10. 一線を越える
孤独な戦いがいつまでも続くわけもなく。
人間達に追われたように、ドレグ・ルゴラは森をも追われることになる。
彼の記憶に入り込んだ僕は、その哀れな姿を少し俯瞰するように体験していた。
名前のない白い竜だったドレグ・ルゴラと、僕との距離が少しずつ遠ざかっていく。
僕は僕であって彼ではないと、ハッキリ思えるようになってきたからかも知れない。同じ白い竜で、同じように孤独を感じ、疎外感に打ちのめされていた僕は、彼の記憶を追体験しながら、彼と同じ苦しみを味わっていた。それが、少しずつ変わってきた。
味方が一切存在しないドレグ・ルゴラは次第に弱った。炎を吐き続けるために、手当り次第獣を食い、竜を食ったが、魔力を帯びた人間程は栄養効率が良くなかった。何より、彼の身体は既に、人間達との戦いで傷付き、弱り果てていた。
無理をしてまでドレグ・ルゴラは必死に戦い続けたんだ。
存在を認めて欲しくて。
存在を許して欲しくて。
『可哀想に』と手を差し伸べたグラントも、『解き放て』と叫んだニールも、『絶望を終わらせたい』と泣いた初代塔の魔女リサも、彼の前で息絶えた。
その後、彼の心に語りかけて来る者は現れていない。
孤独な白い竜は、攻撃から逃れるために人間の姿に変化して、竜達の前から姿をくらました。
『どうして誰も僕を分かってくれない……? 僕が何をした。生きたいと願っただけじゃないか。生きるために食った、壊した。それの何が……!!』
森の中を駆け抜けていた。
木の枝や幹、蔓や蔦に引っかかりながら、とにかく必死に駆け抜けた。
『どこに行けば僕は生きることを許されるんだ。町もダメ、森もダメなら、あとは……』
視界が明るくなっていく。
森を、抜ける。
地平線がはるか向こうに見えていた――。
・・・・・
――グチャッと、何かを噛み砕く感覚で我に返る。
口の中に中毒性のある甘い香りが広がって、例えようのない満足感と背徳感が僕を襲った。
断末魔の叫び声が口の辺りから聞こえてきて、それが何か確かめたかったのに、白い竜の身体はそれを許さなかった。貪り食った。血の味だ。魔力を帯びた人間の血と肉の味。そして、湖の黒い水の生臭さ。
何が起きているのかなんて、言われなくても分かってる。
暗黒魔法に意識を奪われていた間に、僕はどうにかして蝶の女王を捕まえて、頭からガブッと食ったんだ。
……人間の、血肉の味を、覚えてしまった。
グチャッ、グチャッ、バリバリッ。じゅるるっ。
や……、やめろ。何やってんだよ……!!
頭ではダメだと分かっているのに、僕の白い竜の身体は人間の血肉を欲していた。
暗黒魔法と黒い水に冒されたローラの身体からは、ずっと美味そうな臭いがしてた。我慢しながら戦った。魔物に成り果てていたはずなのに、血も、肉も、白い竜の記憶で知ってる味がした。これまで食べたどんな料理よりも美味かった。我慢した甲斐があったと、心から思ってしまった。
空の上、邪魔するヤツは誰もいない。それをいいことに、僕の身体は、本能は、魔物化したローラを餌とみなして食ったんだ。
やめなきゃ。やめなきゃ、こんなこと。
食べるなんて。人間を食べるなんてどうかしてるって……!!!!
「ぐふぅ……」
僕はグイッと顎を上げ、大きな竜の口に蓄えたものを、ぐびぐびと全部喉に流し込んでいた。
溢れ出した血と黒い水が混ざって僕の口の周囲を汚していく。
凄く……、美味い。身体が火照る。
もっともっと、食べたくなってる自分に気付く。
違う。僕はドレグ・ルゴラじゃない。人間の血肉なんて欲してない。僕は決して、そんなもの、望んで食べたりしないんだよ……!!
