9. 何かを手に入れるためには何かを失わなければならない
『ウォルター! リョウゼン様、もういらっしゃってるよ。早く早く』
同年代の修道僧達は、リョウゼンに夢中だった。
白い鱗も、羽も、髪の毛の間から突き出た角も、長く太い尾も、彼らにとっては、恐怖の対象ではなかった。
大聖堂の中央に鎮座する神が、その姿を具現化させて
『ウォルターと話がしたいって、ずっと待ってる』
掃除用具を片手に、大聖堂へと向かう。
与えられた仕事をこなしながら、リョウゼンと話をするのが日課になっていた。
リョウゼンはいつも会衆席の一番前にいて、彼が来るのを待っているのだ。
『仕事が遅くなってしまい、随分お待たせしたみたいですね』
先に人払いをしていたらしく、大聖堂の中にいたのはリョウゼンだけだった。
『いや。最近は、待ち時間も飽きないよ。いろんな子が入れ替わり立ち替わり声を掛けてくる』
『参拝者ともお話しになっているようですが、塔にバレませんか。抜け出してること』
『あまり塔と教会との関係はよろしくないようだから、塔の魔女にはうるさく言われるかもな』
リョウの方だ。
『もうじき、各地の修道会から中央へ、十五になった子らがやってくる頃です。中には、破壊竜に親を殺された子もいるとかで。また、あなたが傷つかないか心配です』
『……優しいな、ウォルターは』
『おだてて誤魔化しても困ります。アーロン司教のときみたいにならないよう、僕だって気を遣ってるんです』
『非力な子どもにナイフで刺されても、怒りなんか湧かないよ。そんなことより、お前の立場は大丈夫なのか。アーロンや上のヤツらはウォルターに辛く当たったりしないか』
『ご心配なく。これまで同様、下っ端の扱いです。――って、違いますよね。何かお話が?』
『あ、あぁ。実は……』
………‥‥‥・・・・・‥‥‥………
「リアレイトの話を、私は一方的に聞く役回りでした。残してきた家族を悲しませないよう、リョウの姿で干渉を続けていたことも知っています。強大な力で常時干渉し、普通の学生生活を送っていると聞いたときには、正直驚きました。“この方”は、誰一人悲しませたくないのだと、そのためにはどんな犠牲を払っても構わないと心の底から思っているのだと。ですが、その優しさが、徐々に“あの方”を蝕んでいったのです」
………‥‥‥・・・・・‥‥‥………
『時間が、短くなってる。こうして“凌”の人格でウォルターと話すことも、いずれ無くなってしまうかも知れない』
苦しそうな横顔。
『いずれ、“リョウ”も“ゼン”もいなくなって、“リョウゼン”だけになる。そう、おっしゃってましたね』
『まだ先だと思うけど、いずれそうなるとハッキリ実感できるようになってきた。この先も、まだリアレイトに居続けて良いのか、悩ましいところなんだ。いずれいなくなると知っていながら、普通の生活を送っているように見せるなんて、酷すぎないか』
リョウゼンはいつも、誰かの心配をしている。
『本当のことを喋るのは、難しいのでしょう。リアレイトではレグルノーラのことを知らない人間の方が圧倒的に多いんだって、そういう話でしたよね。しかも、魔法も竜も存在しない』
『……兄貴には、喋ったんだ。でも、拒絶された。話をまともに聞いて貰うのは無理だ』
『そうですか……』
『兄貴は俺のことが嫌いだ。俺は理解の及ばない変な力を使う、気持ち悪いヤツだから。相容れないんだ。もう、ずっとずっと前から。仲良くしたかったのに。普通の、兄弟みたいに』
リアレイトで、リョウは普通の少年だった。
妙な運命に呑み込まれ、こんなことにならなければ。
『消える前に、精一杯、やれることをやったら良いと思いますよ』
ウォルターには、そんな言葉しか掛けることが出来なかった。
『お兄さんとの仲を後悔しているように、ご両親とのこと、ご友人のこと、いろんなことを後悔したまま生き続けるのはお辛いと思います。悔いの無い生き方をした方がいい。お兄さんとだって、いつかわかり合えるかも知れませんし。リョウでいる間は、自由に生きたら良いと思います』
………‥‥‥・・・・・‥‥‥………
「“あの方”は極端に、他人の心を気遣いました。どれだけ自分が傷ついても、苦しくなっても、それは皆が幸せになるためだからと。――レグルノーラには、『何かを手に入れるためには何かを失わなければならない』ということわざがあります。“あの方”はその言葉をなぞるような生き方をされていました。どんなに自由を制限されても、それで他の誰かの自由が保障されるならと。しかしそれは、とても危険な考え方だと私は思います。自己犠牲は一見、美しく見えます。しかし、そうやって手に入れたものは、とても脆く、壊れやすい。ぎゅうぎゅうにものを詰め込めば、どんなに丈夫な革袋も裂けてしまう。目に見えていないだけで、とても苦しかったのだと思います。凶暴だった破壊竜を封じ込め続けるというのは」
元々白い竜の血を引いていたというわけでもなく、二つの世界に平和を取り戻すため、破壊竜との同化を選んだという凌。
いろんな人の記憶を垣間見てハッキリと分かるのは、凌がとんでもなく忍耐強くて、優しすぎるということ。誤解されても、しんどくても、殆ど弱音を吐かない。
何が凌をそこまで追い立てたのか、僕には分からない。
とても……、一人の人間が背負うべきじゃないくらい凄まじいものを、凌はたったひとりで抱え込んでいた。
