3. さよならの準備

 僕らがひいじいちゃんの家を訪れたのは、真冬。一月の下旬のこと。

 農作業のないこの季節に、まとめて家の雑用をこなしたり、春に備えての準備をしたりする。ほんの僅かな、休息の季節でもある。

 凌を助けてくれたという消防団の人達を、ひいじいちゃんは家に呼んだ。五月雨式に団の人がやって来ては、お菓子をくれたり、僕の頭をぐりぐりしたりした。

 じいちゃんはこたつに貰った菓子を広げて、好きに食えと僕に言った。美桜は困った顔をしたけれど、偶には良いだろうと凌が言うので、小さい僕はお菓子食い放題ですこぶるご機嫌だった。


 夕方になってきた頃、堰で凌を見つけてくれたという人が、缶ビールとつまみを持ってやって来た。六十くらいの顔の濃いおじいちゃんだった。今でも消防団で活動しているらしい。座布団に座り、畳にビールとつまみを直置きして、飲みながら当時のことを、少しだけ語ってくれた。


『浩基君、真っ青な顔をしてたな。泣けば良かったのに、泣かずに我慢して。お兄ちゃんだから、泣けなかったんだろう。可哀想なのは凌君なのに、自分が泣いてたらダメだろうって、辛いのに一緒に探してくれてなぁ。半分、諦めてたかも知れないよ、浩基君が一緒に来てくれなかったら。この子を泣かせちゃダメだと思って、みんな必死だったんだ。見つかって、一命を取り留めたと知って、どんなに安心したことか。本当に、良かった。こんなに立派になって、嫁さんと子どももいて。おっきくなったなぁ!』


 パシンと、その人は凌の肩を叩いた。

 凌は勧められるままにビールを飲み、少しはにかんで、『おかげさまで』と言った。


『来澄のじいちゃん、凌のこと、だいぶ心配したんだぜ。あんな冷たいところに落ちて、まともに育つわけがねえ、病気になるかも知れん、長く持たないかも知れんって。毎日仏壇に手ぇ合わせてよ。うちのじいさんなんかは、仏壇に拝んだところで、あいつんとこの仏は法螺吹きだから、御利益ないんでないの、なんてからかってさ。でも、この通り、いい男に育ったべさ! やっぱ、じいちゃんがちゃんと拝んでたお陰だな!』

『なぁに、余計なこと言うなやい!』


 ひいじいちゃんはビールで顔を真っ赤にして、何だか嬉しそうだ。


『で、何、凌君は何仕事してんの』

『あ~、証券会社に』

『証券会社! エリートじゃねぇの! すんごいなぁ!』


 もうこの頃は辞めていたはずだけど、凌はそうやって誤魔化していた。

 ひいじいちゃんも、凌が仕事を辞めたこと、最期の別れに来たことは、誰にも言わなかった。


『証券会社じゃあ、この山ん中ぁ無理だもんな。残念だなぁ、じいちゃん。凌君が来てくれりゃあ良いのに。こんなにがたいも良くて、農業するにはピッタリなんだけどなぁ!』


 ガハハハハと、男の人とひいじいちゃんは豪快に笑った。

 凌も楽しそうに笑っていた。

 美桜も僕も、何だか嬉しくなって、つられて笑った。











 夜になると、凌は消えた。

 連続して干渉し続けることが出来ないから、凌はいつも、途中で消える。

 思えば、一緒に眠った記憶がない。

 そういうもんだと思っていた。

 僕にとって凌は、そういう存在。

 夢のような幻のような、だけど間違いなくそこにいる、不思議な存在。


『凌、楽しそうだったね。おじいちゃんも、いい人で良かった』


 重たい綿布団の中で、美桜が言った。


『りょう、ないてた』


 小さい僕が言うと、美桜はうんと小さく漏らした。


『凌にしか分からないことがあったんだよ。ここに来て良かった。最後に、ここに来れて』











 朝になると、凌は戻ってくる。

 この日は日が昇る少し前から、ひいじいちゃんちの庭の雪かきを始めていたようだ。スコップとスノーダンプだけで、日が昇った頃には道路の手前まですっかり雪が片付いていた。

