5. 満身創痍

 暗闇の中にいた。

 何も見えない、何も聞こえない、手足の感覚すらないところ。

 巨大なものが近くにいて、僕を真上からじっと観察しているのが、微かに気配として感じられる。

 全身の力が抜けて、僕は仰向けになってどこかに浮いていた。

 息をしているのか、意識があるのかも定かではない、不思議な場所。


『苦しくはないか』


 誰かが僕の頭の中に直接話しかけてくる。

 これは、誰の声なのだろう。

 凌だと思ってた。でも本人は否定した。じゃあ、この柔らかい男の声は、誰の。


『白い竜を、人間はどうしても受け入れようとしないんだな』


 どこか寂しげで、どこか辛そうな。

 それでいてトゲがなくて、優しさの溢れる声。


『……君は、人間が憎くはないのか』


 絞り出すような言葉が、胸に刺さる。

 憎いなんて思わないよと、言いたくても声が声にならなくて、僕はじっと耳を澄まし続ける。


『それは何故? 君は恐れられている。決して君が誰かを傷つけようとしなくても、相手は君を傷つけようとする。君が、白い竜だからだ。それでも君は、人間を憎いとは思わないのか?』


 ――思わないよ。

 みんな、心が弱いんだ。

 本心からそう思う。

 強い振りをしていた伯父さんだって、凌のことが恐かっただけだった。知らない世界と行き来していた、理解不能な力を持つ凌の存在を受け止めきれず、攻撃的な行動に出てしまった。そして、その恐怖が伯父さんをかき立てて、雷斗を追い詰めた。

 雷斗は、伯父さんの高圧的な態度と、その理由を知らずに苦しんだ。凌と伯父さんの間に何が起こっていたか、どうして二人は心を通わせることが出来なかったか知っていれば、もしかしたらあんなことにはならなかったかも知れないけれど、過去はどうにか出来るものじゃない。

 伯父さんの行動の裏に、僕という存在があったことに気付いた雷斗は、自分自身の存在を認めて欲しくて、リアレイトを飛び出した。“神の子”と呼ばれる僕の存在を憎んだのも、黒い水の闇に呑まれたのも、雷斗の心が弱かったからだ。弱くて、寂しさと苦しさに負けた。

 神教騎士団の団長さんも、僕の力を吸い取った途端、黒い水に呑まれた。団長さんは、自分の心の弱さを知っていた。

 心の強い人間なんか、どこにもいない。

 僕の“特性”を弾いていたディアナ校長も、僕を無理矢理竜化させたローラ様も、大事なことは全部隠して僕を育ててくれた父さんや母さんも、みんな、必死に弱い心を繕って生きている。


 恐怖や、憎悪は、そうした弱い心から生まれてくる。

 だけど、それを表面化させるのは賢いことじゃないと、みんな自分の心をグッと押さえつけて理性を保とうとしているんだ。

 それが、あまりにも強い重圧に負けたり、急激な環境の変化や突然の出来事によってたがが外れたみたいになってしまうと、真っ黒い闇の力を纏い始める。

 僕も、自分の秘密を知らされて何度も暴走しかけた。それは、秘密を受け止めきれるような強い心を持っていなかったからだ。弱くて、壊れそうで、なよなよしていた。

 少しずつ、いろんなことを受け止められるようになってきたから、伯父さんのことも雷斗のことも憎まずに済んでいると信じたい。


 ――凌のことは、まだ、整理が付いていない。


 けれど、心の色すら見えない彼が、完全に悪に染まったとはとても思えなかったし、リサさんのことも、もしかしたら今僕に話しかけているこの声も、彼の中にまだ熱く滾っている良心が、不甲斐ない息子のために尽力してくれているのだと信じてる。

