【14】空白
1. 僕と凌と美桜のこと
――ザクッザクッと、歩く度に音がする。
雪を踏みしめる音だ。
僕は真っ白な世界にいる。
どこまでも続く白い景色。
一歩一歩が重くて、足を上げる度によろけそうになった。
息が白い。
顔に冷たい空気が当たって、肌がヒリヒリする。
僕の手はまだ丸っこくて、足も短い。
長靴と同じ高さまで雪が積もっている。
僕の前を歩く、黒いコートの男の人は、頑張って付いてこいとばかりに後ろを何度も振り向いては、僕においでおいでしている。
視界がもの凄く狭い。
周囲の景色は殆ど見えてない。
ただ目の前の、背の高い男の後ろ姿だけを、僕は見ていた。
長い赤茶髪の女の人が、青い毛糸の手袋をした僕の手を掴んでいる。
『ホラ、頑張れ大河。もう少し』
僕に向かって、男は言った。
『りょう、まってよぉ』
小さい僕の、甲高い声。
――凌。
僕は、凌を追いかけている。
隣にいるのは美桜だ。
僕は、小さかった僕の記憶の中に入り込んでいる。
大聖堂の中で、あいつは僕の顔を鷲掴みにして、魔法をかけた。全てを思い出させるための魔法だ。禍々しい暗黒魔法で、僕は全身の激痛に耐えきれず、意識を失った……はずだ。
『みお、だっこ』
足を止めて、小さい僕が言う。
鮮やかな赤いコート姿の美桜は、立ち止まってふぅと白い息を吐いた。
『大河、疲れちゃった? おじいちゃんちまでもうちょっとだけど、仕方ないなぁ』
よいしょと、僕は持ち上げられた。
身体が浮く、変な感覚。
美桜の柔らかな白い肌と、僕と同じ青と灰色が混じったような瞳が、眼前に迫った。
『凌、大河疲れたって』
白い雪の世界に、美桜の声がよく響いた。
『ハハッ。まぁ、初めての雪だし、仕方ないんじゃね?』
凌は嬉しそうに笑っている。
大きなリュックを背負い、両手にも荷物を持って、だけど軽快に、凌は長靴で雪の中を進んでいく。
僕を抱っこした美桜は、少したどたどしい足取りで、凌の後を付いていく。
抱っこされたままキョロキョロと辺りを見回すと、僕らの歩いてきた道にくっきりと足跡が付いているのが見えた。
雪は止んでいた。
まだ低い位置にある太陽が、雪の表面を照らして、チラチラと光を反射させている。
眩しくて目が潰れそうになり、小さい僕は何度も手袋で顔を擦った。
『やっぱりタクシー頼めば良かったね。駅からこんなに歩くなんて、凌、教えてくれなかったじゃない。魔法でピューッと飛べば楽だったのに』
『こんなとこで転移魔法なんか使わないよ。良い経験になると思ってさ。都会育ちで、田舎のこと何にも知らない綺麗なお嬢様と可愛い王子様に、ちったぁ、雪国の不便さってのを教える良い機会』
『ものは言い様よね。それにしても、ここ、本当に関東? 積雪、ヤバくない?』
『こんなもんだよ、ここは。親父が子どもの頃まで分校があったんだって。雪深くて、麓の学校まで通えないからってヤツ。すげぇよな』
『へぇ。そういうのって、戦後ぐらいの話だと思ってた』
『不便な土地で、住みたいとは思わないけど、俺、結構この村好きなんだよね』
『死にかけたのに?』
『そう、堰に落ちて、うっかり死ぬとこだった。丁度、今の大河と同じくらいの時』
……ああ、そうか。
ここは、伯父さんの記憶で見た村だ。
凌が堰に流されたのは初夏だった。お祭りの日、小学生だった伯父さんが目を離した隙に、小さかった凌は堰に落ちたんだ。
『あの時落ちてなかったら、美桜とは会えなかった。ここは俺の人生が変わった場所だから、俺が俺でなくなる前に、どうしても美桜と大河に見せたかったんだ』
凌の足が止まった。
真っ白な世界の向こう側に、集落が見えていた。
広い畳の部屋。
来澄の実家より、もっと古い造りの家だ。
部屋を仕切る戸には、見たこともない凸凹模様のガラスがはめてある。
小さな僕は、そのガラスの手触りが楽しくて、何度も触っていた。
居間には小さいこたつがあった。ファンヒーターの熱風がやたらと熱くて、僕達はコートを脱ぎ、薄着になる。
どうもこの部屋は、ひいじいちゃんの生活の中心らしい。
こたつにテレビ、ファンヒーター、洗濯物と新聞紙の山、買い込んだ食料とビールの在庫と思われる段ボールも角に積んである。