 ついでに屋根の雪まですっかり下ろしていて、これにはひいじいちゃんも、目ん玉が飛び出るぐらい驚いていた。


『死にかけの人間のやれることじゃあねぇな』

『死にかけてるわけじゃないし、人間でもねぇからな。朝飯前よぉ』


 冗談にしては、ちょっといただけない言葉だったが、ひいじいちゃんは、心配して損したくらいには思ってくれたんじゃないだろうか。昨日の憂いの色は、少し晴れている。


『で、神様はいつまでこの世にいることが出来るんだって?』


 ひいじいちゃんちの冷蔵庫から、漬物やら買い置きの魚やらを出して、簡単な朝食。

 小さい僕にとって、あんまり好きな物はなかったけど、そこは卵かけご飯でどうにか乗り切った。


『春くらいまでが限界かなと思って。そこから先、まともに“こっち”にいられる自信がない。普段はもうちょっと短い間しか“こっち”にいないんだけど、じいちゃんちだから、特別に頑張って長居してる。ひいじいちゃんが元気なうちに来て良かった。消防の人の話も聞けたし。兄貴とも、もう少し話してみる』

『なんだ、浩基とはまだ仲悪いのか』

『法螺吹き大司郎と一緒だよ。俺も、法螺吹きだと思われてんの。俺のこと、兄貴は気持ち悪がるし、まともに会話にならない。目も合わせてくれないんだぜ。いい加減にして欲しいよな』

『ハァ! 心が狭いねぇ。――なんて、俺には浩基の気持ちがよぉく分かる。法螺吹きが身内にいるってのは、どうにも気持ちが悪いもんだ。仕方ねぇ』

『そう、仕方ねぇ』


 凌はそう言って、ご飯をかきこんだ。


『で、どうする。美桜ちゃんと大河は。ヨシノデンキの方に行くんか?』


 ひいじいちゃんは、僕と美桜を交互に見た。

 凌は空っぽになった茶碗をこたつの上にトンと置いて、ふぅと息を漏らした。


『大河は養子に出すことにしてる』

『養子?』

『ヨシノデンキの社長は美桜の伯父さんで、金の援助はして貰ってるんだ。でも、流石に子どもの面倒も見てくださいって訳にはいかないよ。美桜ひとりで子どもを育てるのも、難しいと思う。それこそ、美桜は一人親で、ずっと苦労してきた。その上、その母親も早くに死んでしまって。伯父さんは子育て経験もないのに、美桜の親代わりをしてくれた。でも、なかなか良い関係になれなくてさ。少し前に和解するまで、本当に大変だったんだ。血が繋がってるからって無理矢理お願いしたところで、伯父さんの負担になるだろ。大会社の社長さんんとこに、未亡人が子連れでやって来た、なんて知れたら、面倒くさいことにもなりかねないし。だから、子どものいない親友んとこに養子に出すことにした。そこで、本当の子どもとして育てて貰うよう、前々から頼んである』

『前々から? ……だからアレか。大河には父ちゃん母ちゃんって呼ばせてないのか』


 凌はこくりと深く頷いた。


『養子縁組を決めた頃から、そっちの方をパパママって呼ぶよう、教えてる』

『浩とゆき子さんは、知ってるのか』

『うん。大丈夫。秋頃、話したよ。でも、分かってくれた。お前は嘘はつかない、昔から、嘘つきだなんて思ったことはないって言ってくれた。ありがたかった』

『……やっぱ、親だな。親が信じないで、誰が信じるかってんだ』

『うん』

『それでいいんか。凌も、美桜ちゃんも。養子に出しちまって、そっちを親だと思って育てられたら、お前らのこと、忘れちまうんじゃないか?』


 ひいじいちゃんは、食べかけの茶碗を前に、しわくちゃの手で握り拳をふたつ、作っていた。

 凌は、そんなひいじいちゃんを見て、静かに笑った。


『俺達のことは良いんだ。忘れても。大河が幸せに生きてくれるなら、全部忘れてしまっても』

『凌、お前……』

『人柱なんだよ、俺は。世界が平和になるためには、犠牲が必要だから。俺は人柱になって、世界を守る。そのために、俺は多分、白い竜の神様になったんだ』











 ひいじいちゃんの手は、ゴツゴツしていた。

 苦労に苦労を重ねた手。

 しわしわで、シミがあって、血管が浮き出てた。手のひらも分厚くて、触ると硬かった。


『可ン愛いなぁ、大河の手は』


 ひいじいちゃんは、僕のほっぺにひげ面を擦りつけ、両手を握った。


『もう、会えないンか。寂しいなぁ』


 これが最初で最後。

 僕が群馬のひいじいちゃんちに行ったのは、この時だけ。


『ごめんな。じいちゃん。最後の最後に、訳分かんなかったろ』


 ひいじいちゃんちの軒先で、別れの挨拶。

 コートを着込んで、マフラーをして、荷物も持って準備万端だ。

 帰りは送ってくと、ひいじいちゃんは言ったけど、車もないし、滑ったら大変だしで断った。疲れたし、ひと気のないところに行ってから転移魔法でズルしようと美桜が提案して、凌も渋々了承していた。


