8. 強制浄化
「その昔、かの竜がまだ別の人間の姿をしていた頃のことです。街には“悪魔”と呼ばれる魔物達がはびこり、人々は恐怖に震えていました。“悪魔”とは、主にリアレイトからの悪意ある干渉によって発生する、様々な姿形をした魔物のこと。黒い不定形生物、“ダークアイ”と呼ばれていた魔物もその一種。しかし、他の魔物とは全く違う発生の仕方をしていたことを、恐らく、塔や市民部隊は知りません。もし事実を知れば、世界は更に混乱に陥ってしまったでしょう。ですから、教会はずっと秘密にしていました。人間の姿をしたかの竜が、行く先々で何も知らない市民に面白半分で黒い水を飲ませ、黒い魔物を発生させていたことを。当時の、黒い水を飲まされた人々も、この少年と同じような症状を見せていました。あれから二十年以上経ちます。先の戦いで塔の魔女が浄化したはずの湖が美しいままとは限りません。水は既に黒くなっていた、ということなのでしょう。本当に、嘆かわしいことです」
イザベラシスター長がさらりと言った台詞に、僕は全身の毛が逆立つのを感じた。
頭からサァーッと血の気が引いていく音がする。
「こ、殺さないで!」
司祭とシスター長の前に出て、僕は両手をいっぱいに広げて訴えた。
けれど彼らは飄々とした顔のまま、感情の揺らぎさえ見せてはくれない。
「伯父さんと約束したんだ! 雷斗を連れて帰るって! みんな待ってる。だからお願い! 雷斗を殺さないで!」
「タイガ、今の話、聞いただろ。こいつは」
「――ノエルさんは平気なの? 雷斗だって、なりたくてこうなったわけじゃないはずだ。ねぇ! 雷斗! 戻ろう! リアレイトの伯父さんのところへ。伯母さんと、椿ちゃん、おじいちゃんやおばあちゃんの待ってる家へ!」
「ワガママ言うな。そりゃ、オレだってどうにかしてやりたいけど」
ノエルさんは興奮気味な僕を止めようと、軽く肩を叩いてきた。
けれど、けれどけれど、ここまで来て、こんな結末……!
「湖の黒い水なら、僕も飲んだ! あの湖を抜ける途中で、大量に飲んだんだ! だから僕の力を欲した団長さんはおかしくなった。僕だって、いつ雷斗と同じになるか分からない。僕だって、雷斗と同じ。なのに、なのになんで、なんで雷斗だけこんな」
「……同じじゃない」
静観していたジークさんが、痺れを切らしたように割って入った。
厳しい顔で肩を震わせながら、ジークさんは静かに言った。
「同じじゃないんだ、大河。君は、誰とも違う。人間じゃない。だから、黒い水も君を取り込んだりしない」
「ジークさん……?」
「いいか、大河。残念ながら、君の半分は白い竜だ。あの湖には、ドレグ・ルゴラが長い間封じられていた。一度浄化されたとはいえ、元に戻った黒い水にも、君は耐性を持っている可能性が高い。ドレグ・ルゴラが長い孤独を過ごしたあの湖は、君の一部なんだ。普通の人間と同じじゃない。普通の人間は、簡単に闇に呑まれる。君は……、君は、雷斗とは根本的に、違う。同一視すべきじゃない」
ガシッと僕の両肩を掴んで、ジークさんは僕を落ち着かせようとした。
力強い……ように思えたその手も、直ぐに大きな落胆でずり落ちていく。
雷斗の身を案じて、これまで必死に頑張ってきたのに。
それは僕だけじゃない。ジークさんも、ノエルさんも。そして、リサさんもアリアナさんも一緒のはずだ。
椅子に括り付けられたままの雷斗は、こんな僕らをどんな気持ちで見ているんだろう。黒いもやで覆われた雷斗の心の色はすっかりとかき消されていて、悔しいかな、こんな“特性”を持っているのに全然分からない。
諦めなくちゃ……、ならないんだろうか。
救いたいと思うのは、僕のワガママなんだろうか。
彼の苦しみも、伯父さん達の苦しみも、感じて、知ってしまったことで、単に独りよがりな同情をしてしまっているだけなんだろうか。
それでも、僕は、雷斗を。
僕は、膝から崩れ落ちていた。
「ンンッ。あの……」
