10. 優しい嘘

 雷斗の涙が乾かないうちに、来澄の家に着いてしまった。

 三階建ての、大きな家だ。ちょっとした庭じゃなくて、ちゃんとした庭がある。生垣の内側に、鉢植えや盆栽が並んでいるのが見えた。手入れも行き届いてる。


「凄いところに住んでるんだね」

「凄くねぇよ。別に。じいちゃんばあちゃんと同居するために建てた家だから。昔の家は狭いのと、老朽化が酷いらしくて。オレはあっちの雰囲気が好きだけど」


 老朽化してても、そこに凌の思い出があるから、あの家はそのままにしてあるみたいだった。

 あいつは家族の記憶の中で、今も生き続けている。

 ふと窓の方を見ると、中から中学生くらいの女の子が覗いていた。僕の視線に気が付いてシュッとカーテンが閉じられた。中からドタドタと足音がする。


「とりあえず、中入ろうぜ」


 案内され、僕は雷斗とともに玄関へと向かった。


「ただいま」


 雷斗が横開きのドアを開けると同時に、


「大河君? 本物?」


 女の子の声が僕を迎えた。

 玄関先に立っていたのは、薫子と同じくらいの歳の、大人しそうな子。

 雷斗に、凄く似てる。


「あ、うん。本物」

「やった! やっと会えた! お父さん、お母さん、大河君来たよ!!」


 まるで有名人がやってきたみたいなはしゃぎようだ。


「椿……、だよね?」

「やった! 私の名前、覚えてくれてた!」


 雷斗の妹・椿は、確か僕の二つ下。薫子と同学年のはずだ。


「お兄ちゃんのこと助けてくれてありがとうって、ずっと言いたくて。入って入って!!」


 椿は雷斗を押し退けて、僕においでおいでした。


「椿、大河が困ってるだろ。大河、上がれよ」


 わざわざ妹のセリフに口を挟む辺り、いかにも“お兄ちゃんっぽい”なと感心していると、


「凌君……?」


 玄関先にやってきた女性が、僕をそう呼んだ。


「里奈……、さん?」


 雷斗の母親。

 両手を口に当てて、言葉を詰まらせている。

 更に伯父がやってくる。


「大河、よく来て……。あれ? 凌?」


 来澄の伯父まで困惑して、顔を青くしてしまった。


「ほら、似てるんだよ! 髪の毛黒い時は、凌叔父さんにそっくり」


 雷斗はあははと笑ったが、なんだか微妙な空気が流れていた。困惑の色を見せる大人達に、椿は首を傾げている。


「一瞬、凌が帰って来たのかと。……髪、染めたのか」


 伯父は明らかに動揺している。

 頭の中で何度も『あれは大河だ。凌な訳がない』と繰り返しているようだ。

 もう、凌に対する黒い感情は見えなかった。三年前の出来事が、間違いなくいい方向に転がっていることが実感できてホッとする。


「髪と目は、事情があって色を変えてます。そんな似てますか」

「あ、あぁ。高校生の頃の凌にそっくりで。こんなところじゃ何だ。中入れ。じいさんばあさんも待ってる」

「ありがとうございます」


 表も庭も綺麗だったけれど、来澄の家は玄関も綺麗だった。ウチの母さんみたいに取り急ぎ頑張って綺麗にした感じじゃなくて、普段からこうなんだろう。下駄箱の上に置かれた花瓶と小さな盆栽、額に入った切り絵が違和感なくそこに居座っていた。