「同化した当初、二つの意識は均等に混じっていくものだと思っていたようですが、実際は違ったことも、更に“あの方”を苦しませたようです。徐々にリョウゼンでいる時間は長くなっていきましたが、リョウの意識が薄れていっても、ゼンの意識の大きさは殆ど変わらなかったそうです。元々持っている生命力の差かも知れません。人間と竜では、寿命が違いますからね。表に出てくることはなくても、ゼンはリョウゼンの意識に強い影響を与え始めます。白い竜として迫害されてきたゼンは、人間の愚かさに触れるに付け、人間不信に陥っていったと聞きました。人間と共に生きようと、ゼンは覚悟を決めてリョウと同化したというのに、アーロン枢機卿始め、塔でも、人間の醜さを何度も突きつけられたのでしょう。リョウの意識は極端に薄れ、隅に追いやられて行くようだったと言っていました。それでも、穏やかなリョウゼンの人格が前に出ているうちは、私達に害はありませんでしたし、普段通り接することが出来ました。――変化が起きたのは、私達が出会ってから五年程経った頃。リアレイトで学生生活を終えたリョウが、社会人として働き始め、同時に、ミオと結婚したと聞かされた辺りからでした」
………‥‥‥・・・・・‥‥‥………
『結婚……、ですか』
ウォルターさんは当時二十一歳。修道僧の中でも中堅どころになっていた。
出会ったときから変わらないリョウゼンの横顔。竜と同化すると、老化が遅くなると前に聞かされたことがある。
『ずっと約束していた。人間として生きていける、ギリギリまで普通の生活をしたいと思っていて。普通に就職して、普通に結婚して家庭を持つ。そんな暮らしに憧れていた。美桜と話し合って、最後まで支え合おうと』
『ミオというのは、白い竜の、ゼンの娘だという……』
『ああ。美桜の正体を知る前から、俺は美桜のことが好きだったし、美桜も俺を好いてくれた。問題は、俺が美桜の父親と、ゼンと同化してしまったってことだけど。……それでも、自分の気持ちに嘘はつけなかった。持ってあと数年。俺が凌でいられるうちに、親を安心させたいと思ってたし、頃合いかなって。まぁ、塔からは大反対されたけど』
この頃になると、リョウが表に出てくることは殆ど無くなっていた。稀に、何かあると相談しに現れる程度で、あとはリョウゼンが前面に出ていたのだ。
『塔でなくても、反対する人間は多いかも知れませんね。あなたを古代神レグルの化身だと信じて疑わない者達が、嫉妬するのでは』
『何言ってんだよ、全知全能の神ゼウスだって、ヘラって奥さんがいるわけだし、別にそういうのはどうでも良いと思うんだけど』
『異界の神話には精通しておりませんから、その件に関しては意見しかねますが、新たな火種にはなるでしょうね。俗世的だと批判する者がいるのも勿論ですが、一番は、その先の問題ですよ』
『その先? ――あぁ。なるほど、結婚したら、その次があるってことね』
『えぇ』
『好きな女を抱くことも、子どもを作ることも、タブーなんだろうな……。一人の人間として、来澄凌として最後まで生きたいと願っても、足枷が多過ぎる』
リョウゼンは両手で顔を隠し、会衆席の長椅子に座ったまま背中を丸めた。
『些細な幸せを掴もうとすると、大きな絶望が待っているのが見える』
ウォルターには、その背中が酷く小さく見えていた。
『もう……、長くは持たないんだ。だいぶ、無理してる。ゼンが……、ドレグ・ルゴラが俺を蝕み始めている。長い孤独と絶望を俺に突きつけて、やはり平和など、たった一人の人間の犠牲では作り得ないのだと訴えてくる。お前にしか話せない。こんな、俺の弱いとこを見せられるのはお前だけ。いっそのこと、お前が女で、聖職者じゃなかったらなぁ……なんて、嘘だよ。冗談。感謝してる』
『冗談が言える程度には、まだ気力があるみたいですね』
『そうだな。あと何年か。自分の意識がどんどん削られていくのを感じながら、どうにかやってみるよ』
『ええ。私はずっと、見守ることしか出来ませんが』
『ありがとう、ウォルター。もし俺が俺でなくなっても、リョウゼンの相手はしてやってくれよな。あいつ、寂しがりだから』
………‥‥‥・・・・・‥‥‥………
「ミオは、かの竜がリアレイト人の娘に産ませた子どもだそうです。白い半竜で、干渉者でもあったようです。リョウはミオと、リアレイトで夫婦生活を送るようになりました。そして塔でも、二人は揃って人前に出たり、過ごしたりするようになったようです。このことに関しては、教会も早くから不快感を示していて、私は板挟みに遭いました。しかし、不満を言ったところで、彼らの生き方に対し口を出すような権利が教会にあるわけでもありません。二人が仲睦まじくいることを示すことは、ある意味平和の象徴なのだと割り切って塔が二人を広報に使い出すと、懸念していた議論が噴出し、一部で暴動が起きることもありました。今思えば、その程度で済んでいた、とでも申しましょうか。問題は正に、その先にありました」
ウォルターさんはそこまで言うと、一旦大きく深呼吸して、姿勢を正した。
僕もゴクリと唾を飲み込み、話に集中する。
「ミオが懐妊したのですよ」
「カイニン?」
「子どもが出来たと言うことです」
「それが――、問題、だった」
「えぇ。白い竜の血を引く子どもが生まれるわけですからね」
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