

「ホントか、レン」

「ノエルも知ってるだろ? タイガの秘密主義。そのひとつだよ。ところでルベールはレグル様が大聖堂の守護竜像から作った半竜なんだよね? なら、もしかして色々知ってる? タイガがやたらと僕ら人間と距離を置きたがる理由とか、塔の魔女に固執する理由とか……」

「知っていたとして、神の子の意思に反して伝えることは難しい。先ずは神の子の回復を待つしかない」


 ルベールが言葉を濁したところで、強烈な甘い臭いが鼻を掠めた。

 唾液腺から一気に唾液が溢れてきて逆さまになった僕の上顎に溜まり、牙の間からボタボタと落ちていく。

 興奮と共に荒くなった呼吸で、大きく肩が揺れた。

 身体が、アナベルの魔力に反応している。落ち着け。あれは塔の魔女。傷付けてはいけない存在だと、必死に自分に言い聞かせる。


「タイガ……」


 ノエル達の更に向こう側に、両手で顔を覆うアナベルと、そこに寄り添うルークの姿が見えた。


「た、タイガ……!! 本当にコレが……」


 アナベルは、変わり果てた僕を見て、かなりのショックを受けているようだ。

 驚きと恐怖の色が入り交じってる。

 胸が痛む。

 けど、正常な反応だと思う。


「ま、禍々しい。これのどこが“神の子”だ。かの竜そのものではないか……!」


 ルークはそう言って、僕に駆け寄ろうとするアナベルの両肩をグッと自分の方へと引き寄せた。


「違う……。僕は……、ドレグ・ルゴラじゃない……」


 宙吊り状態のままどうにか捻り出したそれが、ちゃんと人の言葉として聞こえていたのか、僕には自信がなかった。

 だけど直後に、


「分かるよ。タイガは恐ろしい竜じゃない。可哀想。助けてあげないと……!!」


 アナベルの言葉が耳に強く届いて、僕は安心してそのまま、眠ってしまったのだと思う。











      ・・・・・











 それまでの時代とは全く違い、人々は他人に深く干渉しない。

 多くの者が自分の生きたいように生き、好きなものを選んでいる。

 他人に干渉されない点で、生きやすい時代にはなったのかも知れないと、彼は目を細めた。

 レグルノーラの大地の中心にそびえる白い塔もまた、以前とは全く別の姿へと様変わりしていた。以前の塔より遙かに高く、頑丈で、巨大な施設だった。

 周囲には公園が整備され、そこに以前、初代塔の魔女が拵えた塔が残っている。しかし、今の塔の半分にも満たない高さで、森の木々にすっかりと覆われ、存在感を失っていた。

 この時代の塔の魔女に会わなければならない。

 そして約束の話を覚えているのか、確かめなくては。


 気配を消し、素知らぬふりをして塔に侵入したあと、最上階へ。

 塔の魔女はいつも天辺にいる。そう決まっている。

 見晴らしの良い展望台から更に上の階へと進み、ようやく到着した最上階。役人らの目を掻い潜り、堂々と塔の魔女の住まいである部屋の中へと侵入する。

 そこに居たのは、これまで見たどの魔女とも違う、真っ黒な肌をした赤いドレスの魔女だった。

 ひとり世界を憂うような顔で椅子に腰掛け、本を読んでいた。

 絨毯に吸われた足音に気が付いて、魔女は本を閉じ、視線を彼に向けた。


『お前は誰だ』


 黒い塔の魔女は、目を大きくして彼を見ている。


『誰、とは』


 彼はそう言って、眉をひそめる。

 慎重にしなければならない。アンナローザの時は焦って失敗した。今度こそ、魔女の側から情報を上手く引き出さなくては。


『人間ではないな……。だが、魔物ともまた違う。竜の気配に似てはいるが、普通竜はこんなに黒い気配をしていない。お前は一体何者だ……!』


 塔の魔女は正義感の強そうな赤い紅を差し、鋭い眼差しで彼の正体を探っていた。

 それが何とも嬉しくて、むず痒くて。やはり、塔の魔女は特別なのだ。感じあう。

 彼はニタリと笑い、感嘆の息を吐いた。


『流石は塔の魔女。この世界で絶対の権力を持つ最高能力者。他の誰も私のことを疑わなかったというのに、あなたは一目見ただけで私を疑った。素晴らしい。実に素晴らしい』


 黒い塔の魔女に、彼はわざとらしく拍手した。

 広い室内に二人きり。塔の魔女は足がすくんで動けないらしい。持っていた本がポトリと落ちた。小刻みに震える身体を守るように、彼女は両肩を抱えている。


『人間に化けられる竜の話を聞いたことは?』


 彼が言うと、塔の魔女は噛み合わない歯を必死に噛み合わせながら、震えた声で答えた。


『も、勿論、知っている。竜の中には魔法を使い、人間に化け、更に人間と同化するものまで居るという。

 同化は知らないが、人間に化ける竜には心当たりがある。人化後も……、竜の臭いや気配は変わらないし、立ち位置を変えることもなかった。けど、お前は違う。竜の臭いも気配も消して、人間の社会に溶け込んでいる。……誰かと契約しているわけでもなさそうだ。野生の竜? ――にしては魔力が高すぎる。異常なくらい高い。お前は一体、何者なのだ』


 塔の魔女が言葉を紡ぐ度に、彼は興奮した。

 嬉しくて嬉しくて堪らなくなって、とうとう声に出して笑い始めた。その笑いに、塔の魔女は益々怯え、背もたれに身体を押し付けている。


『若く美しい塔の魔女。お近づきになれて幸い。けれど残念だ。私には名乗るような名前がない。本来の姿を見せたいところだが、それではこの塔どころか街まで壊れてしまう。今はご挨拶まで。目覚めたばかりでなにぶん、世界に馴染まないのでね』


 紳士に行かなくてはと、彼は思った。

 だから出来るだけ丁寧に会釈して、ニッコリと笑って見せた。

 なのに塔の魔女は、血の気の引いたような顔をして、呆然と彼を見つめている。


『白い……竜か』


 塔の魔女の一言に、彼の血は沸き立った。


『分かるのか? やはり、塔の魔女には何か感じるものが?』

『わ、私は記憶の中の塔の魔女に、白い髪の男を待つようにと……。白い竜は、白い髪の男に化けて現れるはずだと聞いたのだ。お前は……、白い髪を、していない。お前は、お前は本当に……』


 歓喜のあまり両手を握りしめていた彼は、そのまま床に崩れ落ちた。

 頭を抱えた。

 人間の皮を……、ようやく手に入れたはずだったのに。忌み嫌われた白い髪と赤い目から、やっと逃れられるのだと信じていたのに。


『ど、どうした……。私は、何か間違ったことを……』


 突然倒れ込んだ彼に、塔の魔女は慌てて駆け寄った。

 気は強そうだが、慈愛に満ちた魔女のようだ。

 彼は顔を上げて、魔女に小さく頭を下げた。


『と、取り乱した。悪かった。……あの姿は捨てたのだ。一つ、聞きたい。お前は覚えているのか? ――約束を』


 すると黒い塔の魔女は、困ったような悲しそうな顔をして、彼を見るのだった。


『ああ。知っているとも。だから今、困惑しているのだ。塔の魔女である私と、黒髪の救世主、そして白い髪の男の姿で現れる白い竜。その三人が集まって儀式をする必要があるのだと、私は初代の記憶で知らされている。お前は何故そんな姿で現れたのだ。私の代では、儀式は行えないと、真の平和は訪れないという事なのか……?』

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