 憎むなんて、出来ないよ。

 みんな、必死なんだから。

 必死で生きて、偶々どこかでボタンを掛け違っただけ。意思疎通の手段を間違えただけなんだ。


『……そうか』


 声はそう言って、ため息をついた。











『君はまだ、自分の中の本当の闇を見ていないのだな』






 *






 目が、覚めた。

 ベッドの上だ。

 知らない天井、知らない部屋。

 大量の汗を掻いていて、肩で息をしているのが分かった。

 視界の外から白地に青いラインの入った修道服の女性がスッと現れ、そこでここが、オリエ修道院のどこかなのだと理解した。


「気が付いたみたいですよ」


 シスターが部屋の中にいる誰かに声を掛けている。

 僕はどうにか起き上がろうと上半身に力を入れ……、腹部の激痛に悶えて、そのままベッドに吸い込まれた。

 右の脇腹を、二回刺されたんだ。左半身は火傷が酷い。他にもあちこち切り傷があって、全身包帯だらけだ。

 気を失っている間にリサさんが竜の力を吸い取ってくれたのか、身体はすっかり人間に戻っていた。けれど、怪我が酷すぎて回復が間に合っていない。

 自分でもどうにかできるよう、回復系の魔法も習得しなければならないのかも知れない。いや、それより、もっともっと強くなって、そもそも怪我をしないで済めば。かといって、攻撃ばかり強くなったのでは意味がない。強くなりすぎて周囲を傷つけてしまってはいけない。

 自分の力をコントロールしていくためにも、ある程度強くなることは必要なんだけど、このバランスが難しい。僕の身体と力のバランスがちぐはぐなうちは、こうやって何度もぶっ倒れてしまうことも想定しておかなくちゃいけないんだろうか。


 仕方なしに枕の上で頭を動かして辺りの様子を確認する。

 沢山のベッドが整然と並んでいる、白を基調とした清潔感のある部屋。病室のようにも見えるけど、もしかしたら寄宿舎かどこかの一室なのかも知れない。

 窓の外からは、崩れた礼拝堂が見える。

 いつの間にか、日が傾いていた。西からの日差しが、眩しい程のオレンジ色で辺りを包んでいる。

 僕は一体、何時間くらい意識を失っていたんだろう。


「――大河君!」


 高い声と共に、蜂蜜色が身体の上に降ってきた。


「ぐわっ!」


 急激にかかる重さと傷の痛みに声を上げると、


「リサ、怪我人に追い打ちかけないの!」


 アリアナさんの厳しい声があとから付いてくる。

 蜂蜜色の正体は、リサさんだ。いつもの柔らかい匂いと、杏色。


「わわわっ! ご、ゴメン大河君。大丈夫だった?」


 リサさんはガバッと起き上がって、僕を真上から見下ろした。

 目が腫れている。鼻も赤い。


「うん……。どうにか」


 無理矢理笑って見せたけど、本当はかなり痛かった。

 変な汗があっちこっちから噴き出して、でもそれを拭き取るような体力もなくて、ただ口角を上げるので精一杯だった。


「回復魔法、もっと精度上げないと、私の力じゃ全回復とまではいかなくて。……ゴメンね。あまり役に立ってない。大河君のそばにずっといなきゃならなかったのに」

「あ、あはは……。そんなの、気にしなくて良いよ。あそこで黒いスライム達を、リサさんとアリアナさんが引きつけてくれたから、あの場はどうにかなったんだし。それに」


 ――リサさんに、醜い僕を見られたくなかった。

 結局、最後には見られちゃったわけだけど、心がざわついて竜の力が溢れ出し、徐々に姿が変わっていくあの課程を見られたくないと、いつもどこかで思っている。


『自分の中の本当の闇』と、あの声は言った。

 その闇というのは多分、白い竜の力のこと。

 僕はまだ受け止め切れてないこの事実から必死に目をそらそうとしていて、その結果、リサさんに頼らなくちゃならないクセに、リサさんに自分を曝け出すのを怖がっている。

 だからあの場にリサさんがいなくて良かったなんて、思ってしまうんだ。


「それに?」


 リサさんは無垢な深緑の瞳で僕を見つめている。


「えっと……、雷斗! 雷斗は無事?」


 起き上がろうとしてお腹に力を入れて、また失敗した。

 結局数センチも頭が上がらなくて、そのままベッドに逆戻り。


「うん。無事、だけど……」


 リサさんは助言を求めるように、後ろのアリアナさんを振り返っている。

 アリアナさんはばつが悪そうに頭を掻いて、ハァとため息をついた。


「一応、無事。そんなことより、タイガは自分のことだけ考えて。今は体力回復。もうじき、中央の古代神教会から、医学にも明るいシスター長が司祭と一緒に来るそうだから、そこでしっかり治療して貰うように。一般の病院じゃ、竜の血の混じってるタイガの治療は難しいだろうって、みんな頭を抱えてたよ。変に刺激して竜化しても面倒だって言われたら、ぐうの音も出ないじゃない。ホント、無理しないでよね」