 茶の間に通されると、既に昼食の準備がしてあった。

 入り口付近で雷斗と共に正座して待っていると、別の部屋から老夫婦が伯父に連れられてやってくる。


「大河、お前のじいさんとばあさんだ」


 白髪交じりの二人は、僕を見つけるなり、


「凌……!」


 やっぱり、そう呼んだ。

 何度目かの反応にそろそろ諦めも付いていたところだったが、そこから先、様子が違ったのには少し戸惑った。


「元気だったか、凌。ずっと心配してたんだ」


 祖父はガクンと膝を落とし、しわだらけの両手を伸ばして感極まったように涙を浮かべている。膝を畳にくっつけて、擦るように僕に近付いてくる。

 雷斗が慌てて前に出て、祖父の前を遮った。


「じいちゃん、凌叔父さんじゃなくて大河だよ。ごめん大河。じいちゃん、ちょっと認知症で」


 だけれど祖父は、雷斗を振り切って僕の真ん前までやって来た。


「嫁さんは元気か。大河は大きくなったか」


 僕の手を無理矢理握ってくる祖父の目に、僕は凌として映っている。

 凌が自分の正体を明かした日、どうしてこうなったのかと悩んだこと、凌が選んだ道ならと祖母と語り合った様子が、僕の頭の中にどんどん雪崩れ込んでくる。

 祖父の記憶は十三年前、僕が養子に出され、凌が消えた辺りで止まっているようだった。


「元気だよ。大河も、大きくなってる」

「大河お前」


 雷斗は僕を止めようとした。

 祖父のすぐ後ろで、祖母もあたふたしている。孫を息子と信じ込んでしまっている祖父を、止める手だてはないのだろう。

 部屋の隅にいる伯母の里奈も、椿も、家人の前では日常になっている祖父の認知症に、半ば諦め顔だった。

 けれど、僕はそのまま話を続けた。


「ただいま。ちょっとだけ帰ってきた。親父もお袋も、元気そうで良かった」


 確か凌は、祖父母をそう呼んでいた。

 凌なら、そう言うんじゃないかと思った。

 みんな、息を呑んでいた。

 祖母も伯父も伯母も、雷斗も椿も、認知症の祖父と僕のやりとりを、固唾を呑んで見ていた。


「そうかそうか。仕事はどうだ。忙しいか」

「うん、まぁ」

「俺には分からんが、本当にお前で務まってるのか」

「大丈夫だよ。上手くやってる」

「戻れるなら戻ってきてくれた方が。そんで、親子三人でまた暮らせば良いだろ。芳野さんも心配してるはずだ。せっかく親戚になれたのに、こんなことになって。何度頭を下げたか」

「――お寿司! お寿司食べましょう。ね、お父さん」


 祖母が見かねて祖父の肩を叩く。

 祖父はハッとして祖母を振り返り、それからテーブルの上の寿司桶を見て、おっと目を丸くした。


「凌、寿司だって。寿司」


 にこやかに笑う祖父に、僕はうんと頷くしかない。

 祖父は立ち上がり、早速席について箸を取っている。祖母はその隣に、優しく寄り添っていた。

 伯父はやり取りを最後まで見て、ハァと長く息を吐いた。


「悪いな、大河」

「いいよ、大丈夫。今日一日、凌でいた方がいい?」

「いや、流石にそこまでは」

「――凌! 寿司食え! マグロとエンガワ、好物だったろ。食え食え!」


 祖父はマイペースだった。


「ありがとう。今行く」

「大河、お前」

「じいちゃんの前では凌でいるよ。あんなに嬉しそうなじいちゃん、久しぶりなんでしょ。僕には、これくらいしか出来ないから」


 席を立ち、僕は祖父の前の席に座った。


「ゆき子、ビール! 凌に出してやれ」

「あ、お茶で。お願いします。未成年なんで」


 祖父は始終喜々としていて、そんなに要らないのに、頻繁に僕にお茶を継いだ。

 祖父にガンガン渡される寿司を、僕はせっせと口に運んだ。

 久々の寿司は美味かった。

 少しギクシャクとはしていたけれど、来澄の家の人達も沢山笑顔を見せてくれた。


「おい凌、食、細くなったんじゃないか」

「いや、じいちゃん、大河めっちゃ食ってるぜ?」


 雷斗が思わず突っ込むくらい、祖父は上機嫌だった。

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