9. 間違った選択肢
五日経った。
付箋の数は日を追う事に多くなった。
次第にガラス張りの壁は付箋で埋まり、向こう側が見えなくなっていく。
通常時でも、部屋の中と外との明暗差で外側は殆ど見えないのだが、こうなってくると外側から部屋の中も見えにくいはずだ。特に、“白い竜”側の壁に付箋が多い。
同じような事柄、関連性などでまとめ、ガラスにも書けるペンでメモを添えた。森での出来事、森の外の出来事、食べたもの、出会った竜や人間、収穫祭のこと。
ウォルターが言うように、いい暇つぶしにはなった。力も心も不安定な僕は、地下施設から出ることを許されなかったからだ。
部屋の天井に仕掛けられた制御装置をフル稼働させ、リサの魔法で僕の竜の力を吸い取り続けることで、どうにか人間の姿を保っていられるのだと、レンが言っていた。ひとたび興奮状態に入ると、僕は自分を制御出来なくなる。全てを破壊してしまえば、また居場所を失う。それが嫌で、ずっと、地下にいる。
人間は代わる代わる僕の所に来て、検査だとかカウンセリングだとか、変な機械を出してみたり、意味があるのかないのか分からないお喋りをしてったりした。その度に思い出したこと、指摘されたことも付箋に書いた。
付箋の文字を読み、更に細かく話を聞いてくヤツ、ただ眺めるだけのヤツ、付箋の貼り方を変えてくヤツ。色々いた。
「これだけ長期間の記憶が流れ込んでいるのに、固有名詞が極端に少ない。ちょっと、異常ですね」
いつものようにウォルターが来て、進捗状況を確認しながら、ぽつりと言った。
竜や人間の名前を目立たせるため、ピンク色のマーカーでチェックしていたようだ。
「自分に付けられた仮の名前は辛うじて幾つか覚えているようですが、自分に関わった者の名前は、殆ど出ていない。名前に対する執着がなさ過ぎます」
「司祭もそう思われますか?」
と、リサ。
「何が起きたとか、どこで起きたとか、色々話してくれるようにはなったんですけど……、村の名前とか、そこにいた人の名前とか、殆ど知らないんです。興味がなかったから、覚えなかったって」
「自分に名前がなかった事が、どこまでも尾を引いてる感じなのでしょうか。自己が確立されている状態なら、呼ばれ方や呼び方について多少の拘りが出ても良さそうなものですが。今のタイガを見る限り、そういったものは殆どありません。自分を特定されることを拒んでいるようにも見えます」
付箋だらけの壁を前に、ウォルターとリサが話している。
僕はベッドに腰掛けたまま黙々と思い出したことを付箋に書き、リサが取りに来るまでベッドテーブルの縁に付箋を貼り続けている。
“長い間同じ姿でいたら、成長が止まっていると思われた”
“旅をしている干渉者に会う”
“ユン”
“ニール”
初めてまともに僕を人間として扱ってくれたニールは、農夫に刺されて死んだ。
もし、農夫がニールを指す前に僕が牛小屋に戻っていたら、何かが変わったのだろうか。
「八割方、白い竜のことを書いている。タイガの欄にある付箋は……、どれも、記憶と言うより彼の習慣についてのことばかり。間違いなく、ベースはタイガですね。リアレイトでの出来事も、圧倒的な情報量に押し流され、今は頭の隅っこに少し残っている程度なのかも知れません」
「大河君は、元に戻りますか?」
「どうでしょう。あと二十日もしないうちに、次の石柱を破壊しなければならないのに、困りましたね。正直、このまま地下に閉じ込めておくのは得策とは思いません。閉鎖空間では考えることも限られてきます。白い竜の記憶によって、タイガがより不安定になっていくことも目に見えています。しかし、外に出してしまえば、力が溢れ出し、竜の姿になってしまうことも分かり切っている。タイガ自身が自分の力を制御し続けられなければ、自由に行動するのは難しいでしょう」
“解き放て”
ニールのあの言葉、僕は自分自身の正体を曝け出してしまえと解釈した。
もし、違う意味だったなら。
ニールはそもそも、僕を人間だと思い込んでいた。
ペンを持つ手が止まる。
「『力を解き放て、ユン。我慢しなくていい。本当の、お前に』」
虐げられていた僕を、ニールは気遣った。良いヤツだった。でも僕は、心を開かなかった。
「誰のセリフ?」
リサが僕のそばに来て、付箋を覗き込んでいた。
「ニール」
「ニール?」
「死ぬ前に言った。僕を、助けようとしていた。人間のクセに」
ニールのセリフを、付箋に続けて書く。
「君は、この言葉を聞いて、どうしたの?」
リサは僕の表情を確認している。
僕は、視線を落とした。
「白い竜になって、村を破壊した。村人を皆殺しにして、みんな食った。農夫も、ニールも、みんな食った」
「それで、大河君はどう思ったの。それが、正しい選択だったと思う?」
首を横に振る。
