3. 大伯父の苦悩

 大伯父・芳野泰蔵は少し白髪の交じった頭を僕に下げ、しばらく両手を離さなかった。

 彼の鶯色に、じんわりとオレンジ色が滲んでくるのを見て、本当に僕のことを待ちわびていたのだと知る。

 数十秒そのまま、時折手を震わせながら握り締めた手を、大伯父はようやく離し、顔を上げた。


「陣、ありがとう。席を外してくれ。二人で話がしたい」


 大伯父は陣の方を見ていなかった。


「分かりました。僕はこのまま戻ります。大河、君も終わったら戻るように」

「そうする」


 互いに目を合わさず、素っ気なく返した。

 社長室から陣が出ていくと、大伯父はゆっくりとドアを閉めて、僕と二人きりになった。

 手招きされるまま、僕は応接コーナーのソファに座り、大伯父と向かい合わせになる。


「君とは、会えないと思っていた」


 大伯父は背中を丸めて僕を見ていた。


「同級生の芝山君と養子縁組の話をしていると美桜に聞かされたときも、私は反対しなかった。……できなかった。異世界なんかに足を突っ込んで、支離滅裂な言動を繰り返していた二人を、私は激しく罵った。今でこそ、陣郁馬とは気の知れた仲だが、私は彼のことも、頭のおかしい少年だと何度も突っぱねた。本当に、申し訳ないことをした。今更謝ったところで、美幸も美桜ももういない。もっと早く、理解すべきだった」


 美幸は美桜の母親、僕の祖母だったはずだ。

 大伯父の目には、若かった祖母・芳野美幸の姿が映っている。清楚な少女。美桜に似た髪の色。とても、大事に思っていたようだ。


「大体の話は、陣から聞いている。君は今、どうにかして異世界からこちらにアクセスしている、ということで良いのだな」

「そうですね。大体、合ってます。今は陣と同じように、僕の本体は異世界レグルノーラにあって、こっちの世界で身体を具現化させている。説明しても、理解は難しいと思うから、そういう認識で良いと思う」

「……父親似かな。美桜はもうちょっと、明るい髪をしていたし、目の色も特殊だった」


 大伯父は、美桜の顔を思い浮かべている。

 まだ幼かった美桜は、大伯父が嫌いだった。いつも、睨まれていたようだ。


「僕も、同じ色だった。ちょっと訳があって、今は色を染めてるんです。刺激したら悪いから」

「刺激?」

「時間もないから、細かい説明は端折ります。それより、薫子のことは」


 言われて、大伯父はアアッと声を上げた。


「そう、時間がない。三十分なんてあっという間だろう。このあと、会議が控えてる。――薫子にも、君達と同じような力が発現した。昨日、急に君を襲ったのだと陣に聞き、肝が冷えた。あの子は、手に負えない。美幸や美桜とはまた違う危うさがある」


 大伯父は申し訳なさそうに頭を垂れ、額に手を当てて汗を拭った。


「甘やかして育ててしまったようで、私の言うことは聞かない。陣にもお願いしたが、悪魔がどうの……、夜な夜な出かけては暴れ回っているのだと聞いた。それなりの力を持つ人間にしか、薫子を止められないだろうと陣に言われた。陣でさえさじを投げたのだ。他に誰か、薫子を止められる人間に心当たりはあるかと聞くと、陣は君の名前を出してきた。今は無理だが、どうにかなるかも知れないと聞き、縋るような気持ちで頼んだのだ。君がもし、こっちの世界に来れるようならどうにかして欲しいと」


 大会社の社長も、人の親か。

 薫子のことは気がかりだが、どうすることも出来ないジレンマに苦しんでいたようだ。


「薫子には、悪魔討伐はやめろと言いました」


 僕が言うと、大伯父は顔を上げ、少し表情を明るくした。


「日常を大切にしろ、君には未来があると。けど、薫子には響かなかった。もう少し、恐怖でも植え付けた方が良かったのか。怖くて、二度と近付きたくない、普通の中学生に戻った方がいいと思い知らせてやった方が良かったのかと、悩みました。トラウマになったら可哀想だし、あまりやりすぎは良くないんだと思ったので、素っ気ない態度で誤魔化しました。僕も、薫子が異世界にのめり込むのは反対です」

「そ、そうか。それなら……」

「薫子は、僕を特別な存在だと思って、妙な憧れを抱いてしまっている」


 ピクリと、大伯父の眉が動く。


「陣が、何十年も掛けてあなたに何を話したのかは知りません。あなたがどんな情報を持っているのかも、知りません。端的に言えば、僕はもう人間じゃありません。あなたの妹、美幸は、破壊竜の子を身に宿した。生まれたのが美桜で、僕はその子どもです。僕にも濃い竜の血が流れている。今はこうして人間の姿をしてあなたと話していますが、その気になれば何もかも壊してしまう、恐ろしい竜なんです」


