9. 書斎の秘密
二階の書斎は、父さん以外立ち入り禁止の秘密の部屋だった。
……なんて、本人は否定するだろうけれど、僕は小さいころからそう認識していた。
土日、平日の夜、空き時間が出来ると、父さんは書斎に籠もった。何をしているのか分からなかったけれど、鉛筆を走らせたり、キーボードを叩いたりしているらしいことは知っていた。夜、トイレに起きると、書斎から明かりと共にそういう音が漏れてきたからだ。
半開きになっている書斎のドアから中を覗いたことがあった。
普段はとても綺麗にしていた。デスク周り、本棚、足元まで、神経質なくらいに綺麗に掃除してあった。
唯一、散らかっていた書斎の中を見たのは、確か、夜中……。
「入っても、いいの?」
手招きされて、僕はちょっと面食らった。
「何遠慮してるんだ。入れ」
父さんに言われ、僕は遠慮がちに書斎に入る。
三畳ほどの小さい部屋だ。パソコンデスク、壁一面の本棚。父さんは部屋の隅から折りたたみの踏み台を引っ張ってきて広げ、そこに座るよう僕に指示した。
部屋は散らかっていた。
白い壁に、手書きの地図のようなものが書かれた紙が何枚か貼られている。デスクの上に積み上げられた、たくさんの古いノート、何かが書き留められた大量のコピー紙。
足元に落ちていた一枚を手に取る。
「レグル文字。あれは夢じゃ……」
「夢?」
「いや、何でもない」
夢だと思っていた。
父さんが書斎で夜な夜なレグル語を書き連ねてるなんて、そんなことあるわけがないと。
「高校の頃から、二十年以上使って色々書きためてたんだ。まぁ、私の趣味のようなものだ」
父さんはデスクチェアに座り、僕の方に身体を向けた。
「高一の春、突然干渉能力に目覚めた。美桜と同じクラスになったのが原因だ。あの頃私は、まだ自分の力では干渉できない、二次干渉者と呼ばれる存在だった」
「二次、干渉者?」
「お前のように自分の力で干渉できる一次干渉者とは違う。一次干渉者の力の範囲内でしか干渉能力が使えない、力の弱い干渉者だ。干渉者同士は反応し合う。美桜の強い力に引っ張られるように、私の力も強くなっていった」
唐突に、父さんは話を始めた。
僕の目を見て。
僕が父さんの記憶の中で、高校時代の美桜を見ていることを許容するように。
「今の力があるのは、ディアナのお陰だと、前に話したな。力を解放して貰うことで、一次干渉者の力を手に入れた。そうでもしなければ、力はどんどん弱まって、レグルノーラとは無縁になっていたのだと思う。怜依奈も、二次干渉者だったんだ。一緒に悪魔を倒したり、穴を塞いだりした。あんなことは二度とゴメンだと思っていたのに、今、再び各所に穴が開き始めた。歴史は繰り返す。誰かが止めない限り、何度も」
父さんは、デスクの上から一冊の古いノートを取り出した。
パラパラとめくり、僕に渡す。
受け取り、中身を確認すると、神経質な父さんの字で文章が綴られている。
「レグル語で書いたの?」
「そうだ。関係者以外、誰にも読まれたくなかったから。独学で、必死に覚えた。古代レグル語も、少しは分かる。古い文書を読むのに必要だったから」
勉強熱心な父さんらしい。
中身は何の変哲もない、レグルノーラの土地と文化についての記述。湖の上に浮いた平坦な台地、都市と森、砂漠のこと。干渉者とは何者か、具現化能力について。
「書物を大量に仕入れて、自分の船に持ち込んでたんだ。――砂漠の帆船。私はそこで、“
父さんの目の中に、帆を張って進む帆船が見えた。シバには、ごろつき共を黙らせるだけの力と、彼らを引っ張っていくだけのリーダーシップがあったらしい。
僕が知っているシバとはちょっと違う。もっと血気盛んで、堂々としている。
「初めて聞いた」
「まぁ、こんな話をしたところで、もう帆船には戻れないからな。先の戦いで粉々に砕けた。持っていた本も、資料も、全部湖の底に沈んでしまった。もう、取り戻せない。残っているのは、干渉のあと、本の内容を忘れないうちにと必死に書き留めたノートだけ。一次資料を失ったダメージはかなり大きい」
そういえば。
リョウゼンも本の紛失を悔やんでいた。干渉者協会の建物と一緒に消えた貴重な本は、もう二度と戻らない。だから、大聖堂に来たんだ。古い本と、レグルノーラに伝わる白い竜の伝説を求めて。
「帆船にあった本の内容、まさか全部書き留めてるの?」
「全部じゃない。要点だけ。レグルノーラの本をリアレイトに持ってくるような魔法は使えなかったから、全部は無理だった。覚えるのにも限界がある。……バカだなって、思うだろ? 当時は本気でのめり込んでたんだ。誰も到達したことのない砂漠の果てに、何らかの希望があると信じて、船を知らせていた。世界の外側に闇よりも深い黒で覆われた湖が広がっていたなんて、微塵も考えなかった。世界の構造を知って、私は自分の浅はかさを思い知らされたんだ」
本を読み、戻っては授業の合間に内容を書き留め、夜中、勉強の合間にノートに纏めていたようだ。
僕なんかよりずっと、とんでもないことをやらかしている。
全然、そうは見えないのに。僕の知らない父さんは、やたらとカッコいい。