「思わない。何かが違う。ニールの言葉の意味を、履き違えてる気がする」
目を閉じると、ニールの顔が浮かんだ。
強烈に、記憶に焼き付いている。今までで、一番強烈に。
「ニールは僕を広い世界に連れ出そうとしていた。ただ生き延びることだけを考えて、家畜以下の扱いを受けていた僕を、不憫に思ったに違いなかった。才能がある、優秀だとニールは言った。……褒められたんだ。嬉しかったはずなのに、そこから先、どうしたら良いのか、僕には分からなかった。『我慢しなくていい』と言われて、『本当のお前』と言われて、白い竜の姿を曝け出した」
「……で、食べた。大河君は、本当はどうするべきだったと思う?」
「弔う、べきだった」
大きくため息をつく。
胸糞が悪い。
どうしてあんなことをしたのか、考えても考えても、僕には理解できない。
「ニールをきちんと埋葬して、お別れをするべきだった。農夫のところからは逃げるべきだった。家畜以下の扱いをされたまま、何年も我慢して、収穫祭まで待つ必要なんてないのに、思考が完全に停止していた。小さな世界しか見えてなかったから、食いすぎて人間の数が極端に減らないよう、村の中で身を潜めて、ある程度年数が経つのを待つ必要があったんだ。それがそもそもの間違いだってことに、白い竜は気付いていない。世界は広かった。そんなくだらない方法で餌を確保しなくても良かった。もっと方法があったはずだ。生き延びる方法、生きていく方法。白い竜は全てを拒否した。破壊の道に進もうとしてる。このままじゃ、全部焼かれる。怖い。いつまた人間を襲うのか。今度はもっと大きな町を狙ってる。大量の人間が死ぬ。あの、孤独で哀れな竜を、僕は、どうやって止めたら良いのか、全然分からない……!」
握りしめた拳を、リサの手がそっと包み込む。
僕は少し驚いて、肩を震わせる。
「大丈夫だよ、大河君。君はその白い竜は違う。大丈夫、支える。そばにいる。君の苦しみは完全には分からない。だけど、どうにか君を救いたい人間が沢山いる。卑屈にならないで。大丈夫、大丈夫だから」
「リサ、それくらいにしましょう」
ウォルターが声を掛けてきた。
リサの手が、僕から離れる。
「昼食の時間です。休憩して、また午後からお願いしますね」
「……分かりました。大河君、また後で」
二人がいなくなったあと、“白い竜”の付箋が貼られた壁をぼうっと眺めた。他の壁はスカスカなのに、ここだけぎっしりと天井付近まで付箋が貼られている。
ウォルター以下、ここの人間達は皆、“白い竜の記憶は暗黒魔法によって齎されたもの”なのだと言っていた。僕は、“白い竜の記憶”に呑まれているだけだと。
――いずれ破壊竜となる、白い竜の記憶。
それが本当なのだとしたら、もうひとりの僕でもある、“名前のない白い竜”が辿るのは、更に
だけど、どうしても、過去には思えない。
悲しみや苦しみは色褪せていないからだ。
「僕が、同じ目に遭っていたとして、違う選択肢を辿れる自信はないな……」
もしあの時、ニールの誘いに乗っていたら。
農夫から逃れる未来を選択していたら。
いや、そもそも人間の姿で潜伏するなんて。
森から出なければ。
追い出されるようなことをしなければ良かった。
グラントの忠告を聞いていれば違ったのか。
どこかでチャンスはあったはずだ。地獄から脱するチャンスが。
それを、白い竜は、自らの手で
「僕なら、どうにか出来ただろうか」
こうやって、冷静に考えてみると何となく分かってくる。
“名前のない白い竜”の思考回路は、僕とは違う。
“あいつ”は全てを拒み、全てを恨み、全てを破壊しようとする。それが孤独の原因だと知っていても、そこから脱する手立てを持たなかった。
「“あれ”は僕だけど、僕じゃなかった」
同じ時代、たった一匹しか存在しなかった白い竜は、確かに、もうひとりの僕だった。
共感もした、同情もした。
僕らは同じだった。
だから僕は、その圧倒的な記憶量と残忍さに呑まれ、自分を失っていったらしい。
……信じられるか、そんなこと。
だけど壁に貼られた付箋のひとつひとつが、それを客観的に示している。
手のひらをじっと見つめた。
「同じ白い竜だけど、“あいつ”は竜で、“タイガ”は人間。――そうだ、最初はそんな感じだった。目を覚ましたとき、手が竜になっているか、人間なのかで判断してた。途中でそれも分からなくなった」
混乱し始めたのは、“あいつ”が人間に
目を覚ましたとき、竜の姿でいることがあった。
あべこべになった。
だからどんどん混乱していった。
「僕は……」
何かを、思い出しかけてる。
とてもとても、大事なことを。
頭の中で、黒い水がポコポコと湧くような音を出し始めていた。
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