「があ゙あ゙あ゙ああぁぁぁああぁあぁ……!!!!」
吐き出そうと思ったところで腹の中。
僕は一線を、越えてしまった。
また一歩、人間から遠ざかった。
早く……、早く杭を壊さないと。理性が少しでも残っているうちに、さっさと残りの二本も壊して、そのまま人間の住む都市部から離れないと。
「ハァ……、ハァ……」
必死に息を整える。
目からだらだらと、涙のようなものが溢れ出している。
「無理だ……。もう、本当に、無理だ……」
この瞬間、僕は間違いなく人間にとって最悪の脅威になってしまった。
こんな邪悪な、血に飢えた化け物は、少しでも早く消え去るべきだ。
ぎりりと歯を噛んだ。全然、気持ちが落ち着かない。興奮状態が続いて、このままだとどうにかなってしまいそうだ。
落ち着かなきゃ。どうにかして落ち着かなきゃ。
「――鎮静剤」
僕はハッと思い出して、急いで地上に向かった。
高速で竜化を解く。白い竜の化け物を、これ以上人間達に見せるわけにはいかないと思った。急降下しながら徐々に身体を縮め、地上に降りた頃には半竜の姿にまで戻っていた。
ズサッと、地面に足を着く。竜の鱗が剥き出しの、鋭い爪が生えた足。靴は履けそうにない。せめて身体だけはと、急いで服を錬成し、ゆっくりと立ち上がる。
杭の跡地には、ぽっかりと大きな穴が開いていた。
僕は穴の縁に立ち、ブンブン頭を振り回して周囲の様子を確かめた。
爆風で吹き飛ばされ、周囲は真っ平らだった。散り散りになっていた神教騎士や市民部隊、竜騎兵達は僕の存在に気づき、一斉に声を上げた。
「か、神の子……!!」
「うわあぁっ!!」
蜘蛛の子を散らすように、周囲にいた人間達が逃げていく。
シバの言ったとおり、あちこちでスライムを必死に倒していたようだ。魔法反応がある。
焦げ臭さと埃臭さが入り交じる中に、ぷぅんと甘い香りが漂ってきて、僕はじゅるりとよだれを啜った。
「ヒィッ!! 血……ッ!!」
近くにいた神教騎士の誰かが僕の顔を見て悲鳴を上げる。
こいつはあんまり美味しそうじゃない。美味そうなのは、その奥の……。
「神の子! 無事か?!」
神教騎士団副団長ライナス。
竜が苦手だという彼は、真っ青な顔で僕を見ていた。羽を広げ、尾を上げた半竜の僕は、彼にとって気持ち悪い以外の何ものでもないだろうに、ライナスはなるべく感情を出さないように、僕の方に近付いてきた。
強い魔力。ローラには到底及ばないけど、かなり美味そうな臭いがする。
食べたい……。もの凄く、食べたい……。
僕はごくりと唾を飲み込んで、必死に自分の欲望を制した。
「……ッ!! な、何だその血は。まさか、塔の魔女を」
バクバクする心臓を抑えながら、僕はライナスの顔をまじまじと見た。
「鎮静剤」
「えっ?」
「鎮静剤ッ!! 早く!!!!」
ライナスはハッとして、腰に結わえた道具袋から大きなケースを取り出した。
あの中に鎮静剤がある。僕はズンズン進んで、ライナスの前に立つ。
ライナスは僕が迫ると腕をガタガタさせて、ケースをポトリと地面に落とした。
「アアッ!!」
恐怖の色が強すぎる。
ただでさえ苦手な竜、血だらけで、興奮してる白い半竜が目の前にいる。目はギラギラしているだろうし、息も荒い。口からよだれを滴らせて、明らかに様子もおかしいに違いない。
ライナスはパニックに陥った。
ケースを拾い上げようとするが、思ったように手が動かず、何度も地面に落っことしている。
「副団長、私が」
見かねて別の神教騎士がライナスの落としたケースを持ち上げる。その手も震えている。やっとケースを開けたところで、今度はそいつも、なかなか注射器を持てずにいる。
「貸せ!」
僕はそいつの手からケースごと鎮静剤入りの注射器を奪い取った。
かなりデカい注射器だった。翼竜にぶっ刺すサイズなんだから仕方ないけど、牛乳瓶ぐらいの太さがある。なみなみと入ったピンク色の液体、ぶっとい針。先っちょの保護カバーを外して注射器の後ろを押すと、少し液体が染み出てきた。
人間の致死量を遙かに超える薬剤。二本刺されたことがある。大丈夫だ、死なない。早く刺さないと、僕はまた狂って人間達を。
「――ウアアァッ!!」
意を決し、自分の服を引き千切り、左肩に思いっきり注射針をぶっ刺した。
鱗を避けて、少し内側に刺したつもりだった。
「アアアァ……ッ」
打ち所が悪かったのか、自分で自分に針を刺すのが怖かったのか、最後まで押し切れない。右手が、震えてる。
怖い。怖い怖い怖い。
普通の人間だったら死ぬようなものを、僕は自分で。
「神の子……?」
ライナスが、異常な僕の状態に気が付いた。
口にべったり血を付けて、だらだらとよだれを垂らしたまま、半泣きで注射を打っている僕を、彼は震えながら見上げていた。
「うう……。ぅ……」
恐怖で羽は畳まれているし、尾も地面に付いていた。
時間は掛かったけれど、どうにか一本、無理矢理全部注射し終わって、僕は泣きながら針を引っこ抜いた。
「大……丈夫か……?」
自身も恐怖で腰が砕け、地面にへたり込んで動けなくなっているにもかかわらず、ライナスは恐る恐る話しかけてくる。
「鎮静剤。鎮静剤を……、もっとください……。僕はもう……、人間を、食べたくない」
ボトンと、空の注射器が地面に落ちた。
涙とよだれで顔はぐちゃぐちゃだ。
今までもたくさん酷いところを見せてきたけれど、今日のこれは、多分今までで一番酷い。
「わ、分かった。鎮静剤だな」
ライナスはまだ震えの止まらない手で懐から携帯端末を取り出した。怯えながらも冷静に、どこかに連絡を取ってくれた。
「ライナスだ。神の子に、鎮静剤を。早く。……既に一本打った。――うん、うん。了解。あ、見えた。ありがとう。念のため、もう数本」
恐らく電話の相手はフラウ地区のバスの中にいる誰かで、僕が地上に降りてきた段階で、鎮静剤を持った誰かがこっちに向かってくれてるって事だろう。
「神の子。大丈夫か」
ライナスは震えながらも必死に立ち上がり、僕を励まそうと手を伸べてきた。
「触るな!!」
僕は叫び、ライナスを威嚇した。
「触るな! 近付くな! お願いだ……。もう、誰も、傷付けたくないんだって……!!」
どうしたら良いのか、分からなかった。
鎮静剤が効き始めるまでには少し時間が要るはずだ。
頭の中はカッカしていた。
興奮状態が続いて、まともに物事が考えられなくなっていた。
僕は、ライナスを襲いたくなる衝動を抑えるので精一杯だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます