2. 干渉
病衣からまともな服に着替えるのは久しぶりだった。
いつも着ていた服だとジークに差し出され、僕は首を傾げながらも袖を通した。
濃い色の服。タイガは色の付いた服が好きだったのか。
名前のない白い竜は、色の付いた服が苦手だった。いつも白っぽい服を着ていた。素材そのままの、染めてない服。ゴワゴワして、汚れが目立っていた。年月が経つと、それが元々白かったのかさえ分からなくなった。それでも、色のない服を好んで着ていた。
あいつは、何色にも染まらないつもりでいたのかも知れない。けれど実際は、泥や汗に塗れ、どんどん薄汚れた色に染まっていった。
少し考えれば分かることなのに、あいつは考えることを放棄していた。
自分が恐れられている理由、共存できない理由、この先に待ち構えているだろう未来。
何もかも、最低最悪の結末に進むように出来ていた。
僕があいつでないのなら、僕は、どうにかして破滅の道から遠ざからなくてはならない。
そのために、――全部、思い出す必要がある。
「数値も安定してるし、極端な感情の起伏も少なくなってる。期限も迫ってることだし、やるなら今だと思うよ」
眼鏡のフィルが聴診器を外しながらそう言った。
いそいそと診察用カバンに道具を突っ込んで、よいしょと立ち上がる。
「良かった。じゃあジーク、悪いが手筈通り頼む」
シバが緊張した面持ちで言うと、ジークとリサはこくりと頷いていた。二人とも、いつになく真剣な顔。
用事を済ませたフィルがガラス張りの部屋を出ていってから、僕らはゆっくりと最後の準備に取りかかった。
椅子を二脚並べ、そこにジーク、リサが座る。
シバは座らず僕の隣に立っている。
「場所は、君んちの近くの河川敷だっけ?」
とジーク。
「そうだ。リサが詳しい場所を知っている。私の本体がそこで待機している」
「分かった。何事も起きなきゃ良いけど」
『準備できたら合図して』
頭の上からビビの声が降ってきた。
「大河、どうだ」
とシバ。
「僕はいつでも」
見上げて軽く目を合わす。
「では、私は一足先にリアレイトに戻る。あとは頼んだぞ」
監視カメラの方にシバは軽く手を振った。そしてそのまま、フッと姿が消える。合図だ。
「大河、行くぞ。手を貸して目を閉じろ。僕らが誘導する」
ジークの声に従って、僕はそっと右手を差し出した。僕の手を、ジークが握り返す。その上に、リサが柔らかい手を置く。
目を閉じ、僕はゆっくりと感覚を地面の方向へと落としていった。
徐々に、身体から意識だけが離れていくのをイメージして、深く、深く、意識を鎮めていく。
身体はそのまま。
意識だけが地面の底に。
深く。
どんどん、深く――……。
………‥‥‥・・・・・━━━━━■□
まぶたの裏に、明るさを感じる。
懐かしい臭い。
頬を風が撫でる。湿った風だ。
車の排気音、雑踏の音。
さやさやと川が流れる音。
ゆっくりと、目を開く。
僕の手を握りしめた男の後ろに広がる景色を、僕は食い入るように見た。
涙が、ボロボロと零れ落ちる。
「大河? 君、泣いてるのか」
知らない男が僕の手を握ったまま、もう片方の手で僕の肩を揺すった。
「大河君……? どう、したの」
これはリサの声。
やっぱり僕の方に詰め寄って、不安そうな色をいっぱい漂わせている。
声が出ない。
何かが滝のように、僕の頭を打ち付けてくる。
僕はブンブンと頭を横に振り、目の前の男とリサを振り払った。
「わっ」
姿勢を崩し、倒れそうになる男と、それを支えようとするリサ。
僕はふらふらと覚束ない足取りで草地を踏み、ぐるっと辺りを見回した。
空と、川と、その向こうに広がる街並み。
なんだこれ。
知ってる。
知ってる景色だ。
名前のない白い竜が見ていたリアレイトとは違う。もっと先の時代。
遠くにある高いビル、マンション、排気ガスと川の生っぽい臭い。ぽつぽつと河川敷に置かれたベンチ、自転車、川向こうの土手を歩く人。話し声、笑い声、車の音、自転車を漕ぐ音、足音、鳥のさえずり、たくさんの音が混じって耳の底まで響いている。
――頭が痛い。
ガンガンする。
両手で頭を抱えて、僕は必死に意識を保つ。
僕は、この街を知ってる。
この空気を、この臭いを、この音を知ってる。
「大河!」
ベンチに座っていた人影がヌッと立ち上がって、僕の名前を呼んだ。