 一般の病院じゃ、難しい……。

 改めて言われると、結構傷つく。


「黒いスライムは、みんなやっつけた?」

「うん。ジークさんが虫型カメラの映像で見てて、慌てて飛んできてくれて。ひじりの魔法は、聖職者とか上位の干渉者とか、限られた人にしか扱えないから、凄く助かった。火や光の魔法で弱らせたあと、一気に殲滅した感じ。団長室のスライムも、ノエルさんが弱らせてくれてたから、直ぐに駆除できたみたい」

「そうなんだ……。良かった」


 リサさんの話を聞いて、少しホッとした。


「ジークさんとノエルさんは?」

「騎士団長のとこ。あちこち壊れちゃったから、その確認とか、雷斗君のこととか、大人の話だって追い出されちゃった」

「団長さんは、無事?」

「無事だよ。大河君を傷つけたこと、とても後悔していた。闇の力に操られてたから仕方ないって、ノエルさんも言ってたんだけどどうも収まりが付かないみたいで、諭すのに時間がかかってたよ。それで、その――、大河君の力についても、色々確かめなきゃいけないことが出てきたんじゃないかって、多分、そういう話をしてるんだと思う」


 ――確かめなきゃいけないこと。

 思い当たる節がありすぎて、胸がギュッとする。

 苦しい。

 僕自身で解決できることだったら良かったのに。


「あ~あ。また辛気くさい顔してる」


 アリアナさんが、ズイッとリサさんより前に出て、僕の顔をじろりと見た。

 僕はギョッとして、目をぱちくりさせた。


「でも、女子寮で出会ったあのときの顔よりは良いけど。どうせまた、自分のせいでこんなことって思ってるんでしょ? バッカみたい」


 腰に手を当て、気の強い性格そのままに、アリアナさんは僕に言い放った。


「勝手にリアレイトを飛び出したのはライトだし、勝手に負の感情を膨らませていったのもライトでしょ。結果、あんなふうになっちゃったのだとして、それが全部タイガのせいだなんて、誰も思わない。やたら抱え込もうとしないで、もっと周囲を頼んなさい。悪いけど、私が首突っ込んでるのは私のためだからね。そこにタイガが変な責任感じたりする必要なんてないの」


 清々しいくらいの正論に、僕はちょっと居心地の良さを感じていた。

 迷い、後ろ向きになりそうなときにアリアナさんみたいな人がいると、助かる。

 アリアナさんの向日葵色は、本当に眩しくて……。


 ――パンッパンッと、誰かが手を叩く音がして、僕らの目線は一気に部屋の入り口に向いた。


 白い修道服に金糸で美しい文様が刺繍が施された、明らかに位の高そうな聖職者の男と、髪の毛を布で隠し、やはり金糸の刺繍を施された白い修道服のシスターが、オリエ修道院の数人のシスターを引き連れ、僕らの方へ向かってきていた。

 聖職者独特なんだろうか、グレーに近い、落ち着いた色をそれぞれ纏っている。

 さっき話に出た司祭とシスター長というのが、手前の目立った格好の二人なんだろう。

 オリエ修道院のシスターの一人が僕の方を手で指し示すと、司祭とシスター長はこくりとにこやかに頷いて、僕らをまじまじと見ていた。

 リサさんもアリアナさんも、流石にギョッとしてちょっとだけ僕から離れ、姿勢を正したようだ。

 騒がしかった部屋が急にしんとして、僕の胸は少しざわめきだした。

 何だかいつもと空気が違う。

 嫌な予感はしたけれど、僕は全身怪我だらけで起き上がることすら難しい。顔を向けて、彼らの動向を見守るしか出来ないでいると、司祭が数歩前に出て、突然僕の横たわるベッドの真ん前で片膝を折った。


「――お初にお目にかかる。“神の子”よ。これまでの我が教会の無礼を、どうかお許しいただきたい」


 司祭はそう言って、片膝をついたまま、深々と僕に頭を下げた。

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