生活感は漂ってるけど、ゴミはしっかり片付けているらしく、不思議と清潔感があった。
『まさかあのヨシノデンキのお嬢様だなんて、とんでもない玉の輿だな、凌』
ガハハと豪快に笑うのは、どうやら僕のひいじいちゃんにあたる人らしい。
めちゃくちゃヨボヨボなのに、ビックリするぐらい元気が良い。
こたつの主みたいなひいじいちゃんは、僕らをこたつに招き入れ、山盛りのミカンをやたらと勧めてきた。ありがとうございますと美桜がミカンを受け取って、皮を剥いている。小さな僕も、見よう見まねでミカンを剥く。
ひいじいちゃんが僕らのことを見る目は、まるで仏様みたいに優しかった。小さな僕は恥ずかしくて、何となく近くには行けず、美桜のそばにぴったり引っ付いていた。
『じいちゃん、俺は男だから、玉の輿って言わないんだよ。それ、女の人が金持ちと結婚したときに使うヤツ』
凌は、ひいじいちゃんの正面に座っている。
いつもよりちょっぴりお喋りだ。
『へぇ。じゃ、なんて言うんだ? ヒモか』
『ヒモじゃねぇよ。仕事してたし』
『でも、辞めたんだろ。具合、悪いって?』
『あぁ、うん。まぁね。時間が出来たし、多分、ここに来れるの最後だと思うからさ。思い切ってやって来たんだ』
『綺麗な嫁さん貰いやがって。結婚式してくれりゃあ、群馬の山ン中からすっ飛んでったのに。ヨシノデンキのお嬢様なら、結婚式だってド派手だったはずだろうが。なんだって、結婚しました~、子ども出来ました~って、電話一本で済ませやがって』
『じいちゃんなら言うと思った。最近は、結婚式しない夫婦も多いの。式なんかしたってしなくたってどうだって良いんだよ』
『可愛い末の孫の嫁さんだぞ。白無垢姿も似合ったろうになぁ、美桜ちゃん』
ひいじいちゃんは、唾を飛ばしながらご機嫌そうだった。
美桜は困ったように首を傾げ、半笑いで誤魔化している。
『最後に来たの、ひいばあちゃんの葬式の時だっけ。結婚してから全然来れなかった。五年振り? ひとりで寂しくない? 東京に連れて来ようか迷ってるって、親父がぼやいてた。どうすんの? やっぱ、ここで最期まで暮らす?』
凌が言うと、ひいじいちゃんはちょっとだけムスッとした。
『なんだ、
『心配してんだよ、みんな。じいちゃんのこと。こんな山ん中で死んでても、誰も気付かねぇだろ』
『んなこたぁねぇ。医者には行くし、週一でヘルパーも来る。回覧板やら老人会やらで普段から近所にも出歩いてる。店はねぇが、週二回、近くまで来る物売りにも、俺が行かなかったら、死んだと思ってくれって言ってある。おんなじことをあちこち触れて回ってるから、大抵気付くさ』
『ならいいけどさ。……思ったより元気そうで安心した。除雪は? 誰がやってんの? まさかじいちゃんは無理だよな』
『俺ァ、玄関先までだ。あとは消防の連中があちこち回って、トラクターでガッと持ってってくれる。田舎の良いとこはそういうとこだ。凌も、仕事辞めたんならここに住みゃあ良いだろ。部屋は余ってンぞ。家賃はかからんし。ま、昔屋でインターネットもねぇし、買い物も自由に出来んがな』
ガハハハハと、またひいじいちゃんは笑った。
『――実はさ、最期のお別れに来たんだ』
凌の言葉に、ひいじいちゃんの笑いがピタリと止まった。
『俺ァまだ元気だぞ。……まさかお前、そんなに悪いのか?』
美桜はミカンを食べるのをやめて、姿勢を正して凌の方を見た。
小さな僕は、そんなのお構いなしにミカンの山に手を伸ばしている。
凌は、とても言いづらそうな、申し訳なさそうな顔をしている。
ひいじいちゃんの方から、心配な気持ちを示す青紫色がにじみ出ているのが見えた。
『ひいじいちゃんの葬式には、来れないと思う。俺の方が先にいなくなる。今、元気なうちに、世話になった人達に挨拶回りをしてるんだ。この村の消防団の皆さんには命を救って貰ったから、せめて、最後にお礼したくて。じいちゃんの顔も見たかったし、今のうちにやれること、全部やっておきたいから』
『……癌か』
凌は首を横に振った。
『癌より、もっと厄介なヤツ』
ひいじいちゃんの顔を見つめる凌の目には、涙が溢れていた。
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