眼鏡を掛けた中年男性。細身で、背があんまり高くなくて、ポロシャツを着た男。水色を漂わせて僕の方に駆け寄ってくる。
「だ、ダメだ!!」
僕の口から咄嗟に出たのは、そんな言葉だった。
「ダメ? 大河、どうした?!」
僕の手を握っていた男が、慌てた様子で言った。
「僕はここにいちゃダメだ!」
「どうしたの、大河君。落ち着いて」
リサが僕をなだめようと、手を差し出してくる。
その手を、僕は払った。
「ダメだって!! 帰んなきゃ。こんなところに僕がいたらダメなんだよ。僕はここにいちゃいけない。壊してしまう。壊れてしまう。ダメなんだよ、帰んなきゃ!」
「何言ってんだ、大河、落ち着け!」
「大河君、大丈夫だよ。気配も極端に強まってないし、
「そういう問題じゃない! よく考えてよ。人間じゃないんだよ。化け物だ。化け物が人間の姿になって街に紛れるんだ。そんなこと、許されるわけないだろ! 壊したくないんだよ!! 僕が来たことでめちゃくちゃになったらと思うと、耐えられないんだって!!」
ブオッと、風が渦巻いた。
ほら、思った通りだ。
リサの魔法と、ニグ・ドラコ産竜石の力でレグルノーラから僕の力を押さえたところで、限界がある。
「大河! 落ち着け!! 何してんだ!!」
ベンチのところから駆け寄ってきた男を、僕は知っていた。
「陣、君が急に違う姿で現れたから大河が混乱したんじゃないか?」
「シバ、それはお互い様だろ。無愛想なおっさんが急に出てきたら驚くに決まってる」
「陣だって、前は中学生だったろ。急に年齢上げやがって」
男二人が言い合ってるこの空気も、雰囲気も、僕は前に見たことがあった。
知ってる。僕はこの二人が誰だか知ってる。
知っているから尚更、……苦しくなる。
「帰る。レグルノーラに帰る」
ボソッと僕が言うと、周囲の人間達はピタッと動きを止めた。
「僕みたいなヤツは、干渉なんか、しちゃいけない。僕はもう、この世界とは関係ない。ここに来て何か思い出せば、何かが好転すると思ってた。けど、そんなわけなかったんだ。僕は化け物で、世界を破壊するかも知れない力を持っている。傷つけたくないんだよ。大切なものがたくさんある場所だから」
風が川面を撫で、小さな波を立てる。
「それに、落ち着けなんて言われて落ち着ける程、僕は大人じゃない。帰るべきだ。干渉したところで、リアレイトに来たところで、誰かを傷つけることくらいしか出来ないんだから、帰った方が良い」
そこかしこに、人間がいる。
営みがある。
生きている。
それをどんどん壊して、食い散らかしてきたのが、あの白い竜だった。
そして僕も、あいつと同じ白い竜だ。
「……怖い。壊したくない。僕が育った街を、僕の手で壊してしまったら……、僕は」
「大河……、お前、記憶が」
ドスンと、僕は草地に座り込んだ。
頭がグルグルしていた。
涙が止めどなく出て、鼻水が止まらなくて、しゃくり上げてしまう。
頭を抱えて泣く僕の隣に、父さんが屈んだ。
「ゴメン、父さん。僕は、何をしてたんだ……」
父さんは僕の背中をトントン叩き、ゆっくり擦ってきた。
「思い出したのか」
こくりと頷く。
「河川敷に立った瞬間、何かが降りてきた。リサと干渉の練習をしたこの河川敷が、苦しいくらいにハッキリと見えて。本当に、ゴメン……。何にも、覚えてなくて、みんなを苦しめて」
他の二人も、僕のそばに来て屈む。
「私のこと、思い出した?」
リサが顔を覗いてくる。
「直ぐに僕が情けない顔してるの確認する癖、やめた方が良いよ。あと、セーラー服やめたんだ」
「あはは。癖は抜けないよね。セーラー服は流石に卒業かな。もう、私だって二十歳のお姉さんなんだよ」
三年前、僕がまだ中学生だったあの日。
リサは僕に合わせて中学生の格好をしていた。
今は、レグルノーラの時と同じ格好だ。
「じゃ、僕は誰か分かる?」
と、もう一人の男。
「ジークでしょ。老けてる。何歳設定?」
「現実世界よりは若くしたいから、三十歳くらい? シバよりマシだと思うけどな」
「じゃあ、陣君、じゃなくて陣さんかな」
「陣でも良いよ。凌はそう呼んでた」
ビクッと身体が反応する。
そう、思い出したんだ。
僕が白い竜で“芝山大河”だったことも、あの、杭のことも。
そして、最終的に僕がヤツを……、殺さなくちゃいけないことも。
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