『確か、十六だと聞いている』


 大伯父の心の声が聞こえてくる。


『薫子と殆ど年も変わらない。なのに何だ、この威圧感は。本当に、美桜の子なのか?』


「薫子は恐らく、僕とまた会いたがる。大伯父さん、許可をください」

「きょ、許可……?」


 大伯父の鶯色が曇り出す。


「薫子は、僕が竜になった姿を見ても、怖がらなかった。攻撃されるかも知れないという恐怖で逃げてくれれば良かったのに、物怖じしなかった。出来れば薫子には僕のことを嫌いになって欲しいと思うし、僕も、出来るだけ関わり合いになりたくない。薫子が僕の前にまた現れたら、僕は本性を曝け出してでも薫子を追い返すつもりでいます。そして、二度とくだらない悪魔討伐などやらないこと、レグルノーラに干渉しないことを約束させたい。許可を。――僕が、おぞましい姿を薫子に晒す許可をください。恐怖で震え上がり、自分の行動の浅はかさを一生後悔するくらいでないと、恐らく薫子は干渉をやめない。悪魔討伐なんて、暇な大人にさせておけば良い。薫子は、中三の大事な時期を、こんなくだらないことに使うべきではないんです」


 大伯父は厳しい顔をして、僕を見ていた。慎重に、僕の言葉の意味を噛み締めているように見える。


「随分過激的なことを言うんだな、大河。確か異世界では、“神の子”と呼ばれているそうだが。さっきから君の発言はまるで、自分を化け物みたいに」

「化け物です」

「まさか」

「僕は、化け物です。薫子は化け物に感化されるべきじゃない。……逃げないで、大伯父さん自ら、薫子と向き合ってください。僕は、薫子を怖がらせることしか出来ないので」


 僕は、努めて淡々と話したつもりだった。

 大伯父は、どこか投げやりな僕の態度に違和感を抱いたようだ。ムッと顔をしかめ、僕のことをつぶさに観察している。


「……薫子が、昨晩、珍しく私に声を掛けてきた」


 前のめりだった身体を起こして、大伯父はゆっくりとソファに身を預けた。


「大河に会ったと。薫子は確かに、君に入れ込んでいるように見えた。いつもとは違う態度に、僅かな希望を見たんだが……、君も君で、かなり訳ありなのだな。陣は、私に理解できそうな部分だけかいつまんで教えていたようだ。さっき、恐ろしい竜だと言ったね。化け物だとも」


 そうですと、僕は深く頷く。


「ゲームやアニメの世界の話だと、以前は思っていた。美幸も美桜も、見えない世界の住人だった。私は、理解の出来ない世界を、どうしても受け入れられなかった」


 ゆっくりと呼吸を整えながら、大伯父は昔話を始めた。

 その瞳の中に、美幸と美桜を、思い浮かべながら。


「当時高校生だった美幸が妊娠したと知ったときから、全てが崩れ始めた。相手は異世界の住人だと聞いて、呆れたのを覚えている。美幸を、散々否定した。大事な妹が、突如穢れた魔物のように見えた。相手が誰にしろ、身体を許したことを、酷く責めた。美幸は十六で美桜を産んだ。子どもが、子どもを育てているような感じだった。片親だし、相手は分からない。美幸は学校を辞め、子育てに専念した。両親は、美幸と美桜を世間から隠した。ヨシノデンキの名前に傷が付くと思ったんだ。私も、同じように考えた。とんでもないことが起きてしまったと、妹と姪のことよりも、ただ芳野家が穢されたのだと、そればかり考えた。美桜は、不思議な子どもだった。相手の心が見えるのか、やたらと察する場面が何度もあった。怒ると辺りで物が落ちたり壊れたりした。超能力のようなものを使えたのかも知れない。詳しいことは、よく分からない。よく分からないことは、気持ちが悪いし、怖いものだ。……私は、美幸と美桜を、理解できなかった」


 そこまで一気に話すと、大伯父はふぅと息をついた。


「理解してやらなければならなかった。もっと早く、話を聞いて、何が起きて、どうしてこんなことになっているのか、一緒に考えてやらなければならなかった。――美幸が、自殺した。何の前触れもなかった。両親は美桜を不貞の子だとして養子に出すと言い出した。可哀想だと思った。私が美桜の親代わりになった。まだ大学生だった私は、美桜とどう接したら良いのか全く分からず、悪戦苦闘した。ただでさえ、子育ての経験もない、パートナーが居るわけでもない状態で、実の祖父母に見限られた姪を、私は一人に出来なかった。家政婦の飯田さんに手伝って貰って、どうにか世話をしているところにやって来たのが陣だった。美桜は特別な子どもだから、理解して欲しいと何度も言われた。理解できず、私は次第に、美桜の世話をしなくなった。飯田さんに、任せきりになった。私は美桜に、優しく出来なかった。異世界とやらの存在と、不思議な力を理解するのに、十五年も要してしまった。……同じ轍は踏みたくない。薫子のことも、君のことも、理解できないような人間ではいたくない」


 大伯父の目は、真っ直ぐに僕を見ていた。


「おぞましい姿とやらを、見せてくれないだろうか」

「え?」

「見えるものしか信じられない愚か者に、どうか、君達が見ているものを、見せてくれないだろうか」

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