絶望のどん底にいた僕の頭の上から、イザベラシスター長の柔らかい声が降ってくる。
「どうしましょう、ウォルター司祭。中毒症は治せないという話なんか、していませんのに」
「いやぁ、実に、仲間思いと言うべきか。あの方を小さくしたみたいだと言うべきか」
ウォルター司祭も、クスクスと笑い始めている。
ハッとして顔を上げると、一体何がどういうことかと、ジークさん、ノエルさん、リサさんもアリアナさんも、互いに顔を見合わせていた。
「シスター長ならばどうにか出来るかもと、無理矢理お願いして、おいでいただいたのだ」
団長さんが、雷斗を見守りながら言った。
「お二人の到着まで、彼を落ち着かせたかったのだが、どうにもならず、拘束具を用いた。妙な誤解を与えてしまったことは、素直に謝るべきだと承知している」
「つまり、私達がわざわざ中央から来たのは、彼を元に戻すため。勿論、“神の子”への謝罪も任務の一つではありますけど、グレッグ騎士団長がからの報告で、これは私にしか対処できない事案だと直ぐに分かりました。並の力では浄化できなくても、強大な魔力があれば、回復も可能になります」
「――ってことは、雷斗君は元に戻るんですか?」
リサさんが声を上げると、イザベラシスター長はうふふと小さく笑った。
「ええ大丈夫。ちょっと、場所を空けてくださいね」
独特の、まったりとした空気に包まれたシスター長は、ゆっくりと僕らの前に歩み出た。
僕もジークさんもノエルさんも、出来るだけ彼女の邪魔をしないよう、後ろに退いた。
シスター長は雷斗の前で両膝を折り、まるで祈りでも捧げるかのような柔らかな表情で雷斗を見上げている。
金属製の椅子に縛り付けられたままの雷斗は、顔に巻かれた布で視界を塞がれ、穴あきボールから大量によだれを垂らし、まだ興奮気味に息を荒くしていた。声は聞こえているはずだから、何をされるかも分かっているとは思う。ただ、それ以上のことは何も分からない。
「あなたの中の、黒い水を強制浄化します。少し驚くかも知れませんが、直ぐに楽になります。我慢してくださいね」
シスター長は優しく言って、雷斗の身体にそっと両手を伸ばした。
左手を雷斗の脇腹に添え、右手に魔力を集中させている。右手の甲に鳥の羽をあしらった美しい魔法陣が浮き出て、銀色の光を放ち始める。
「世界を庇護する半竜の神よ。闇に囚われし迷い子を聖なる光で導かれよ……!」
祈りの言葉を捧げた、次の瞬間、僕は目を疑った。
イザベラシスター長の右手が、手首まで雷斗の腹にめり込んでいた。
「手が……!」
驚き、前のめりになる僕を、ウォルター司祭が牽制する。
「中毒症状が酷くなると、外側からの魔法だけでは効かなくなる。身体の内側から浄化するために、イザベラはこの方法をとっているのです。彼女だけに使える強制浄化の“特性”。これが、まだ若い彼女がシスター長である理由。これまでも多くの中毒者を救ってきました。信じてお待ちください」
銀色の光が強まり、雷斗を一気に浄化していく。
黒いもやが達どころに消え、生臭さもどんどん消えていった。
それまで力み続け、唸りをやめなかった雷斗も、全身の力を抜き、椅子に身を預けたように背を丸め、首をだらりと落としている。
光が、徐々に弱まっていく。
雷斗の呼吸も、次第に緩やかになっていった。
シスター長はゆっくりと雷斗の身体から手を引いた。その手には、内臓に触れたような跡も、血のようなものが付着する様子もない。懐からハンカチを取り出し、サッと拭くと、シスター長はハンカチをしまい直してからゆっくりと息を整えていた。
「終わりましたよ。頑張りましたね」
シスター長は雷斗に優しく話しかけた。
それからすっくと立ち上がって、騎士団長の方を向いた。
「拘束を解いてあげてください。もう、大丈夫だと思います」
騎士団長は椅子の後方に回り、雷斗の顔に巻かれた布を外し始めた。
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