『良いんだ良いんだ。最後にホレ、雪かきもして貰ったし。最高に気持ちが良い』


 ひいじいちゃんのその言葉に嘘はない。透き通った、綺麗な草色をしている。


『本当はもっと話していたかったけど、俺の時間、どんどんなくなってきてて。夏祭りの頃、青々とした田んぼが広がる光景、俺、大好きなんだよね。たんぼ道をてくてく歩いてさ。タンポポやシロツメクサ毟ったり、虫追いかけ回したり。そういう時期まで身体が持つなら、その時二人を連れてきたかったけど、……無理だから。ごめん、こんな、真冬に。邪魔したね』

『お前ぇは懲りねぇな! そんで堰に落っこちたろうがよ!』

『あ~、うん、そうなんだけど。でもさ、やっぱ好きなんだもん。仕方ねぇじゃん?』

『……死んだら、行けるんか』

『え?』

『死んだら、お前が神様やってるとこに、行けるんか』


 ひいじいちゃんは視線を落として、とても言いづらそうに、呟いた。

 凌は、いいやと首を横に振る。


『死んだら行けるようなところじゃない。でも、興味持ってくれて、嬉しい』


 震えてる。

 ひいじいちゃんは、鼻と頭を赤くして、ふるふると震えている。


『なあ、凌。俺の、最後のお願い、聞いて貰えるか』

『何? じいちゃん』

『大司郎がよ、法螺吹きじゃねぇって証拠によ、お前ぇが、法螺吹きじゃねぇって証拠によ、見せて貰えねぇか。白い竜の神様なんてものが、いるんかどうか』


 美桜はビックリしていた。

 小さな僕には分からなかったようだけど、少なくとも美桜は驚いて、凌とひいじいちゃんの顔を交互に見ていた。

 凌は、動じなかった。

 分かっていたみたいだ。

 ひいじいちゃんが何を言い出すか、どんな思いを抱えているか。

 背負った荷物を一旦玄関先に下ろして、また戻ってくる。それから、僕と美桜に少し離れているように言った。


『じいちゃんちの前、あんまり車の通りがないし、誰も見てないと思うから、ここで見せるけど、いい?』

『あ、ああ。大丈夫だ』


 そう言いながらも、ひいじいちゃんは、ちょっと警戒の赤を発している。


『恐くなって心臓止まったら困るけど、もしもの時は俺が救うね。……化け物だって、思うかも。それでも、いい?』

『何言ってんだ。俺の孫だぞ。恐いもんか』


 ひいじいちゃんの言葉を確認してから、凌は目をつむり、息を整えた。

 そうして、少しずつ力を解放し、徐々に徐々に、白い半竜の姿へと変わっていく。

 身体がガッチリして、黒いコートが少しキツくなって。

 髪の毛は伸び、真っ白に染まった。

 角を生やし、耳を尖らせ、頬にも鱗が浮かび上がった。

 長い尾と羽がコートを突き破っていく。

 目を開くと、真っ赤な瞳が光っていた。


『恐く……、ない?』


 口からは牙が覗いている。

 手袋からは、爪がはみ出していた。


『俺、もう、人間じゃないんだよ。だから、この世界にはいられないし、じいちゃんとももう会えない。ごめん。本当に、ごめん……』


 半竜の姿になった凌は、何度も謝った。

 ひいじいちゃんは、驚いてしばらく、動かなかった。

 だけど、ポツリ、言ったんだ。


『恐くなんかねぇ……。恐いもんか。綺麗な、白い竜の神様じゃねぇか』


 凌は、顔を手で押さえて震えていた。

 ひいじいちゃんはザクザクと雪を踏みしめながら近付いて、凌の肩を何度も叩いた。


『大司郎は法螺吹きじゃあなかった。お前ぇも、法螺吹きじゃねぇ。大丈夫だ。何泣いてンだ。神様が泣いてどうする。世界じゅうが涙で水浸しになっちまうぞ』


 凌は半竜の姿のまま、しばらくの間、ひいじいちゃんと抱き合っていた。

 背の低いひいじいちゃんは、自分よりずっと大きい凌の背中を、まるで小さな子どもにするように、何度もトントンと優しく叩いていた。

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