「百聞は一見にしかずとは言うが、そもそも知る機会がなければ、興味も湧かなかったのだと思う。干渉能力に目覚めたばかりの頃、フラフラとあてもなくレグルノーラの街を徘徊していた私に、あの男が話しかけなければ、私は一介の干渉者として流されるまま過ごしていたはずだ」
「あの男?」
顔を上げ、父さんを見る。
ふと、鮮明に一人の男の姿が脳内に浮かび上がってくる。
――糸目の、肩まで長い黒髪の男。全身真っ黒で、どこか寂しげな気配を漂わせた、不思議な雰囲気の男。
「彼はキースと名乗っていた。変身術は、彼に教わったんだ。大きな砂漠の帆船を私に融通し、船を操る方法も教えてくれた恩人だ。とても親切な、いい人だった。気さくで、話しやすくて、右も左も分からなかった私にとって、かけがえのない人物だった。尊敬していた。慕っていた。彼が――、破壊竜ドレグ・ルゴラだと知るまでは」
「――はぁ?! な、何だよそれ!!」
僕はうっかり、ノートを床に落とした。
「あいつは! 白い髪で、赤目で、白い服しか着なくて、人間不信で、孤独だったはずだ。第一、見た目が全然違う。黒髪で、青い目で。こんな風に黒い服を着こなすなんて。冗談だろ」
「見えてるんだな。やっぱり」
と、父さんに零される。
僕はこくりと小さく頷く。
「実際、彼がかの竜になるところを見たわけじゃない。来澄に聞いた。お前の頭の中で、ドレグ・ルゴラの記憶が再生されていると聞いて、私は気が気じゃなかった。いずれ、駆け出しの干渉者だった私を見てしまうんだろうと思うと、いてもたってもいられなかった」
「ドレグ・ルゴラと接点があったことを、父さんは悔やんでたの?」
「ああ、そうだ。何も知らずにキースを慕っていた私を――、お前が見てしまうのが怖かった」
人間に
父さんとのことは、その中の一つに過ぎないなんて、言ってもきっと父さんを傷つけるだけだ。僕は言葉を、グッと飲み込んだ。
「……なんだ。そのくらいで、僕が父さんのこと嫌いになるとでも思った?」
父さんは、恐る恐る顔を上げた。
「教えてくれてありがとう。僕が見た記憶の中では、あいつはまだ“かの竜”とも“ドレグ・ルゴラ”とも呼ばれていない。順番に再生されてるみたいだから、父さんが出てくるのは、もっともっと、あとになると思う。でも、気には留めておく」
慰めにもならない言葉に、父さんは肩を落とし、ため息をついた。
「すまないな、気を遣わせて。こんなこと、レグルノーラじゃ話せない。お前の言動は全て録画、記録してあると聞いている。プライバシーもへったくれもない。完全に、化け物扱いだ。それでも……、前を向こうとしているんだから、敵わないよ。来澄もそうだったが、どこからその気力が湧いてくるのか、知りたいくらいだ」
「幽閉されてることや、監視されてることに関しては、別に何とも思ってないよ。そうすべきだからされてるんだろうし。誰かを傷つけてしまうくらいなら、閉じ込められてた方がマシだと思ってるから、従っているまでで。凌も、そういう考えで動いてるはずだよ」
「来澄も?」
「そう。多分だけどね」
歯切れが悪くなるのは、本人から実際に聞いたことがないからだ。
多分、凌も。
僕と同じものを見て、僕と同じ考えに至ってるんだと思う。
そうでなきゃ、僕に杭を壊せなんて言ってこないはずだ。
「私には、来澄の真意が分からない。けど、お前には何となく分かってる。そういうことか?」
「恐らく、そうだと思う」
「そうか」
父さんはふぅと大きく息をつき、頭を数回掻き回した。
僕は、足元に落としたノートを手に取り、サッと目を通した。
鉛筆書きしたのを、赤で何度も訂正してある。資料を読み込んで、内容を修正していったらしい。悪魔のこと、ゲートのこと、詳しくは別冊へと注釈している箇所もあった。
「ずっと考えていた。二人が戦わずに済む方法はないのかと」
読む手を止める。
父さんは、水色を濁らせている。
「そんな方法は、存在しないと思うよ。僕はそのために生まれてきたみたいだし、そういうふうになるよう、ずっと前から仕組まれてる」
「――じゃあせめて、私に出来ることはないのか。もしもの時は止めてくれとあいつに言われていた。私に出来ることなら、何でもやる」
「何でも?」
父さんの目を見る。
良からぬことを考えているらしい。僕は慌てて目をそらす。
「……犠牲になるのは、僕と凌だけで十分だ。父さんは、余計なことはやらないで欲しい」
「余計な、こと?」
「ところで、ここにあるのは帆船にあった本の要約だけ? 塔の蔵書分も、纏めてある? 可能なら、時間まで読みたいんだけど」
「あ、ああ。最近のはパソコンで管理してて。ちょっと待てよ」
デスクチェアをグルッと回して、父さんはパソコンを操作し始めた。
壁に貼られた、レグル語入力用のメモ。フォントから全部手作りしたらしい。ここまで来ると、病気かも知れないと思う。
僕らは冒されている。
異世界レグルノーラという毒に。
「何か、お前の知りたいことが書いてあれば良いが」
「そうだね、期待したい」
きっと、僕のために纏めていたわけじゃないんだろうけれど。
この妙な空気を誤魔化すには、丁度良かった。
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