7. 最後ぐらい

 美しかった白い肌はそこにはなかった。

 闇のように黒光りする硬い皮膚に覆われた顔のない人間の身体に、真っ黒い蝶の羽を生やした化け物が僕を見下ろしていた。

 陽だまりのような色をした美しいドレスは跡形もなく、鎧のような装甲が身を覆っている。

 兜の下から長く伸びた髪の毛は、唯一塔の魔女の金髪のままだった。

 羽には美しい文様があったが、その縁からはポタポタと黒い水が垂れている。

 あの湖の水だ。僕は咄嗟に思った。独特な生臭い水。必死に輝き続けていたローラには似合わない、汚れた水。

 どこから発しているのか分からないくらい高い声でそいつは鳴いた。


「ローラ……」


 思わず声を掛けたが、もう返事はなかった。

 彼女が必死に積み上げていった功績も、資格がないとどこかで知りながら繕ってきた真珠色も、跡形もなく消えていた。


『魔力値がヤバい……。タイガを超えてる……!』


 瓦礫の隙間に隠れていた二号から、レンの声がする。

 数字はもちろんだけど、巨大化していない状態じゃ、蝶の女王の方がずっと大きい。こんなもの、どう倒せば良いのか……。

 女王はのっぺらぼうの顔を僕に向け、キリキリと変な音を立てた。喋っているのか、それとも何かが軋む音なのかさえ分からない。

 ――と、女王の腕がスッと上がり、手のひらが僕に向いた。

 途端に、激しい突風が巻き起こる。


「ぐわ……ッ!!」


 吹き飛ばされる……!

 羽を畳んで前屈みになり、両腕で顔を守って必死に耐えた。ズズズズズッと、足を踏みしめどうにか回避。

 間髪入れず、今度は光弾がシャワーのように飛んでくる。慌てて魔法のシールドを張るが、一発一発が思いの外強いらしい。急ごしらえのシールドに穴が空き、幾つか食らってしまった。

 何だ今の。

 瓦礫が舞い上がって、周辺住宅の窓ガラスが何枚と無く割れていた。人的被害はないか。思わずあちこち確認してしまう。


『……アレ? もしかしてタイガ、正気……?』


 レンが気付いた。

 マズい。うっかり被害状況が気になってしまった。

 頭のおかしくなったヤツがそんなこと、気にする必要なんかないはずなのに。


『何、レン。タイガが正気であんなことをしてるとでも言いたいの?』

『だってビビ、塔の魔女が石柱に触れてから先、動揺したような仕草を。何の意図か、シスター長の魔法も防いだ。どうなってんだ?』

『全然分からない……。あんな目つきのタイガ初めてだから、おかしくなったと判断したんだけど。数値も……、前に暴れたときと同じくらい振り切れてるじゃない』


『そもそもここ数日、タイガの様子はおかしかった。制御装置は要らないとか、誰にも心を開かないとか。思い詰めてたのはまさか……、竜化せずに杭を壊すことじゃなくて』

『も、もしかしてレンは、タイガが最初から二本目の石柱に向かうつもりでいたって言いたいの?』

『い、いや。考えたくはないけど、あくまで可能性としてはあり得るんじゃないかって……』


 困ったな。このまま誤魔化し続けるか……、それとも。

 頭をブンブン左右に振って、邪念を払う。

 気にするな、バレるとかバレないとか。やることは変わらない。

 そうやって僕が迷っている間に、蝶の女王はバッサバッサと大きな羽をはばたかせ始めた。


「ウウッ!!」


 埃が目に入る。慌てて両腕で顔を隠す。


「きゃあああッ!!」

「おわぁっ!!」


 遠くの方で風に飛ばされる人間の悲鳴が聞こえる。

 飛んできた瓦礫で民家の壁があちこち壊れた。街路樹がしなり、激しく左右に揺れている。

 なんて風圧だ。羽の面積が広い上に、蝶のそれじゃない、かなりしっかりとした分厚い羽なんだ。巨大な団扇で仰がれるみたいな……!!


「キィエァァァアアァァ……ッ!!」


 女王が奇声を上げた。

 ふと、真っ黒いシルエットが少しずつ浮いているのが視界に入った。

 バサッ、バサァッ、バサァッ、バサァッ……。

 蝶の女王は大きな羽をはばたかせ、徐々に身体を浮かせている。

 ヤバい、逃げられる。咄嗟に僕も飛ぼうとするが、羽の風圧に負けて上手く上昇できない。

 と、宙に浮かんだ女王の羽から、鱗粉のような物が大量に撒かれている。


「うわっ!」


 ビチョッと僕の身体にも、撒かれた何かがくっついた。

 ばっちい。

 何だコレ。水か。白い竜の鱗の上に、墨汁みたいな黒い水が。


「キャアアアァッ!!」


 誰かの悲鳴。

 瓦礫の隙間、民家の壁、道路、ありとあらゆるところに飛び散った黒い水が、うねうねと動き回っている。

 湖の……、黒い水!

 そうだ、女王の羽から滴り落ちているのを見た。撒き散らしてるのか……!

 慌てて周囲を確認する。女王が動く度に飛び散っていた水が少しずつくっつき合って、スライムだと認識できる程にまで大きくなった個体があちこちに。

 空は……、曇天だ! 日の光が弱い。このままくっつき合ったら、ダークアイに!!


「クソがァッ!!」


 うっかり聖魔法を使えるイザベラを逃がしたばかりだ。

 光か炎だ。

 黒いスライムの弱点属性。弱らせた後で聖魔法。

 光か炎で広範囲に散らばったヤツらを早めに焼き尽くさないと、もっと面倒になる。攻撃とスライム殲滅、一気にやるしかない!!


