2. 危険生物
ドタバタと、廊下を走り抜けるリサさんの目線。
『ごめんなさい、私がちょっと休んでた隙に』
『気にしないで、リサ。休まないと保たないもの』
呼びに来た女性と一緒に中庭を走り抜け、祈りの館に入り、地下へ。
階段を降りていくと、天井までガラス張りの部屋が見えた。
『リサ! 早く! 竜化が始まった!』
ガラスの部屋の手前で叫ぶ男性。
急いで部屋に入ると、リサさんは魔力を高め、ブルッと身体を震わした。
意識のない僕。
ゆらりと立ち上がるその身体は、もう、白い竜になりかけていた。
頭は真っ白で、白い竜の羽を広げ、頭に角を生やし、トゲの付いた尾を生やしている。
身体の肥大化が始まっていた。普通の人間より、一回り以上、大きい。
『タイガは眠ってる。呼びかけにも応じない。だけど竜化は始まった。眠りが浅くなってきているのかも知れない』
ガラス張りの部屋に響く、アナウンスの声。
リサさんは胸に手を当て、魔法を発動させようとしていた。
恐る恐る、目線が上を向く。
僕の竜の力を吸い取るために、リサさんは僕の身体に触れなければならなかった。だから、息を整えて、激しくなる心音を聞きながら、そろりそろりと、竜化しかけた僕に近付いていく。
『リサ、慎重に、慎重に頼むよ』
『はい、ビビさん。大丈夫です。いつもどおり』
竜化しかけた僕は、牙を剥き出しにして荒く息を吐いていた。
その呼吸音さえ、もう人間の物じゃなくて。まるで獲物を狙う直前の獣のような。
目は半分開けているけど、全く焦点が定まっておらず、リサさんが近付いても反応がない。
リサさんは間合いを計りながら、ゆっくりと歩を進めた。
息を殺し、そっと僕の腹部に触れる。
竜の力を吸収して――。
『キャアッ!!』
リサさんの叫び声。
目線が揺らぐ。
『リサ!!』
部屋の外側からも声が上がる。
『大河君! 痛い!!』
無意識のまま、僕は両手でリサさんを掴んでいた。
唸り声を上げ、目をギラつかせて。だけど、意識は全然無くて。
『タイガ! リサを離せ!』
『緊急警報、出します!』
『こっちも、出力最大値で行くよ!』
竜化した両腕で掴まれたリサさんの身体は、僕の顔の高さまで持ち上げられていた。
徐々に迫る僕の顔は、人間よりも、ずっとずっと竜に近くて。
パックリと開けた口には牙がぎっしり並んでいた。
よだれを垂らし、鼻息を荒くして、白い竜になりかけた僕は、リサさんを、徐々に口元に――……。
………‥‥‥・・・・・‥‥‥………
「大河君?」
リサさんの声で我に返った。
何だ。
何だアレ。
僕は一体、リサさんに何を。
「見てた?」
リサさんが、僕のそばに寄ってくる。
恐い顔をしている。
杏色の中に、恐怖と怒りと、注意喚起と、警戒。
危険人物だ。いや、人間じゃないんだから、危険生物? 僕は、化け物に。
「思った通り。見えちゃうんだね。隠し事なんかしたって無駄ってことでしょ? で、どうなの。君は、大河君なんだよね?」
わざわざこうやって言葉で僕かどうか確認するってことは、最後に見たような光景が過去に何度もあったってこと。
何度も何度も、僕はきっとリサさんを痛めつけた。
何度も何度も、教会の人達は必死に僕を止めた。
恐かったに違いないのに。
殺してしまいたかったに違いないのに。
それでも僕を生かし続けたのは、あの杭が、白い竜である僕にしか壊せないからであって……!
「泣いてるの?」
僕は、両手で顔を隠してむせび泣いていた。
リサさんの顔をこれ以上見ていられなかったし、一気に流れ込んできた情報も、僕の心を抉っていた。
「泣けばどうにかなるって、まだ思ってる? ねぇ!」
地面に倒れ込み、僕はただ泣くことしか出来なかった。
『……リサ、やめよう。数値も落ち着いてる』
「だけど、だけどビビさん。まだ、彼は自分を大河君だって認めてない」
『もし、タイガがタイガのままだとしたら、心は十三歳で止まってる。十三歳の子どもに、全部受け止めろって突然言っても、理解できないよ』
「そう言われたら、そうですけど」
『気持ちが落ち着いてきたら検査して、それから司祭さん達と話をしよう。これからのこと、真面目に考えないとヤバいんじゃないの』
「はい……、ビビさん……」
リサさんの足音が遠のいていく。
ドアの開く音、閉まる音。
ガヤガヤと響いていたアナウンスが切れる。
ガラスで囲まれた部屋に、僕は一人、残された。
この、整理しきれない心と一緒に。
*
「長期間昏睡状態にあった割には健康体だね。血液検査も異常ないみたいだし。アレだけ竜化を繰り返してても、見た目は本当に、ただの人間なんだよね。凄いなぁ」
聴診器を首に引っかけ、白衣姿でタブレットに診察内容を入力しながら、フィルさんはため息をついた。
リサさんの記憶で見た人だ。
三十代くらいの茶髪の男性で、眼鏡をかけてる真面目そうな人。ラベンダー色の、落ち着いた空気を纏っている。
「聞いた話だと、竜は、空気中に漂う魔法エネルギーを吸収しているらしいんだ。巨体の割に大量の餌を消費しなくても済むのはそのため。魔法エネルギーの乏しい場所では、動物の肉を食うらしいけど、その中でも最も効率の良いのは人肉なんだって。竜が人を喰らうのは、そういう理由らしい。君は生物学的には人間より竜の方に近いのだと思われる。だから、極度の飢餓状態に陥ると、本能が働いて栄養価の高い人肉を食べたくなってしまうんだと思うよ。……って、ああ、しまった。君、眠っていたときの記憶は」
「あ、いえ。大丈夫です。見ましたから」
「み、見た。へぇ……」
ガラス張りの部屋で、ベッドの縁に腰をかけたままの診察。
いろんな機械を当てられたり、モニターを付けられたりして、全身調べて貰った。
声は低くなってるし、身長もかなり伸びてたし、体重もめきめき増えて、もう中学生の貧相なそれじゃなかった。
凌も背が高かった。
背格好が似てると言われれば、そうなんだと思う。
顔も、悔しいくらい似てる。
唯一、ちょっとくせ毛なのは美桜に似たってことか。
「そういうこともあって、殆ど点滴でしか栄養分を摂ってなかった割に、君は順調に相応の成長をしてたってことだろうね」
「はい……」
「それから、君が危惧していた竜石だけど、体内に残留は確認されなかった。塔の魔女が石を埋め込んだってところもくまなく調べたんだけど、やっぱり石なんか残ってない。考えられるとしたら二つ。そもそも、石なんか埋まってなかった。もしくは、何らかの原因があって、石が体内に溶けた。竜石が力を吸収しすぎると壊れる性質があるのは僕らも実験済みだから、恐らくそれかな」
「ハァ……」
合点がいくような、いかないような。
こぶし大の石程度じゃ、僕の力は抑えきれなかったって言うのは、何となく分かるような気はするけど。
「極端な記憶の混濁もないし、精神状態も落ち着いてきてる。普通の生活に戻って大丈夫だと思う。思う、けど。やたらと白い竜に化けられたんじゃ、こっちは保たないから、どうにか制御し続けてくれると助かる」
「ですね、そうします」
意識を失ったのが、十三歳の夏。リアレイトでは七月の中旬だった。
三年と二ヶ月経ったのだとすれば、十月生まれの僕は十六歳十一ヶ月。
高校生の頃干渉者として目覚めたという凌と、ほぼ同い年になっている。
「身元引受人として、ジーク・エクスプレスのジーク社長が名乗りを上げてるけど、合ってる?」
「合ってます。けど、行ったら迷惑がかかるので。それより、僕が眠っていた間に、杭の周辺で色々起きてると思うんです。そっちを優先してください」
「あ、ああ。良いけど」
フィルさんは僕の顔を一旦見てから、ブルブルッとわざとらしく身体を震わせた。
「何か」
「え? あ、うん。えっと……。ほら、眠っていた君のことはずっと見てたけど、こうして目が覚めた君と話すのは初めてな訳で。何だか変な感じがするというか」
「変な感じ、ですか」
「自分が白い竜だってこと、知らずに育ったんだって聞いた。辛かったろう?」
「……はい。そう、ですね。もう、慣れました」
力なく、答えた。
フィルさんのラベンダー色が、少し揺らぐ。
「こんなこと、慣れない方がいい。価値観を歪めて自分を納得させるようなことを続ければ、必要以上に心に負担がかかる。君は君。白い竜として生まれたのは君の意図するところではないのだから、辛い時は辛いと言えばいい」
「……言ったところで、何も変わりません。白い竜が世界を壊そうとしたことも、レグルが白い竜に意識を呑まれてバカげたゲームを始めたことも、そのゲームを終わらせることが出来るのが、僕だけだってことも。――僕は、破壊竜の力を持ちうる危険な存在です。本来ならば直ぐにでも殺されるべきだったのに、教会は僕を庇護対象にした。それは、必要とされているからだと理解しています。感謝しています。だから、やれることをやる、それだけです」
「そうか。それしかないことも、君は知って」
静かに答えるしかない僕を、フィルさんはじっと見ていた。
そして、小さくため息をついた。
「残念ながら、君の言うとおり、今は白い竜の力に頼らざるを得ない状況だ。後でビビや司祭から説明があると思うけど、事態は決して芳しくない。今後は君の意思とは関係なく動いて貰うことになる。きっと、今まで以上に辛いことが増える。お願いだから、君の心が潰れる前に、立ち止まったり、相談したり、して欲しい。……いいね?」
心配してくれてるのか。
ラベンダー色に、極端な揺らぎはない。
「ありがとうございます。善処します」
いつだって、僕の意思なんか無視して物事は進む。
だから、忠告されたところで今更感があるなんて、フィルさんに言えるはずがなかった。
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