「はああああぁああぁあぁ……ッ!!!!」


 右手を高く掲げて魔力を集中させ、そのまま――上空の蝶の女王目掛けてぶん投げる!!

 ドオォォォ……ン!!

 地鳴り。

 思ったよりも派手に周囲が吹き飛び、僕はウッと肝を冷やした。半径数百メートルがまっ更になった。

 ヤバい。

 黒いスライムだけ燃やせば良かったのに、何だこの力。暗黒魔法を浴びて、前より魔力が強くなってる。うっかりすると街を全部破壊してしまう……!


『タイガ! やり過ぎだ!!』


 どこに隠れているのか、二号からレンの声。


『悪者ぶるのも大概にしろ! 闇雲に魔法撃ちやがって!! 肝心の塔の魔女には傷一つついてないぞ!!』

「うう……っ」


 上空を見やる。確かにレンの言う通り、蝶の女王はかなり高い所まで飛んでしまっていた。

 杭の亀裂も大きくなった。今の魔法の影響で。


『何を気にしてるんだ。シスター長とリサを突っぱねてまで、化け物になった塔の魔女を自分ひとりで倒そうとしてるんじゃないのか?!』


 お見通しか。

 僕はぎりりと奥歯を噛んで、深く息をついた。口からは相変わらず炎が漏れた。

 ひとりで……、やんなきゃならないのに。

 弱ぇ。

 力の使い方もまだまだ分かんないし、救うと守る、倒すが同時に出来ない。空回りする。

 呆然と立ちすくんでしまった。

 イザベラみたいに聖属性の魔法を持ってたらどうにかなったかも知れなかった。あいにく僕もこの化け物も闇属性だ。同じ属性なら、圧倒的に強い力で仕留めた方がいいに決まってる。けどそれはつまり、このままの姿じゃ倒すのは無理って訳で。

 クッソ! 絶対に巨大化しないって決めてたのにコレか……!!


「……独り言」


 肩で息をしながら、僕はボソリと呟いた。


「これは、独り言。……どんなに頑張っても、今の僕じゃあ、地上の人間を守りながら蝶の女王の化け物を倒しつつ、杭の暗黒魔法を受け止める事が出来ない。今回は理性を保ちたかったから、完全な竜化は避けて必死に耐えてきた。だけど、相手が悪かった。僕が……、責任持って仕留めなきゃなんないのに。僕のせいで化け物になったんだから、人間なんかに倒させる訳にはいかないってのに。このままじゃ、勝てない。竜に……、なるしかない。竜になったら、また理性が吹っ飛ぶはずだ。暗黒魔法を追加で浴びたら、尚更。……空の上に行く。そこで竜化して蝶の女王を倒す。地上の方を頼みたい。女王が羽を動かす度に、例の湖の黒い水が飛び散って黒いスライムが湧く。この周辺のスライムは今焼き切ったけど、あんな高く飛ばれたんじゃ、どこまでスライムが散ってるのかも分からない。今日は天気が悪いから、スライムは増殖してダークアイにまで成長する可能性がある。早く仕留めないと広範囲で被害が出る。まだ小さい個体のうちに強い光か炎で炙ってから、聖魔法で一網打尽にすれば良い。リサが倒し方を知ってる。イザベラの聖魔法があればどうにかなると思う。――非力な神の子で……、ごめん。僕のせいで何もかもめちゃくちゃだ。最後ぐらいカッコよく決めたかったのに。ホント、ざまぁない」


『……最後? 何だよタイガ、最後って』

「鎮静剤、用意してあるよね。暗黒魔法浴びた後、何本か打って貰いたい。タイミング見計らって地上に降りると思うから、よろしく頼むよ」

『どういう事だよ……! アレはそういう使い方をするもんじゃなくて』

「全部、壊す。今日で都市部の杭は全部」

『ば、バカ言うな!! 石柱一本でもこの有様なのに、二本目でも止めたいのに、全部って……!』


「今日まで、ありがとう。ひとりひとりに挨拶もしないで、ごめん。聞き分けのない悪ガキで、ごめん。期待に応えられなくて、ごめん。……弱くて、ごめん」

『タイガ……!! 謝るな。謝るなよォッ!!!! ヤバいよビビ! 止めないと。タイガを、止めないと!!』

『そ、そんなこと私に言う?! どどどどうすんの』

『の、残り二本の石柱付近にも避難命令出してもらおう! それから……』


 レンとビビが混乱してる。

 ごめん。本当にごめん。

 ぎゅっと拳を握って、それから深呼吸。魔力を高めていく。

 二号の警報が再び鳴り始める。


『タイガ!! 君、どうするつもり?! まさか教会に戻らないつもりじゃ……!』


 ビビの質問には答えない。

 蝶の女王を見上げ、叫ぶ。


「――ダァアアァァアアアアアァァ……ッ!!!!」


 ズンッ。

 身体が地面に沈む。

 思いっきり、地面を蹴り上げ空へ向かう……!!


『タイガァあああああああ……ッ!!!!』


 レンの声が急激に遠ざかった。

 目線が高くなる。民家の屋根を眼下に、マスコミのエアバイクとドローンが視界を掠め、マンション群を抜き去り、どんどん高く、高く。

 魔法の力を乗せて飛び上がりながら、僕は徐々に竜化した。全身を鱗が包み、服が破け、巨大化する――!!


「グォオオオオォォォォオォォ!!!!」


 メキメキと身体が軋む音と感触。

 高く飛べ!!

 巨体を浮かせて、高く、高く。

 蝶の女王が待つ上空へ――!!!!

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